「狂」人伝 高杉晋作
神様など居ない。ずっとそう思っていた。もし神様が居るとすれば、自分は神様に恨まれているのだと思っていた。
昔、知人が「神様は自分の中に存在する。」と言っていた。今は私もそう思う。既存の神を信じはしないけれども、人それぞれの中に自分だけの神様が存在すると今は思う。
歴史を紐解いて見ると、確かに神に愛された人間達が存在している。神に愛された人間は神に使命を与えられて宇宙の中の終わりなき時間の中で、後世の人の目を眩まさんばかりの閃光を放ち、永遠という輝きを身に纏う星となる。
司馬遼太郎は徳川15代将軍慶喜を描いた「最後の将軍」の冒頭部分で、こう述べている。
「人の人生は時には小説に似ている。主題がある。」
誰だって、おそらくそうなのだ。誰の人生にも主題がある。だから生まれてきたのだ。ただ、その自分に与えられた人生の主題を見失ったり、逃げてしまったり、別の何かにすり替えてしまったりして、「自分の中の神様」を裏切る事により神様に愛されることなく人生を終えてしまう人間も多いのだろう。
世の変換期には、世を変える使命を帯びて生まれてきたとしか思えない人間が何人か登場する。わが国に於いて、その最たる時代が幕末ではないだろうか。
幕末に名を残した志士達は数多かれど、特に神から与えられもうた使命を全うした後に、燃え尽きるように死んでいった男達の人生は哀憐の情を帯びるが故に美しく語られ、後世の人間に羨望され、時には人の生きる指針となる。私は坂本龍馬や吉田松陰を人生の師と仰ぐ人に今まで何人も出会ったことがある。また京都東山の龍馬の墓の参道では彼を己の希望や目標とする人々からのメッセージが書かれた何十枚もの瓦を目にする事ができる。
彼らの人生は激しく、そして美しい。だから人々は時を越えて彼らを羨望し続ける。自分の人生をひたすら駆け抜けて生き抜いた、神に愛され、人に愛された彼らは「狂」の人である。
吉田松陰が自らを称して使った「狂」という言葉。これを歴史学者の奈良本辰也はこう説く。
「狂とは病める心のことではない。壮大で純粋な心である。代償を求めない大儀に生きる精神である。闇を裂き、星の如く生きる精神である。地位も名誉も金も、彼らの前には、塵ほどの意味を持たない。『狂』を生きる、それは爽やかな男達の生きかたである」
そして私は、こう思う。「狂」を生きる人間とは、己の神に忠実な人間であり、だからこそ神に愛される人間ではないのかと。己に忠実な欲望を叶えようと邁進する人間で、己の神に忠実だからこそ「純粋」たる人間ではないかと。
「欲望」には二種類ある。己に純粋な欲望と、外的要因から生じる欲望の二種類が。
己に純粋な欲望に従うこと、それは自分の中の神様に従うことだから、神に愛され祝福される、つまりは「幸福」になる為の欲望である。人は不幸になる為に生まれてきたのではない。わざわざ不幸になる為に生命というものが発生する筈が無い。人は幸せになる為に生まれてきた筈だ、本来なら。
それなのに何故、幸せになれないのか。それは幸せになろうとしていないからだ。何故幸せになろうとしないのか。外的要因から生じる「不純」な欲望に惑わされるからだ。
外的要因から生じる不純な欲望とは、「自分がこうしたいから」という欲望では無く、「こうしないと人からみっともないと思われる」とか「こうしないと世間体が悪い」とか「人と同じように振舞わないと嫌われちゃう」とか、そういう、まず他人の目ありきの欲望だ。意識的であれ、無意識であれ。
例えば「彼氏が居ないとモテないと思われて自分の価値が下がるしみっともないから条件の合う自分に好意を持ってくれてる人と付き合う」とか、「わかりやすく見栄えが良い女を連れてあるくと人に羨望されて気持ちが良い」とか「条件の良い男と結婚すると自分の価値も上がる気がするからステイタスのある男と結婚する」とか「いろんな人の欲望の対象にされるとモテた気になって他者に対して優越感が持てるからたくさんの人とセックスする」とか「自分には似合わないし好きじゃないけれども流行っているからこの服を着る」とか、そういう「外的要因」から生じる欲望は、純粋な欲望では無い。
しかし人間の心は変わるものだから、最初は外的要因から生じた欲望でも、それがいつしか純粋な欲望となることもある。だから全ての外的要因から来る欲望を邪まなものだとは言わないけれども、そればかりに囚われて「本来の自分の欲望」を見失ってしまっている人は、確かに少なからず存在する。
しかし己の純粋な欲望に従う事は、時には社会という枠を逸脱して裸で吹き荒ぶ嵐の中に佇むことでもある。楽な事ではないだろう。「世間」そして「他人」の目に従う方が、ずっと楽な生き方だからだ。「世間」そして「他人」の目に従うと守られる。そこから逸脱する事は「社会の毒」にもなりうることもある。「世間」そして「他人」に従い守られ迎合する限りは守られ、ぬるま湯の中で「自分という一つの個」の純粋な欲望から逃げ、目を逸らして「善人」で居られることができる。
しかし「純粋な欲望」では無い「外的要因から生じる不純な欲望」に囚われているうちに「嘘」が生じる。他人に嘘をついて騙すことは出来ても自分自身に嘘をつき続けると、その嘘が泥のように沈着して人間の中に欺瞞を膨らみあがらせ醜くする。そしてその「嘘」が自分で自分を追い詰める。他人は騙せても自分は騙せない。
世の中には、至るところに罠がある。人の目を眩ませ「純粋な欲望」を見えなくして惑わせる罠が至るところに巣食っている。その罠は甘い香りを放ち優しい笑みを浮かべ手をこまねいている。ひとたびそこに落ちるとその欺瞞的な居心地の良さから逃れることは困難だ。
「狂」人として己に純粋で生きることは、自らの手に剣を持ち、世の偽りと偽りで無いものを見極め、風雨に裸の我が身を曝しながらも神が与えもうた己の使命を信じ突き進むことであるから楽ではない。楽ではないけれども、神に愛され、自分が生きてきた証である「何か」を残す事のできる「幸福」を得ることは出来る。そしてそれは、楽ではない代わりに、きっと「おもしろい」人生ではあると思うのだ。
私が好きな幕末の「狂」人に、高杉晋作と言う人がいる。吉田松陰始め「狂」人は数多く輩出されているが、特に高杉に魅力を感じるのは、高杉は「狂」であるだけではなく、その「狂」の人生に苦悩するだけではなく、それを楽しむ「粋さ」があった。激しく短く波乱にとんだ生半可ではない人生ではあったけれども、全力で師を愛し、女を愛し、歌を愛し、学問を愛した高杉晋作には人としての美学がある。高杉は全てに於いて全身全霊のエネルギーを惜しみなく捧げる。師に対しても、女に対しても、遊ぶことに対しても。泣くことも傷つくことも裏切られることも悲しむことも全て高杉は全身全霊で逃げずに感じ、身体も心も曝け出し己に対しても相手に対しても純粋で忠実である。
そうやって風雨に身を曝す事は人より悲しみも痛みも大きい人生だけれども、それでも己の純粋な欲望に殉じ「神に愛された」人生は幸福なものだったと言えるのではないだろうか。
乱世だからこそ、見誤ってはいけない。己の神の指し示した道を見失うな。己の純粋な欲望に従って。
惑わされるな、見失うな、偽りと、偽りでないものを見極めよ。
高杉晋作は肺結核で死の床につく。彼は辞世の句を読もうと筆をとり、こう書いた。
『おもしろき こともなき世を おもしろく』
晋作は力尽き、後が続かなかった。そこで枕元に居た勤皇の歌人・野村望東尼が筆をとり下の句を詠んだ。
『住みなすものは こころなりけり』
その句を読むと晋作は「おもしろいのう」と言って、目を閉じた。27年と8ヶ月、短い怒涛の生涯を終えた。
高杉晋作の墓の側の碑には、伊藤博文(初代総理大臣)が刻んだ碑文がある。
『動けば雷神の如く、発すれば風雨の如し』
人は狂であれ、粋であれ。
おもしろきこともなき世を おもしろく。