いびつな私を愛してください ― 「ふたなりレズビアンCLIMAX」 二村ヒトシ監督作品 ―

 其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。是に其の妹伊邪那美命に問ひて曰りたまはく、「汝が身は如何にか成れる」とのりたまへば、答白へたまはく、「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処在り」とこたへたまひき。爾に伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り余れる処一処在り。故、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむと以為ふ。生むこと奈何」とのりたまへば、伊邪那美命、「然善けむ」と答曰へたまひき。


                               「古事記


イザナギは、イザナミに「あなたの身体はどんなふうになっていますか」と聞いた。イザナミは、「私の身体は、完成しましたが、一ヶ所塞がらない避け目があります。」と答えた。イザナギは、「私の身体も完成したが、よけいな突起が一ヶ所ある。だから、私の突起を、あなたの避け目に入れて塞いで、国を作ろうと思うが、どうか。」とイザナミに問いかけた。イザナミは、「それはいいですわね。」と賛成した。』


 そして、イザナギイザナミは交わり、国を生んだ。それが、「日本国」である。
 ここに「ふたなり」と言う「性」がある。塞がらない避け目と、よけいな突起を併せ持った「性」。この異形の性が、何故エロスを喚起するのであろうか。




 二村ヒトシ監督の「ふたなりレズビアンCLIMAX」、長身美形の立花里子と、小柄でロリ系の大塚ひなという対称的な容姿の女優二人がペニスをつけ、4つの物語が展開される。代々木忠監督の「ザ・面接」について書いた時に、「AVはファンタジー」だと書いたが、まさに「ふたなり」こそが、ファンタジーである。何故、ペニスという「余計な突起」をつけた女が、エロスを喚起して、一つのジャンルとして成立しているのか。


 二村作品は女性に支持されていると言われているし、二村監督本人も女性に見て貰いたいと発言している。そして私自身も二村作品を見た時に、「これは女性に勧めることが出きる」と思い、実際にAVに全く免疫の無い純情少女Nちゃんに見せた。私は、女性にAVを見せるのが好きだけれども(それは私の性癖なんですが)、どんなAVでも勧められるかというと、そうじゃない。相当に選ぶ。自分が面白いと思っても、普段AVを見ない女性に勧められない作品も、勿論ある。それは、いきなりハードな物に嫌悪感を抱かれては困るということだけではなく、女にAVを見せて恥ずかしがらせたいという私の性癖故に(こう書くと、なんか変態みたいやね。変態やないんやけど)、「エロい」ことが必須条件である。

 そういう意味で、二村作品は、私の「女にAVを見せて恥ずかしがらせたい」という性癖に適合していた。女が綺麗で、一方的に男に弄ばれるのではなく、自らも欲情して、だからと言って、病的な淫乱変態女ではない女。その目論見は性交、、、やなくって、成功して、Nちゃんに、「ヒトシのビデオ、いやらしいよ! 恥ずかしいよ! (赤面)」と言わしめた。



 何故、「女に勧められる」と私が思ったのか。男の欲望の為に作られたアダルトビデオの中で、何故二村作品を、「女性の共感を呼ぶ」と感じたのか。

 二村作品のキーワードを列挙してみると、高身長、痴女、眼鏡、ふたなり、、、これらが何を意味しているか。よく二村作品は「オタク的」だと言われるが、私は「オタク」文化に関して詳しくないのでわからないけれども、私が二村作品のキーワードの中の共通した項目として思うことは、「いびつさ」である。
 何をいびつか、いびつかと思うかは、実際のところ本人次第ではあるけれども、自分の中にある何かをいびつだと感じた時点で、それはコンプレックスとなる。
 二村作品の中の「いびつさ」は、ある時まで確固として社会の中の一つの通念として存在した「女らしさ」という幻想の支配から生じる「いびつさ」である。

 例えば、背が高いことが少女時代にコンプレックスだったという女性は多い。昔、「3高」という、高身長、高学歴、高収入という条件を男性に求める馬鹿げた概念が存在した時代があった。そして、男は背が高くなくてはならないということは「男より女の背が高くてはいけない」というわけだ。小さい方が、可愛い、つまりは、自分より「力が無い」女性は庇護欲をそそる。それはロリータコンプレックスの一端でもある。
 ある程度年齢を経ると、背が高い方が洋服が映えるとか、モデルのようだと女度を上げる材料にもなることに気付くだろうが、思春期などは、「デカい女」は、「女」という枠から外れた女だった。


 「眼鏡」も、そうである。ドリカムの歌で、眼鏡がコンプレックスの女の子の歌もあるのだけれども、少女漫画でも眼鏡というのは「冴えない女の子」の象徴であった。だから、冴えない女の子が、変身する時は、大抵、眼鏡をコンタクトに変えるのだ。ちなみに私は、好きだった男に眼鏡やめてコンタクトにした方がいいと言われて、コンタクトにしました。今は仕事に合わせて使い分けてるけど。


 「痴女」、つまりは、性欲のある女。これも今でこそ、この言葉が浸透しているかのように錯覚してしまうけれども、「男が思う以上の性欲」を持つ事によって、傷つけられたことのある女は実は相当いると思う。男の口からも聞いたことがある、「純情そうな女が、いきなりフェラチオしてきて、ひいた。」とか。
 あと、自分の彼女がAVを見たり、性的な事に興味を持つのが嫌だという男性も少なくない。私自身も、性的な事を言って、お前はおかしいよとか、女がそんなこと言うなよと非難されたり、説教されたりして傷ついたことも昔はよくあった。最近は無い、、というか、「演じる」ことによって身をガードしているだけだ。実生活で、「セックスが好き」「オナニー毎日してます」なんて、言えない。AVを所有していることも、よっぽど気の許した信用できる人じゃないと言えない。物笑いの、嘲笑のタネにされたくないからだ。「性欲が強い」こと、「性的なことに興味が強い」ことは、コンプレックスだった。



 私の思春期にテレビに出ていたアイドル達は、皆、「少女」だった。清らかで、か細くて小柄で、儚げで、ふわふわした髪の毛の「女の子」だった。男が「守ってあげたくなる」女の子だった。ボーヴォワールは、「女は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と言った。しかし、女になる過程で、女になることに戸惑い、つまづいて、屈折して、その傷を抱えながら、女になれないまま、女になろうとしている女達は、ある種の男(つまりは自らも幻想の男性像に囚われた男)の作り上げた「女」という幻想の壁のハードルの高さに右往左往する。当の男以上に、「女」という幻想に惑わされる。


 三島由紀夫は、1967年の婦人公論でのインタビューの中で、「女性が一番可愛いと思える時は、どんな時ですか? 」という質問に対して、こう答えている。


「女性が自分の劣等感を告白する時。」


 


 二村監督は、男が、いや、元は男が作り上げたものであったかも知れないけれども、今やそれはマッチョな男の幻想とは言い切れない「女らしさ」から、はみ出た「いびつさ」を救い上げ、エロスを喚起させる魅力として男達に提示した。それが支持されたということは、女だけでなく、幻想に囚われていた男をも解放したのだ。

 だから、「女になり損ねた」いびつな女は、そこで解放され、許され、救われる。三島の言葉のように、「私は『女』らしくない女です」と劣等感の告白をすることによって、エロスを喚起されるというパラドックスが展開するのだ。



 そして、「ふたなり」である。「ふたなり」は、「女といういびつさ」の最たる物で、「異形」である。だからこそ、二村作品を象徴する物だと思うのだ。ペニスがついている女、それは究極の「いびつな女」である。女にペニスをつけることによって、ジェンダーのラインを曖昧にした、異形の性が出来上がった。


 ジェンダーのラインを曖昧にした異形のエロスというものは、古来より存在する。例えば平安後期に流行した「白拍子」。平清盛源義経達が愛した「白拍子」という芸人。これは要するに烏帽子、水干を身につけた「男装した女」である。この「男装した女」のエロスが当時流行し、男達の支持を得た。歌舞伎というものも、今でこそ男性の芸能だが、元々は出雲の阿国という女性が男装して舞ったことが興りである。

 また、徳川幕府三代将軍家光は、最初は男性にしか興味を示さず、困惑した乳母の春日局が、僧形の女というジェンダーのラインを曖昧にした「女らしくない女」を近づけることにより女に興味を抱かせることに成功したという話もある。

 第二次世界大戦中に間諜として活躍し、「東洋のマタハリ」とも言われた川島芳子も「男装」で人々を魅了した。外国なら、女優マレーネ・ディートリッヒが、「モロッコ」で、ハリウッドのスクリーンに登場した時、人々は衝撃を受けた。ディートリッヒは、それまでドレスを身に纏う女優しか知らなかった人々の前で、タキシードで、煙草を燻らせながら登場し、あまつさえ、男ではなく女にキスをして、現れた。女の美点とされる、「愛らしさ」「儚さ」「か弱さ」など一切持たずに、男装で登場したディートリッヒのかもし出すエロスに人々は魅了された。




 二村作品の「ふたなり」女達は、ただペニスをつけさせられただけの女ではない。彼女達は、そのペニスに対して自分の「いびつさ」を感じている。だから「ふたなりレズビアンクライマックス」の中でも、ペニスがあることを弱味にされて、そのいびつさの対象を弄ばれる。ペニスを持ちながら、その存在、すなわち「いびつさ」に囚われて肯定しきれない女達がいる。彼女達は、ペニスを持つ自分が、自分のペニスが「恥ずかしい」。何故「恥ずかしい」のか。それは「いびつ」だから、堂々と自慢できない部分だから、「女」としての異形さの象徴で、だけど、それをエロスと見て性的興味を抱く他者の存在に戸惑いながら混乱して、発情する。「恥ずかしい」という感情そのものが、「混乱」から派生するものだ。自分の許容範囲を超える事態に遭遇した時に人は混乱する。混乱から派生する感情の種類は様々あれど、その一つが「恥じらう」ことだと思うのだ。



 そうやって、二村作品は、女のいびつさを「男の欲望の為に作られた」アダルトビデオの中に描き、そこにエロスを派生させる。実際は、ほとんどの女が何らかの「いびつさ」「女としての居心地の悪さ」を大なり小なり意識的であれ無意識であれ持っている。だから、二村作品の中の「いびつな女」は、「女らしく」という幻想で作られた「リアリティの無い女」ではないので、男の為に作られたアダルトビデオであっても、女でも見て共感することができるのではないか。


 しかし、そこには一つの落とし穴があった。いびつさを救い上げエロスに転化し、「幻想ではない女という存在」が描かれている世界。そこに「いびつさを抱える女」が埋没してしまうと、その居心地の良さに動けなくなる。アダルトビデオは、ファンタジーだ。あくまでファンタジーで、御伽噺だ。現実は、「いびつさ」は、他者によって肯定されようが、自分自身にとっては、あくまでコンプレックスでしかなく、それを抱え込み続けるのは苦しい。自分で自分を甘やかし始めると、動けなくなる。


 私は、「ふたなり」を最初に見た時に、途中で、あんまりにも恥ずかしくなって、止めてしまった。何故、恥ずかしかったか。それは自分自身の中の「いびつさ」をそこに見てしまったからだ。
 私は、ずっと昔から、女の人が好きで、何度か恋をして思いつめたこともあるし、女とセックスしたかった。好きな男以外の男の身体には興味が無いけれども、女の身体は好きだし、AVを見るのも女優が見たいからだ。レズは邪魔な男が居ないからいいなとは思うけれども、AVのレズは、(当たり前だが)「男が考えたレズ」で、それにすごく違和感を感じることも多い。そういう意味で、レズ物は当たり外れが激しくて、全く欲情しないか、すごくツボに嵌るか、両極端なので、迂闊に手を出せない。


 私は女の人が好きで、多分、セックスという要素を抜けば、明らかに男より女が好きで、女とセックスできる男に嫉妬している。時には憎むほどに。だけど、実際に女とセックスは出来なかった。レズビアンの女性に寄って来られても逃げてしまう。そして私が好きになる女性は、いつもへテロセクシャルの、私と「セックスできない女」ばかりだ。どうして私は女とセックスしたいのに、セックスできない女しか好きにならないのか、そういう意味では、私はいつも実らない恋ばかりしている。


 そして二村作品を見て気付いたのは、私は本当の意味でのレズビアンではないということだった。(友達には、レズって言われるけど)つまりは、私はペニスが欲しい、男になって女とセックスしたいから、女のままで女とセックスできないのだった。


 私は、女の人を好きになると、いつも「私が男だったらいいのに」と考える。時には、その想いが苦しいほど募ることもある。もしも自分にペニスがあったなら、あの娘とセックスできるのにと思うけれども、現実には私にはペニスは無く、男のペニスを受け入れるイザナミと同じ避け目しかない。どうあがいても、望んでも私の身体は、女の身体で、女の性器しかなく、ペニスは無い。そして、そのことが、時に、たまらなくなる。そしてだからと言って、私は性転換して本当に男になりたいわけではないのだ。男を好きになって、女の身体で男とセックスすることを喜びとする自分が確かに存在していて、私は時折自分の性の矛盾に混乱する。



 どうして私にはペニスは無いのか。どうして私の身体は女の身体なのか。女の身体なのにペニスを望んで女とセックスしたいと思うことが、自分のいびつさだと思う。どうして、本当のレズビアンになれないのか。どうして男を憎んでいるのに、男を好きになって、男とセックスしたいと思うのか。そして、「セックスできない女」を好きになる自分は、結局のところ逃げているような気がずっとしていた。何から逃げているか。男から。男を好きになって、セックスしたいと思うことが私は何より怖くて逃げている。セックスできない女しか好きにならないのは、セックスすることが怖いからじゃないかとも思う。何故セックスが怖いか。傷つけられるのが怖いから、とても怖いから。そうやってぐるぐる考え出すと、出口が無くなって、閉塞感にはまり込んでしまうことが、よくあった。



 だけど、多分、私はAVをこうやって見ることによって、その閉塞感の出口を見つけることが出来たのだ。セックスの世界を見ることによって、自分の性欲や、いびつさを、そこに見出すことによって。
 過剰な性欲を男に利用され破滅したことも、性的好奇心と切羽詰った渇望から求めたSM行為も、そして、ペニスをつけて女とセックスしたいという、男にもなれない女にもなれない、あるいは男でありながら女でもある混乱した自分の性も。

 性の形は、人の数だけ存在するということ。そしてそれは性だけではなく、人間という存在そのものが、そうなのだ。いびつなままだって、女という幻想からはみ出たままだって、確かに私は人間だから、生きる価値はあるのだと。



 私は、女として、いびつです。女になりそこねた女なのかもしれません。だけど、もう今は、そのことでそんなに暗く思いつめることは無くなった。女になりそこねた女なのかも知れないけれども、ペニスを欲しがって女とセックスしたい女だけれども、いびつなままでも、私は確かに女なのだから。



 私が二村作品を、女性に見て欲しいと思うのは、そういうことだ。あなたは女として、いびつかも知れない。女になり損ねて、未だに女であることに居心地の悪さを感じて右往左往しているかもしれない。「女らしさ」にコンプレックスを感じ続けているかもしれない。
 だからこそ、例えば誰かから好きだと言われても、相手を信じることが出来なかったり、縋って過剰に依存してしまうこともあるかも知れない。他の女とつい自分を比べてしまって、嫉妬の感情に苦しんでいるかもしれない。自分を必要以上に卑下したりしているかもしれない。
 でもね、そうじゃないんだよ。いびつさを肯定して、そこに居続けることは、私は甘えだと思う。二村作品の中で、見出して欲しいのは、本当は「いびつさの肯定、許し」じゃない。そこに甘えている自分を見出すことなんだ。いびつな自分であることの居心地の良さに甘えていることを発見することなんだ。そして、そこから、いびつな自分を否定せずに、自分がこれから女としてどう生きるか、それを見つけることなんだ。



 私の場合は、それは、男の人を好きになること、そしてセックスしたいと思うことから、逃げないようにするということだ。卑屈にならず、だからと言って傲慢にならず、自分のいびつさを肯定しながらも、それに甘えずに生きていくことだ。


 「ふたなりレズビアンCLIMAX」のラストシーンの立花里子と大塚ひなのやり取りは、象徴的である。「幻想の女」になれなかった、「いびつな女」でも、幸福への道はあると指し示している。そしてその道は、その場所に居続けることでは、ない。
 今の自分が嫌なのなら、変わること。前に進むこと。
 全ては自分が、幸福になる為に。



 私は、いびつな女です。もしかしたら女になりそこねた女なのかも知れないと時折思うけれども、それでも確かに女なのです。
 いびつなままの私を、愛して下さい。いびつな部分を愛して、甘やかすんじゃなくって、いびつさを持つ私という一人の人間を愛して下さい。私も、あなたのいびつなところを含めたあなたという人間を、愛します。一人では、成せないことも、二人でなら成せることがあるはずです。一人で、いびつな自分を許すファンタジーの世界に逃げ場を求めるというふうにAVを見るんじゃなくって、そこから前へ進みたい。本当は、男も女も誰だって、いびつです。イザナギイザナミも、いびつな部分があった。それが、お互いの性器で、そこを埋めて一つになることによって、国を生み出していった。一人じゃできないことって、やっぱりある。




 私は、いびつな女です。いびつなままの私を愛して下さい。私もあなたのいびつさを愛します。そうやって、埋めあって、何かを生み出して育てていくことが、「愛」なのだと思います。遠藤周作の受け売りなんですが、「愛」とは、作るものらしいです。だから誰にでも出きるものではないらしいけれども、私は、それをしたい。



 二村作品の中で、私が見出して欲しいのは、そのファンタジーの中に逃げ込むのではなく、そこから飛びだって自由になって欲しいということです。



 やっぱりね、女は、女に生まれてきて、苦しいこともたくさんあるんだけれども、せっかく女に生まれてきたんだから、女であることに苦しむのは、止めようよ。



 私は、いびつな女です。だけど確かに女なんです。
 だから、私はもう男の人を好きになって、セックスしたいと思う自分に罪悪感持ったり卑屈になったりしたくない。
 だから、あなた達も、自由になって下さい。
 恋をすること、セックスすること、そのことから逃げずに、自由になって下さい。男も、女も。


 恋をすることも、セックスすることも、生きている者に与えられた最高の特権なのだから。
 

 私は、大袈裟じゃなく、AVに救われた人間です。
 だから、あなたにも、AVを見て欲しい。








 ふたなりレズビアンCLIMAX」
http://omproadmin.kir.jp/shop/works_001.php?inum=20070330194631001


 二村ヒトシ監督公式HP
http://www.nimurahitoshi.com/index.html
 

 同じく二村監督の、「美しい痴女と接吻」シリーズについて
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070120#p1



*補足・この「ヒトシのビデオ」は、去年、Nちゃんへの誕生日プレゼントでした。キティのハンカチと共に。

「ありがとう! 思いもよらなかったサプライズだよ! 」と喜ばれました。勿論、しっかり見て、後に丁寧な感想を頂きました。


 調教されてるね、、アンタ、、、、