花を恋うる歌
春は花 いざ見にごんせ東山 色香あらそう夜桜や
粋も無粋も ものがとう
見上げると夜空の星を見失わさせるほどの桜吹雪。この世ではないような錯覚に襲われて、目にしただけで吸い込まれて違う世界、もしかしたら知らずにいるべき世界なのかも知れない場所に導かれる。花の瞳に捕らわれて目が逸らせない。花の色で視界が染まり意識が遠のくような花眩み。
尋ねみん 世を宇治山の山桜 都の巽匂ふ春風
太田道灌
そのまま引き寄せられるように花に近づき唇で花弁を確かめる。柔らかく甘い味が口に流れ込み一枚の花びらが舌に絡まりつき、なぞる。花びらは舌を吸い、舌は花びらを吸う。匂いにむせかえるような花酔い。
清水の桜、木屋町沿いの並び桜、平野神社の空が見えぬほどの桜、秀吉の妻寧々の眠る高台寺の枝垂れ桜、背の低い少女のように可憐な御室仁和寺の桜、哲学の道の疎水に落ちる桜、妖気を孕む魔性の円山の枝垂れ桜。
都は花の盛りなり。
花の枝を指でなぞれば合間から匂いたつような樹液が滴る。指ですくい感触と色を確かめながら音を立ててそれを啜る。
蕾を口に含み舌をそよぐと、いざ咲かんとばかりに膨らみ花の色に近づき蜜を先より垂らして屹立す。蜜の匂いでむせかえる花霞み。
春の夜の悩ましささへおぼえたる 都踊りの行きかれかな
吉井勇
花の全てにゆっくりと口をつけ羽二重絹の如き感触を味わい、この樹と溶け合うことを切望す。何度も何度も樹をなぞり花を口にする。この花は僕の花だ。僕と交わる花だ。だからこんなに樹液をしたたらせ僕を待つ。それでも手に入れてしまえば消えてしまうかのような蜻蛉の如き儚さを併せ持つ花惑い。
いざ桜我も散りなむ人さかり ありなば人に憂きめ見えなむ
承均法師
花が風に散らされぬまでに手を伸ばし花を引き寄せる。震えながらも脅えながらも花を抱き抱かれる。花と交わす吐息が全てで他には何も聞こえぬ。ただ、花の声と息と匂い。あやしの花の香りに魅せられ多くの者が惑い集う。されど誰よりも誰よりも花を望むのは僕だ。それだけは確かで、その想いがある限り掴む手は離さない。花の声が夜に交わる花響き。
清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人みなうつくしき
与謝野晶子
花はざわめき身をよじり声をあげ徒然に語らいを繰り返し花弁がこすりあい音楽を奏でる。花びらは風に舞い夜空を染めて息を呑むほどの宇宙を見せる。これはうつつか夢か幻か。
寂寥感で胸が詰まっても、手に肌に口に残る花の色が消えなくてこの先ずっと忘れられず苦しもうとも、その花に染められた自分だけの宇宙がたとえ一瞬だけでも存在したことだけで幸福だと思えるだろう。あの花と溶け合えた瞬間がある限り生きていける。だから花に会いたい。僕は花に会いに行こう。例えそれが幻だとしても夢だとしても、そもそも今うつつと信じるこの世界が夢ではないと誰が言えるだろうか。果てた後でもなお花はとらえて離さない花濡れ。
願わくば花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ
西行法師
僕にとっては、あなたが桜です。