忘れてはいけないことがある


 私は神戸が嫌いだった。


 神戸には私が興味があるものが何も無かったから。お洒落な街、ファッションの街、港街神戸。若くてオシャレで着飾る楽しみを知る「女の子」の街のような気がしていた。「女の子」に羨望しながらなれなかったいびつな女である私は、神戸という街が象徴する華やかさや豊かさが自分の欠損部分であることを過剰に感じていた故に苦手だったのかもしれない。
 女の子達はオシャレで高そうな洋服を買う為に神戸へ出かけ、六甲山へ恋人と昇り神戸の夜景を眺めながら愛を告げられる。お洒落とか愛されて大事にされる恋愛なんて縁が無かった私にとっては、特に用事が無い限り足を踏み入れない街だった。

 
 京都が好き。大阪も嫌いなとこもたくさんあるけれども好き。だけど神戸は好きになれなかった。自分には一生縁が無いであろう豊かさと華やかさの香りが漂い、むせ返ってしまいそうだったから。


 いろんな街へ出かけて思うこと。
 街には街の顔があり、心があり、「人生」のようなものがあるということ。
 街と人とは同じだということ。



 私は、神戸が苦手だった。華やかで豊かで美しい一点の曇りもない「恵まれたお嬢さん」のような神戸が嫌いだった。


 1995年、1月17日。
 そんな神戸が、壊れた。



 あの時期、私は京都に住んでいた。地鳴りと揺れで目が覚めた。外は真っ暗だった。冷蔵庫が傾いていた。何度も揺れて、何が起こったかわからなかった。テレビもつかない、窓をあけても外は真っ暗だった。とりあえず大学の試験があったので、朝、外に出ると電信柱が倒れていた。大学の窓が割れていた。食堂のテレビで惨事を知る。神戸に住む友人に公衆電話から電話したが繋がらない。世界が終わったのかと思った。テレビの中の壊れた街は、私の知る神戸ではなかった。


 電話が繋がらなかった神戸の友人は無事だったけれど電話口で泣いていた。大学ではボランティアを募集して何人かが神戸の街へ行っていたけれども私は行かなかった。テレビでしか状況を伺うしかできない。

 神戸が燃えていた。
 神戸が壊れた。
 たくさんの人が死んだ。
 何も、悪いことをしていない、死ぬべきじゃない人達が、たくさん、死んだ。


 数ヵ月後、用事があって電車で神戸の街を通過した。
 廃墟だった。
 痛々しさに目を背けた。
 私はわずかばかりの義援金を募金箱に入れただけで何もせず、ただ、その惨事から目を背けて怖がることしかできなかった。
 廃墟の上にも青空が広がっていて、六甲山や神戸の海だけは何も変わらず以前のままだった。それ以外の物は、変わり果ててしまっていたけれども、相変わらずに空は目に沁みるほど蒼かった。痛いぐらい蒼かった。


 私は、神戸が怖くなった。好きとか嫌いとかの感情を超えたところで怖くなった。それからも相変わらず仕事以外では神戸へ行くことは無かった。そしてあれからいつのまにか10年以上経って、神戸の街は表面的には昔のような華やかで豊かな街に再生したかのように見える。

 
 けれども私の神戸の友人達は、地震で家や家族や友人を失った子達ばかりで、傷は確かに存在している。


 先日仕事で神戸の「人と未来防災センター」http://www.dri.ne.jp/へ行った。淡路島にある震災記念公園にも何度か行ったことがあるけれども、仕事でもないと、なかなかこういう場所には足を踏み入れることはないだろう。


 本当は、まだこの街は傷だらけなのだ。そしてその傷を忘れまいと、その痛みを忘れまいと、惨事の記録を残そうとしている。


 その時は広島の学校の修学旅行で神戸へ行ったのだった。
 広島という街にも仕事で何度も行っている。修学旅行の仕事であるから、必ず平和記念公園へ行く。去年、原爆の詩の朗読を聴いて仕事中なのに涙を堪えることができなかった。http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070123#p1一緒にいた生徒達も先生達も泣いていた。原爆の詩を聞いた感想を問われた一人の子供が、「もしも自分の大事な人が、死んでしまったらと考えると、」と言ったっきり言葉を詰まらせて嗚咽し始めた。


 五月に平和記念公園に行くと、薔薇が綺麗だ。
 去年、一番最近に行った時は、見事に雲一つない青空の日だった。


 街は壊れ再生して変わり続けても、海と山と空だけはずっと同じようにそこに佇んでいる。
 傲慢なことのような気もするけれども、たくさんの人の命が失われた広島、そして神戸の街へ行く度に、今確かに生きている自分の命というものについて考えずにはいられない。私のように死にたいと思い続けながら生き残った人間もいれば、生きることを切に願いながらの消えてしまった命もある。電車に乗って会社に通勤していると、「人身事故による電車の遅れ」の多さに最初は驚いた。けれども段々それが当たり前になってくる。
 死にたがる人間は、たくさんいる。かって私もそうだった。朝から晩まで死ね死ね死ねと自分で自分に唱え続けていた。何故死ねないのに、本当は死ぬ気などないのに死ね死ねと唱えるのか。弱い自分を守る為、弱い自分を正当化する為、社会と人と対峙することから逃げる為。死ねないくせに死にたいと唱え続けるのは卑怯者のやることだとわかってはいたけれどもそうすることでバランスをとっていた。
 だけど人は、そんなに簡単に死ねないのだ。


 けれども死にたくないのに死んでしまう人間もたくさんいて、それを思うと自分の卑怯さに反吐が出る。自死する人間を私は否定はしない。そうせざるを得ないこともあると思うのだ。だってこの世は地獄だもの。辛いこと悲しいこと不条理なことどうしようもないことで苦しまなければいけないことがたくさんあって、その中で生きていくことは拷問のようだと思うもの。生きていくことは地獄で拷問を受けていることだと思うもの。私だって未だに時折心が弱く弱くなってしまって逃げたくなって、生きていくことが怖くて怖くて辛くて辛くて死にたいと思う瞬間はあるもの。未来のことを考えて死にたくなることもあるし、過去の自分がしでかしたことへの罪悪感で死にたくなることもある。
 死にたいと思ったことのない人間は、どれぐらいいるんだろう。一瞬でも、「死にたい」と思ったことのない人間というのは、どれぐらいいるんだろう。


 今の私は幸せです。かなり。人から見たら些細なことかもしれませんが、小さな幸せがたくさんあって、悲しいことも辛いこともあるけれども、嬉しいことも確かに存在するから、結構幸せです。生きててよかったと思うし、生き延びててよかったと思います。
 けれども、この世は地獄だという考えに変わりはありません。生きていくことは哀しみを増やすことです。


 広島と神戸の街へ来るたびに思うこと。
 悲しみや痛みは街を強くする。癒されぬ傷を抱えて生きることは辛いことだけれども、きっと不幸なことではない。悲しくて辛くて苦しくてしょうがないけれども、不幸ではない、そう思いたい。だって、広島も神戸も、こんなに美しい街だから。表面的な美しさじゃない、芯のある、まっすぐ強い傷だらけの魂からこぼれる美しさがそこにはある。

 緑が溢れる平和の鐘が鳴るオタフクソースがかかった広島焼や牡蠣の美味しい広島の街に来てください。稜線が美しい六甲の山が聳える港町神戸に来てください。私達は、大人になったからこそ、傷を背負う街に来なければならないのです。


 そして、きっと街も人も同じなのだ。悲しみや痛みは人を強くする。それらを抱えて生きることは他人には計り知れぬ苦しみだけれども不幸なことではない。傷の深さの迷路に入り込んで時折生きることを放棄しようと未だに思ってしまうことがあるけれども、それでも確かなことは今私が生きているということだ。そして生きているということには何か意味がある。意味が無ければそもそも生まれてくる筈がない。


 生きてて良かったと思いたい。
 生きてていいんだよ、と言われたい。
 生きていたからこそ出会えるべき人達と出会えた。
 人を好きになることは、痛みを伴うことだけれども、それでも間違いなく幸福を与えてくれる。



 生きてて良かった。
 生まれてきて良かった。
 出会えるべき人達と出会えて幸福だ。
 だから私の好きな人達には幸福になって欲しい。
 私が幸福になる為に。
 


 広島と神戸の街を見ていると、傷つくことも実は人間にとって必要なことじゃないのかと思う。辛い思いをしないと、大切なものを失わないとわからないことって、確かにあるもの。そして喪失と絶望は人を歪めることもあるけれども、人を強くする材料にもなる。だから本当は生きていくことは、怖がることじゃないんだと思う。怖いけれど。
 私は弱くて臆病で、生きていくことがものすごく怖くてしょっちゅう逃げてしまいたくなるけれど。



 傷つき壊れることをエネルギーにして再生して、強く強くなれることもあると、広島と神戸の街は教えてくれる。




 だから、忘れてはいけないことがある。
 痛みも悲しみも、抱えて生きることは苦しいことだけれども、忘れてはいけない。



 今は、神戸の街が怖くなくなった。
 苦しくて涙が出てしまうけれども、その傷から目を背けることは無い。



 私達は、確かに生きている。
 ボロボロになっても、確かに今生きている。生き延びている。そしてそれには何か意味があることなのだ。


 広島に来てください。
 神戸に来てください。
 忘れてはいけないものが、この強くて美しい街に、確かに存在します。