血天井の話 ・ 後編

 伏見城で壮絶な死を遂げた徳川の忠臣・鳥居元忠の首は大阪城京橋口に曝されたが、元忠を慕う町人により供養され、京都百万遍知恩寺にその墓がある。(注意・浄土宗の本山知恩院とは別のお寺です)京都市左京区京都大学今出川通りを挟んだ北側にある百万遍知恩寺では毎月15日に「手作り市」という各々の手作りのアクセサリーや洋服、食品等の市が開かれるので、もし機会がありましたらどうぞ。って、私が行きたいんやっちゅうねん。


 元忠達の遺骸が二ヶ月放置され、血が染み付いた伏見城の床は京都東山の養源院、大原の宝泉院、鷹ヶ峰の源光庵などの幾つかの寺で血天井として現在も見ることができる。豊臣家が大阪の陣で滅んだ後に、徳川家康がまずやったことは豊臣家が築いたものを徹底的に破壊することだった。豊臣秀吉の眠る京都東山阿弥陀が峰の豊国廟、そして伏見城も取り壊された。取り壊された伏見城の遺構は、今でも二条城等の京都の幾つかの場所で垣間見ることが出来る。そして、元忠らの血が染み付いた本丸の床は、徳川家光の母、淀君の妹、織田信長の姪である崇源院お江与の方)により再建された養源院へと祀られた。


 今年に入ってすぐのことでした。東良さんからメールを頂いて、猫達との日々を描いた本の中に、「藩金蓮さん」が登場するのですが出版にあたって承諾していただけないでしょうかとのこと。そして私が登場する箇所を読ませて頂いた。そして「久しぶりに養源院へ行こう。」と思い立ったのです。


 土曜日、午前中で仕事を終え、私は京阪電車に乗り七条駅で降りました。七条駅から鴨川と京都タワーを背にして七条通りを東へ向かいます。しばらく歩くと右手に蓮華王院三十三間堂が、左手に京都国立博物館が見えてきます。この七条通りの突き当たりにある山が阿弥陀が峰という豊臣秀吉の眠る山です。国立博物館の手前を曲がり北へ行くと大阪の陣のきっかけとなった「国家安康君臣豊楽」の鐘がある方広寺や、秀吉を祀る豊国神社、秀吉が朝鮮出兵の際に敵兵の耳を切り取りそこに埋めたと言われる耳塚などがあります。よくよく考えれば禍々しい場所です。豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺の鐘には淀君の怨念が籠もっていると言う話もあります。晩年の秀吉の愚挙の最たるものである朝鮮出兵の際に持ち帰られた耳を埋めた耳塚など、CMなどで見られる「古都の風情が感じられる」はんなりした京都の裏の顔がそこにあるのです。
 七条通りを突き当たり東大路を北へ歩くと清水寺高台寺などがあります。高台寺は秀吉の糟糠の妻である北政所が晩年に秀吉の菩提を弔いながら余生を送った場所です。この高台寺の創建に尽力したのは徳川家康です。家康は豊臣家滅亡の後、豊臣家の縁のある物を徹底的に排除しているのですが、唯一の例外がこの北政所です。


 何故、家康は北政所に対してここまで手厚く接したのか。
 それは、家康が豊臣家を滅亡させる際の、最大の協力者がこの北政所だったからだと私は考えています。関ヶ原の戦い石田三成と対立し家康率いる東軍に着いたのは、加藤清正福島正則という北政所を母のように慕う武将達でした。何よりも関ヶ原の戦いの雌雄を決した最大の要因は西軍小早川秀秋の裏切りでした。小早川秀秋は、北政所の甥に当たります。

 北政所は、豊臣家の滅亡を望んでいたのではないのか、豊臣家を憎んでいたとしか思えないのです。彼女が秀吉と築いた豊臣家を滅ぼす為に、徳川家康と手を組んだのではないか、と。

 糟糠の妻だった彼女には子供が出来なかった。いや、彼女との間だけではなく、他の側室との間にも秀吉は子供を作ることが出来なかった。しかし、50を過ぎた秀吉の側室となった淀君との間にだけは子供が生まれました。世の人々は、あれは秀吉の胤では無い、子供の父は大野冶長か石田三成かと噂しました。しかし例え秀吉の胤であろうとなかろうと、秀吉はその子供と、その母である淀君を溺愛したのです。淀君の母は、織田信長の妹お市の方。かって秀吉が恋焦がれて遂に手に入れることの出来なかった美しく誇り高い女性でした。

 糟糠の妻として豊臣家の家臣達に信頼され、他の側室からもその庶民的な人柄故に敬愛され、秀吉自身からも「正妻」として立場を重んじられていた北政所は、「女」として愛された淀君を憎んでいたのではないのだろうか。そして彼女は自分を妻としては大事にしたけれども、お市の方淀君と、他の女を愛し焦がれ続けていた秀吉への復讐の為に、豊臣政権を滅ぼしたのではないだろうか。お市の方淀君、そして北政所。この三人の女性の人生は、「女」として生きることにおいて、いろいろ考えさせられるのです。


 話が脱線しすぎましたね。京都はネタがありすぎる。私は三十三間堂の北にある養源院の門を潜りました。血天井のある養源院の隣が赤十字の血液センターだというのはシャレなのでしょうか。養源院を訪れるのはおそらく15年ぶりぐらいです。短い参道を歩き靴を脱ぎ堂内に入りました。お寺の人が、説明をして下さいます。上を見ると黒いシミがまだらに染み付いた血天井がただ静かにそこにあります。手の跡、腕の跡などがはっきり見てとれます。確かに、間違いなく、この小さなお寺に徳川の忠臣達の壮絶な死の跡が存在するのです。テレビの時代劇などの切腹場面は桜の舞い散る下で白装束を着た武士が静かに腹に刀を当て、そこで場面が切り替わります。勿論実際の切腹はそんな綺麗なものじゃないわけで、この天井を染めるおびただしい黒いシミと苦しみもがいた手の跡などの方が「切腹」の真実です。大原の宝泉院の血天井などは血が人の顔の形で残っており、目が合うのです。苦しみ悶えて死んでいった武将の目に射られて背筋が凍ります。

 
 作家の三島由紀夫自衛隊の市谷駐屯地で切腹した時には森田必勝が介錯して三島の首を切り落としました。何故に介錯する人間が必要なのか。それは人間は腹を切ったぐらいでは簡単に死なないからです。腹を切ったぐらいではすぐには死なないので腸が飛び出し苦痛に身体は戦慄き、それでも死なずにのた打ち回るので、その様子はこの上なく壮絶で醜く辺りを汚すために息の根を止める介錯が必要なのです。
 それならば最初から斬首すればいいのではないかと思いますが、腹を切ることに意味があるのです。新渡戸稲造は「武士道」という本の中で、「腹部には霊魂と愛情があるという古代からの信仰」故に、腹を切るのだと書いています。つまりは切腹というのは、肉体的な自死ではなく、魂の自死だということです。そしてそれは、身分ある武士にしか許されませんでした。「武士道」という誇りある魂を持つ者に与えられた特権的な死だったのです。山本常朝の「葉隠」の中の有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一文がありますが、武士道の「死」とは肉体的な死ではなく、魂の死なのです。


 ここからは私の解釈なんですが、魂の死とは、消失では無いと思う。昔、テレビで上岡龍太郎が「愛とは何ですか」と問われて「その人の為に死ねること」だとか答えていた記憶があります。

 例え話なんですが、恋をするということは、世界に自分以外の人間の存在を発見することで、そして人は一人では生きていくことが出来ないのだということを知ることだと思います。一人で生きていくことが出来ないことを知る故の葛藤や孤独もそこで生じてしまうから苦しくなるし不安にもなる。そして、恋が恋のままで終わってしまうのではなく、愛へと変わる時、人は自分の存在を、「我」を消すことが出来るのではないかと思うのです。恋によって、自分以外の人間の存在を知り、愛によって、その人が自分以上に価値がある存在になり、そこで「我」が失われ、一体化するのではないかと。だからこそ、人は一人では生きていけないことを知ることが、恋愛なのではないかと思うのです。



 わかりやすい例として「恋愛」の話を使いましたけれども、勿論それは男女間の恋愛だけの話のわけがなく、親子関係、主君と家臣、友人関係など、どれも同じなんじゃないかと思うのです。
 そして世界に自分以外の人間の存在を発見して、人は一人では生きていけないと知ることは、今までの自分の世界がひっくり返ることでもあるし、喪失を恐れ孤独を知ることでもあります。一人で生きていけると思っているより、一人で生きていけないことを知る方が、ずっとずっと孤独です。そして怯え続けなければいけない、自分の存在の半分である人を失う日が来ることに。だけど人が人を愛してしまうということは、そうやって世界が変わるということと、孤独を知るということが、人にとって本当に必要なものだからなのではないでしょうか。一人で生きていけないということを知るということは、怖いことだけれども、でもそれは切実に必要なことなんだと思う。なんで必要なのか、わかんないけれども、生き伸びる為に、幸せになる為に、与えられる出来事なんじゃないかなと思います。


 魂の死ということは、「我」を失うことなんじゃないかと思ったのです。鳥居元忠で言えば、「我」を消して、それにより家康という「愛」の対象と一体化することが出来たのではないかと。そんなことを考えました。



 伏見城の本丸で腹を切り苦しみにのたうちまわる武将達の壮絶な生々しい跡が残る血天井。その光景を想像すると確かに怖い。そして間違いなく、その壮絶な血と内臓の匂いにむせ返る場面は、私の真上にある、かって伏見城の床だった天井で展開された「本当にあったこと」なのです。怖いけれどもそこには人間の生命力がある。人間は簡単には死なない、死にたい死にたいと思っていても苦しんで苦しんでもう耐えられないと思っていても死なない。
 死んでしまう人間もいるけれども、今現実に生き残っている人間だって、何度か死にたい死にたいと願ったことはあるんじゃないんだろうか。死にたいと思ったことって、無いですか? 何でこんな苦しい思いする為に生まれてきたんだろうって、死んで楽になりたいって、死んだ方がマシだって、どうしてこんなに苦しいのに生きなければいけないんだろうって。
 

 腹を切り、苦しんでもがいて床に爪を立てて呻きながらも人は簡単には死なない。何故なら、生きたいから。生きたい生きたい生きたいと身体と心が切に叫んでいるから苦しむのではないか。
 生きたいと切に叫ぶが故に、凄まじい苦しみの跡を残した400年前の武将達の「生命力」がそこに確かに存在するのです。人間は弱い生き物で、すぐに壁にぶつかってへこたれて苦しんでしまうけれども、本当は強い。生きようとしているからこそ苦しむのだと思う。そう思うと、苦しむ人間こそが救われるのではないかとも思うのです。苦しむことこそが、生命力ならば。


 400年前の生きたい生きたい生きたいともがき苦しんだ武将達の血の跡は、その生命力のエネルギーの凄まじさを下にいる私達に浴びさせて、圧倒させるのです。


 先日も書きましたけれども、苦しんでいる人間と、苦しむのが好きな人間は違う。苦しんでいる人間は、救われようと必死にもがいて全身の力を使い水の上に顔を出して呼吸をし太陽の光を浴びようと切に願い続ける。
 苦しむのが好きな人間、苦しむことで自己確認をしたい人間、苦しんでいる自分を演じることで他人に構われたい人間、そういう人達はただぬるい水の中で浮遊している。誰かが見かねて手を差し伸べてもその手を払いのける。だってこのぬるい水の中が居心地がいいのだもの。ただ流されて何も動かず考えずにいる方が楽チンなんだもの。そうすることしか出来ない人間は、いつまでもそこにいればいいと思います。そうしてぬるい地獄の中で同類を見つけて馴れ合って狭い世界の中で人を不愉快にして、周りに見捨てられることも気付かずに何事も他人や社会のせいにして自分に酔っていればいい。


 私はそういう人間を軽蔑しているし、同情はしない。
 自分の中のそういう部分も軽蔑しているので、そういう「苦しみたがる自分」が顔を出そうとすると、寺に行きます。そして苦しみから救われたいと思ううちは、まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だと思いながら手を合わす。苦しみたい自分、苦しみに酔う自分には反吐が出る。憎悪するけれども、でも確かにそれも自分の中の一部分として存在します。だからこそ、未だに、時折「死にたい」なんて思ってしまうのです。本当は死ぬ気なんて全く無いくせに。



 養源院を出て、少し歩きました。かって、私はこの辺りに住んでいたのです。そこは禍々しい場所でした。醜く歪んだ畜生のような生活をして、自分を愛さない一人の男の愛情と性を餓鬼のように渇望しゴミ溜めみたいな部屋で死にたい死にたいと未来から目を背けて腐った日々を過ごした場所です。自分で自分に呪いをかけて人間じゃないような生活をして身も心も醜くしていった数年間を思い出すと息苦しくなります。
 今現在は、その頃から比べると少しはマシになったものの呪いは完全に解けたわけではなく、今でもふいに嫌な記憶が蘇り絶望的な気分に襲われることがあります。例えば私が自分は人と共存することが出来ないから一人で生きていかねばならないと思い込んでいることも、それは自分が自分にかけた根拠の無い呪いだということに最近気付いたのです。そうやって無意識にいろんな呪いを自分で自分にかけていた「苦しみたい」卑怯な私を、これから少しずつでも何とか解放してやらねばと思うのです。死にたい死にたいと死ぬ気も無いのに唱え続けて生きる方が楽なのです。生きて行こうと、生きて自分以外の人間と共にこれから起こりうる様々な苦しみや悲しみと対峙していこうとする方が、明らかに大変なのですから。

 大変だけど、死にたい死にたいと自分の殻に籠もりぬるい水の中を浮遊して腐臭を発しながら老いていくだけの人生よりは、苦しいけれども何か幸せな未来が存在することは間違いないと思う。どうやったって、苦しいことや悲しいことを避けて生きることなんて出来ないわけで、それならば苦しみと痛みと共に、生きていくしかないのだから。


 数年ぶりに、かって自分が住んでいた禍々しい場所に私は訪れました。身も心も醜くし自分と世の中を呪い続けた穢れた場所に。今は、あの日々は、本当は夢だったんじゃないかと思うこともあります。悪い夢だったんじゃないかと。だけどそれは確かに実際にあった「本当のこと」なのです。



 名神高速道路を東へ行くと岐阜県滋賀県の境が関ヶ原の戦いのあった関ヶ原町で、西へ向かうと大阪府京都府の境が明智光秀豊臣秀吉が戦った大山崎町で、奈良から京都へ向かうと右手に伏見城の跡に昭和の時代に立てられた伏見桃山城が見えて、京都市内に入って堀川通りを北へ進むとかって織田信長が亡くなった本能寺の跡(現在本能寺は河原町御池に移転)があって、どれもこれも「本当にあったこと」なんだよなぁと思いながら私はマイクを持ってつらつらと話をします。歴史って、おもしろいなぁって思いながら。全部いろんなものごとが、どこかで必ず繋がっていて、本当に面白いなぁって思いながら。


 自分があの禍々しい場所で男を待ってサラ金地獄に陥り堕落した生活を送っていたことも、今は夢のように思えてしまうけれども、間違いなく「本当にあったこと」で、だからこそ未だに呪いに囚われ記憶に怯えている自分がいるのです。忘れることも出来ず、無かったことにしてしまうことも出来ず、「本当にあったこと」をそのまま受け止めるしか出来ないけれども、確かなのはその時代より、確実に幸せな今の自分がいるということで、そのことを信じて生きていくしかないのです。


 これからも苦しいことは、きっとたくさんあるだろう。だけど、私と、私の好きな人達が幸せになることを信じて、自分の力ではどうにもならないことに遭遇した時は祈って、生きていこう。


 生きることを諦めなければ、苦しみに遭遇しても、その先には何かがあると信じて、祈って、生きていこう。
 これから先、生きていけば苦しみにも遭遇するけれども、生きててよかったと思える出来事は、間違いなく目を閉じずに前を向いていたら、必ず遭遇することができる。

 
 ありがとうございます。

 るんるーん。きゃーっ!