血天井の話 ・ 前編

 梅雨入りしたハズなのに、今日の京都は快晴で、洗濯物も良く乾くし布団も干しがいがあるなぁ。春の観光シーズンもようやく落ち着きましてホっとしております。これから秋まで永いオフシーズン。オフシーズンは社長秘所業中心となります。ふぅ。


 さてさて、先日、東良美季さんと京都でお会いしたことはここに書きましたが、その東良さんの「猫の神様」の期間限定ブログの最終回が昨日UPされました。http://www.shinchosha.co.jp/topics/nekokami/2007/06/post_33.html#moreしっかり藩金蓮さん(ひとごとみたいに書きますが)も登場しております。いやん恥ずかしいん。「猫の神様」の御本の中とか、猫の神様ブログの中の藩金蓮さんだけ見たら、こんな下品な日記を書いてる女やとは思えませんねっ! 実際に、mixiの足あと辿ったら、「猫の神様」を読んで訪れた猫好きらしき方達は、二度と足あとつけられませんの(笑)下品でびっくりするんやないかなぁ。mixiのプロフィール欄の名前からして下品やし。



 それにしても「猫の神様」ブログ、コメント欄にもありましたけれども、どっかに残して欲しいですよ。自分が登場人物やからということを差し引いても、このブログそのものが、「猫の神様」という「私小説」のエピローグの物語なのだから。私がこういう事を言うのも差し出がましいのかも知れませんが、これを読んで思ったのは、「猫の神様」を読んだ人達は、自らの「大事な誰か」を失った経験から生まれた感傷とリンクさせて泣いたと思うんですね。「共感」して、「感動」されたと思うんです。そして、そこで完結することも出来たし、それで充分読者は満足したのかも知れないけれども、あの新潮社の猫の神様ブログがああいう形で完結することによって、読者の人へ、「共感」「感動」の先にある希望の光みたいなものが指し示されたんやないかなぁと思ったのです。そこで、立ち止まっちゃいけないよ、もっともっと未来には何かがあるんだってことを。
 「共感」させて「感動」させるということだけに留まらず、その先にあるもの、そしてそれこそは、他の誰でもないあなた自身の希望なんだというところに読者を導いて、「発見」させることって、凄いことだと思う。そして、それこそが本当に人が求めていることだと思うんですね。「共感」の先にあるものを「発見」させるということは。本当に、凄いっすよ。鳥肌が立つぐらい。ちんちん勃つぐらい(←下品でホンマにすいません)。
 やから、この「猫の神様」ブログは、何らかの形で残して欲しいし、是非とも「猫の神様」の本と一緒に読んで頂きたいと思います。藩金蓮さん、ええ役で出てるしね! (←しつこいっちゅうねん)


 ほんで、「猫の神様」本編に登場した私の書いた「血天井」のエピソードですが、これは随分前にmixiの日記にちょこっとだけ書いたものです。これを読みたいという要望が(一人からだけやけど)ありましたので、そのままUPしようかなぁと思いましたが、実は何にも調べずに適当に書いた物なので、ちょっと史実(と、されているもの)と明らかに違うこと書いてるんですね。内容自体には影響が無いんやけど、明らかに間違ってることを堂々と書いてるんで、改めて書くことにしました。それに、私自身もそれを書いた時から一年半という時間を経ていろいろ状況も変わったし思うこともあるので。
 血天井鳥居元忠、養源院と、「時間」について、ちょっと長くなりそうなので、今日明日と二回にわけて書きますわん。



            ☆ ☆ ☆


 慶長3年9月8日。京都伏見城にて豊臣秀吉死す。享年61歳。尾張中村の足軽の子として生まれ、戦国の乱世の濁流の中を己の知恵と才覚で泳ぎきり、天下統一という岸に辿りついたこの国の歴史の上の人物の中で最も類稀なき英雄と言っていいであろうこの猿に似た貧弱な小男の命の火が消えた。死の間際には、徳川家康五大老を集め、老年になってようやく生まれた一粒種の嫡子秀頼の事を頼むと懇願し続けたという。辞世の句は、

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

 
 そして秀吉の死は、再び来る乱世の到来を告げるものだった。秀吉の嫡子・秀頼はその時わずか5歳。秀頼の母・淀君織田信長の妹・お市の方の長女だった。豊臣家の家臣の信頼の篤い秀吉の正室北政所は秀吉亡き後、秀吉の骸が葬られた京都東山阿弥陀ヶ峰の近くに居を構え出家して高台院となり政ごとから身を退く。大阪城には淀君と幼い秀頼と、豊臣家五奉行の一人石田三成らが残る。豊臣家ゆかりの大名の中には、淀君、そして三成を快く思わない者も少なくは無かった。北政所派と呼ばれた福島正則加藤清正達などである。
 豊臣秀吉という稀代の英雄が一代で気付いた豊臣政権の脆弱さにおそらく日本史上最も「政治的能力」に優れた徳川家康がこれを黙って見ている筈が無かった。

 しかし、あくまで政権は豊臣家にある。ただ理由も無く豊臣家に牙を向けると「謀反人」となってしまう。家康は自ら戦を仕向ける側であってはならないので、戦を起こし豊臣家を弱体化させる大儀名分が必要だったのだ。
 また、秀吉亡き後、その遺言を破り大名の婚儀など豊臣家の許可無しに動く徳川家康に対して石田三成らも征伐の機会を伺っていた。


 時代は噴火を待つ山の如く、マグマを蓄え微動していた。豊臣家五大老の一人である前田利家が亡くなり、家康が牙を剥く枷となるものは何一つ無くなった。


 豊臣秀吉が築き、そこで没した伏見城は、秀吉亡き後は徳川の城となっていた。
 そして秀吉の死の二年後の慶長5年、再三の上洛要請にも関わらず動かない上杉景勝を討つ為に徳川家康は東北会津に向かうことを決めた。徳川の大軍が畿内を離れることは、徳川の城である伏見城が手薄になり、そこに石田三成らが急襲することは容易に予想できた。そして、それこそが家康の思うツボだったのだ。伏見城に三成らが攻め入れば、戦の口実が出来る。
 家康は、伏見城を戦の口実を作る「捨て城」とすることを決めた。徳川の兵達は東北へ向かうので、伏見城は手薄にならざるを得ない。しかし、そこを空にするわけにはいかない。誰かが「捨て城」に残らねばならぬのだ。手薄になった伏見城に三成らの大軍が攻め入れば、間違いなく陥落する。誰かが伏見城に残らねばならぬ、死ぬことを約束されて。
 誰が、残るか。


 家康は悩んだ。死ぬことを約束されて誰かが残らねばならぬ。誰を伏見城に残すか。死を持って徳川への忠誠心を貫く者なら幾らでもいるだろう。豊臣秀吉が生涯、家康に対して羨望したものは、この「三河武士」と呼ばれる徳川家の家臣達だったという。成り上がり者の秀吉が得ることの出来ない、先祖代々から徳川(松平)家に仕える、主君の為なら自らの命を捨てることのできる家臣団が、家康の下にいた。されど、その心を知るが故にこそ家康は苦悩していた。誰を、伏見城に残すか。


 そこで我こそはと名乗り出たのは、老臣・鳥居元忠だった。元忠は13歳の時から、当時10歳でまだ竹千代と呼ばれていた頃の家康に仕えていた。家康は、幼少期から青年期までを今川義元の人質として過ごした。父の松平広忠は家臣の手により殺され母とは離されて、親を知らぬ家康は長きに渡って人質として忍従の日々を過ごしていた。その頃から、50年に渡り家康の下に仕えていた鳥居元忠はこの時、61歳。家康が生涯一度だけ敗北した武田信玄との三方ヶ原の戦いで負傷し足が不自由になっていた。

 「この老いぼれの最期の花道を伏見城で飾らせてやってはもらえませぬか。身体も思うままにならぬ老いた我が身が、戦場へご一緒しても動けませぬ。ならばこの城を守り、三河武士ここにありと、天下に知らしめましょう。」


 そう言って、元忠は伏見城に残ることを家康に願い出て、家康はこれを承諾した。

 家康が京都を離れる夜、元忠と二人きりで昔話に花を咲かせ一夜を過ごしたという。この時の家康の心中いかばかりか。家康の心をよぎったものは何だったのであろうか。あの時のことを思い出していたのではないか。家康最初の子供信康を、織田信長の命によって、その母築山御前と共に、徳川家を守る為に死を命じた時のことを。自らの子と妻を殺さざるを得なかった世の無常を。


 家康は、元忠と別れの盃を交わした後、一人むせび泣いたとも言われる。



 徳川軍は、畿内を離れ東北へ向かった。予想通り、ここぞとばかりに三成らが伏見城に攻め入ってきた。三成らの軍4万騎に対して、伏見城を守る鳥居元忠らの軍はわずか1800騎。伏見城は容易に陥落するはずだった。ところが鳥居元忠らの必死の奮闘により、予想外に手こずった。しかし圧倒的な数の違いは如何ともならず、10日後に三成らの軍が伏見城内に進入してきた。この時、鳥居元忠らの軍は、わずか200人ほどに減っていたという。降伏して城を明け渡せとの命令に元忠らは従わず、伏見城の本丸に集い切腹した。一説によると、元忠は切腹した家臣達を次々に介錯して、最後に自らの腹を切ったとも言われる。


 そうして伏見城は陥落し、その報を聞いた徳川家康は上杉征伐を中止し軍を引き返して西へ向かう。石田三成ら率いる西軍は畿内より東へ向かう。元忠らの死の一ヶ月後、慶長5年9月15日、滋賀県岐阜県の県境である関ヶ原にて、天下分け目の戦いの火蓋が切って落とされたのである。西軍小早川秀秋の裏切りなどにより、この戦は徳川が勝利する。伊吹山へ逃げ込んだ石田三成は囚われて京都鴨川六条河原で斬首され、その首が曝された。



 関ヶ原の戦いにより弱体化した豊臣家を、家康が大阪冬の陣・夏の陣で攻め滅ぼすのは、これより15年後の話である。
 
 伏見城で壮絶な死を遂げた鳥居元忠らの死骸は、その後、関ヶ原の戦いが終わり徳川方が畿内に戻ってくるまで二ヶ月の間放置されていたという。その間、切腹した腹部から流れ出た血は伏見城本丸の床へ染み込んでいったのである。

 
 そして、その伏見城の本丸の床を鳥居元忠らの供養の為にと天井に祀ってあるのが、京都東山の養源院という寺である。この養源院というのは、織田信長の妹お市の方の最初の夫・浅井長政法名である。家康に攻め滅ぼされ大阪城で命を絶った豊臣秀頼の母の淀君(お茶々)が父の供養の為に秀吉に願い出て建立した寺であった。一度その寺が焼失した際に、それを再建したのが淀君の妹であり、徳川家康の息子二代将軍秀忠の妻であり、三代将軍家光の母である崇源院お江与の方)である。崇源院がこの寺の再建を願い出た際に、豊臣家ゆかりの寺である事を配慮して、徳川の忠臣鳥居元忠らの冥福を祈るという名目ならということで再建が許されたのだった。





 養源院と血天井の話、続きます。

 


補足:お市の方と、淀君お江与についてはこちらに書いてます。
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20061127#p1
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20061128#p1