恋する写真


 私は高校を卒業してから今に至るまでの自分の写真が、手元にはニ枚しかない。一枚は、以前派遣で働いていた会社を昨年の夏退職する際に、送別会で皆で映したものだ。もう一枚は、昨年の秋、仕事でお客さんが撮ってくれた写真。



 大学の時に皆で旅行に行った際などに撮られた写真も、ある時全て捨ててしまった。そういうわけで、私はアルバムというものを所有していない。
 写真は正直で、嫌になるほど正直で、私は私自身を大嫌いで殺してしまいたいほど憎んでいたので、自分の写真など撮られたくもないし残したくもなかった。20代の時は、鏡を見るのも嫌だった。


 昔、写真を撮ったり絵を描いたりするのが好きな人と短い間だけ関係した時に、性器を咥えた顔を撮られた。その写真は、後に関係した別の男が「欲しい」と言いだしたので、断る理由も無いからあげた。


 その写真を撮るのが好きな男(ちなみにその人はカンパニー松尾ファン・笑)もそうなんだけど、他にも「ハメ撮り」をしたがる男がいて、「撮りたい」男って、結構いるんだなぁと思った。友人の男友達曰く、ビデオや写真で(性交を)撮りたいって願望のある男は多いけれども、大抵は彼女が嫌がるからしない、あるいは言い出せないんちゃう? とのことだ。ふーん、でも女で、そういう人って、あんまり聞かないね。性交時の男の写真を撮りたいって人は。



 写真を撮る、撮られるとは、どういうことなんだろうと、最近よく考える。写真を撮られたくない、残したくない、自分自身のことも。
 「写真」について考えるようになったきっかけは、神蔵美子さんの「たまもの」http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070205#p1だ。以前も書いたけれども、「たまもの」の中の写真は、どれもこれも痛い。けれども、その痛みは、どこか心地よい痛みで、その痛みによって自分の中の何かが浄化されるような気がするので、私は何度も何度もその写真集のページを開いてしまう。「たまもの」の中にも何枚か、性交後、あるいは性交の最中のような写真があるのだけれども、神蔵さんがラブホテルで末井さんを「神様この人を幸せにして下さい」という気持ちになりながら撮った写真もある。
 写真は正直で、痛いぐらいに正直で、愛情は愛情のままで、逆に愛情が無い関係も、そのまま写しだす。



 セックスが終わった後の、男の背中を、じっと見たことはないだろうか。薄暗く狭い空間で、男の背中と横顔が、哀しくてしょうがない時がある。哀しければ哀しいほど、その男のことが好きなのだと感じる。自分以外の、一人の人間の痛みも悲しみも含めた存在そのものが、自分の胸に流れ込んでくる瞬間だから、哀しくてしょうがなかった。恋をするということは、そういうことなのかな、と思う。私は神蔵さんのように「神様この人を幸せにして下さい」という気持ちにはならなかったけれども、これから私もこの人もどこへいくのだろうと、ぼんやり考えていた。



 先日、本屋を久々にぶらついていて、ふと目に留まった荒木経惟さんの、「すべての女は美しい」http://www.amazon.co.jp/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%A5%B3%E3%81%AF%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84-%E8%8D%92%E6%9C%A8-%E7%B5%8C%E6%83%9F/dp/4479300473/ref=pd_bbs_sr_2/250-2999079-0222605?ie=UTF8&s=books&qid=1178277173&sr=8-2という文庫本が、久々に「本との幸運な出会い」を齎してくれた。ああ、写真って、こういうモノなのかって、抽象的だけど、なんとなく、わかったような気になった。荒木さんは、この本の中で、「写真は未練だ」と書かれてる。また、神蔵さんの本の中で、荒木さんは、「写真は三角関係なんだよ。嫉妬とかそういうことが全部写っているのがいい写真なんだよ」と言っている。
 要するに、全部、ってことかな、と思う。だから写真は正直だ。苦しいぐらいに正直だ。



 その荒木さんの「センチメンタルな旅 冬の旅」http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%81%AA%E6%97%85%E3%83%BB%E5%86%AC%E3%81%AE%E6%97%85-%E8%8D%92%E6%9C%A8-%E7%B5%8C%E6%83%9F/dp/4103800011/ref=pd_bbs_sr_1/250-2999079-0222605?ie=UTF8&s=books&qid=1178277336&sr=8-1。奥さんの陽子さんとの新婚旅行、そして亡くなるまでの約束されたサヨナラの日々の写真。痛いっつーか、泣かずには読めない。本について書く時に、「泣きました!」とか書くの嫌れぇなんだけどよ、キツいわ、これは。やっぱり、写真っていうのは、全部、だわ。哀しいことも嬉しいことも苦しいことも幸せなことも、全部。



 そして、そういう形の無い感情を、何かに残しておきたいという気持ちも何となくわかる。残すことは、愛情なんじゃないかな。やっぱり、写真も小説も絵も音楽も映画も、例えノンフィクションやドラマ物であっても、自分の「全部」を何かにして残しておきたいという衝動の動機は、愛情なんじゃないかな。具体的な対象に対しての愛情という意味だけではなくて、自分自身の中の「愛情」。それは、他者への愛情であったり、自分自身が愛されたりという飢えであったり、自分が愛する何かへの愛情であったり。

 

 私が、AVに惹かれたのは、上記の写真を撮る男がくれたカンパニー松尾監督の「熟れたボイン」であったり、偶然手にとった平野勝之監督の「由美香」であったり。何に惹かれたのかというと、そーいう形にならない自分の中の感情を残すことのできる(そして、それが第三者の心を震わせる)事に羨望したのだった。



 結局のところ、具体的な対象への愛情を形にして残そうとすると、まさに「センチメンタル」という言葉以外に相応しい表現が見つからない。やっぱり未練なのか。情かもしれない。情が深い人間こそが、方向が表現へ向かうのか。でも人間は、情の生き物で、情の無い人間は、人間じゃないような気がする。情があると、いろいろ面倒くさかったりもするんだけれども、情の無い人間よりは幸福なのかも知れないとも思うし、情こそが、「作品」を生み出すのかな、と思う。


 
 そして情ってのは、他人ありきなわけで、自分以外の他者の存在を発見した時に、初めて湧き上がるモノなんじゃないかと思う。他者の存在の発見ってのは、要するに、世界にいるのは自分だけじゃないことに気付く時。
 だからやっぱり、恋をした時に情が溢れてしまうんだろう。恋愛だけじゃなく、友人関係や家族関係も同じか。だから、情がないと、それは恋愛じゃないと思う。世界にいるのは自分だけ状態のままで、恋愛してる気になると、相手の存在が自分の存在の穴埋めみたいな感じになるから、あんまりいい方向には行かないんじゃないかなぁ。なんとなく。それはそれで利害関係が成立してバランスとれてる人達もいるような気はするけれども、やっぱりそれは恋愛じゃないと思うよ。


 
 今は絶版になってるんだけど、東良美季さんの一冊目の本は、「アダルトビデオジェネレーション」という分厚いAV監督・女優・男優さん達のインタビュー集で、(二冊目が『猫の神様http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070322#p1ですねん)私はこの本読んで、その後、東良さんの文章を読む為にAV雑誌を読み続けるわけですが、インタビュー集なんだけど、読後感は、「小説」です。
 司馬遼太郎が、徳川慶喜を書いた「最後の将軍」の冒頭で、「人の生涯は、時に小説に似ている。主題がある。」と書いているけれども、ホンマにその通り。そしてこの「小説」を彩るのが「写真」だ。東良さん自身が撮った「小説の登場人物達」それぞれの「写真」が、すごくいい。東良さんの写真って、なんでこんな哀しみを帯びているんだろうって、ずっと永い間不思議に思ってて(この本以外のAV女優の写真とか、『猫の神様』の写真も)、ああそうか、これもやっぱり「センチメンタル」な感情だから、こんなに哀しみを帯びていて、美しいんだと思った。だから、東良さんの文章の美しさっていうのは、写真と同じで、「センチメンタル」という情で書かれているからだ思う。



 やっぱり、そう思うと、写真も文章も絵も、技術で描くもんじゃないんだよね。情で書くもんだと思う。こなれた技術で描かれたものは、感心はするけど、感動はしない。人の頭には入ってくることが出来ても、心には入ってこない。




 情で描くということは、いかに自分自身に嘘をつかずに自己表現できるかということだと思う。
 テクニックがこなれてくればくるほど、嘘をつくようになることもあるのかもしれない。嘘をついてることに自分が気付かないほど巧妙に。それは、普通の仕事に関しても同じか。技術だけで仕事すると、向上することは無いどころか、気がつけば何かを喪失してたりする。




 今は、昔ほど写真は怖くない。
 撮られることには興味は無いけれども、「センチメンタル」な情を、いつか撮ってみたいなと、最近思う。
 私を哀しくさせる、セックスの後の男の背中に漂う、「センチメンタル」という名の愛情を。


 写真は、正直で、切ないぐらいに正直だけれども、今はその正直さが怖くない。