男という荷物を背負って
居酒屋で昔バイトをしていた時に、常連の30代後半の男性がいた。その男性は、いつも高級そうな車に乗って(飲酒運転やっちゅうねん)、高い時計とブランドの鞄を身につけていた。しかし、とても下品な人だった。声がでかい。何もそこまで張り上げなくてもいいじゃないかと思うほどの大声で喋る。食べ方が汚い。そして、俺は常連なんだからと、他の客にアピールしたいのだろうかと思わせるような、従業員への慣れなれしい態度。食べ物に関しての見当違いなウンチク。営業時間前でも、俺は常連なんだからと当然のように入店してくる。どんな仕事をしているのか知らないし、身なりは高級なのだが傲慢で下品なその男性は、アルバイト全員に嫌われていた。彼はいつも若い女性と一緒だった。若いけれども、化粧が厚く小柄で細身の女性。彼女は彼と対照的に、とてもおとなしかった。声を聞いたことがない。そしてほとんど表情が無かった。ただいつも薄笑いを浮かべてちょっとずつ食べ物を口に入れているだけで、ちょっと頭が足りないんじゃないかと思えるほど、感情の抑揚が無さそうな人だった。だからこのカップルは、いつも男が大声で一人で喋っていて、女は無言で薄笑いを浮かべているだけで、妙な感じだった。
ある日、アルバイトの一人が私にこう言った。「あの人、いつもいい車に乗ってると思ってたけど、あれ、レンタカーだわ。」その時は、ああそうなんだと思っただけで、さして気にしなかった。
そして私は就職が決まり、そのバイトを辞めることになった。私が辞める少し前に、そのカップルがいつものようにやってきた。男は嬉しそうに、「子供が出来たから、結婚する。」と、また店中に響き渡る声で報告していた。その時は、男は女のことを「カミさん」と呼んでいた。
私はバイトを辞めて就職して、数ヶ月ぶりに久々にそこの居酒屋に食べに行った。そこで思わぬことを聞いた。あの下品な男が亡くなったという。自殺だった。でも、奥さんのお腹には、子供がいて、結婚するんだとあんなに嬉しそうに言っていたのに。何故?
遺書は無かったというが、結婚が決まってから彼は自分が家庭を持つという責任の重さに耐えられなくて鬱病になってしまったらしい。あんなに傲慢そうな人が、そんな繊細さをもっていたことに驚いた。ショックだった。いつもカウンターに座り、大声を張り上げていた下品な男が、今はもうこの世に存在していないということに、自分でも意外なほど、私はショックを受けた。妊娠中だったはずの奥さんが、夫が亡くなってどうなったかは誰も知らなかった。
そんなに、荷物が重かったのだろうか。男という荷物が。子供と妻を養って、一家の長となるという男の甲斐性という荷物が、そんなにも重かったのだろうか。
今思うと、高級品で身の回りを固めていたことも、あの下品な大声も、彼の武装に過ぎなかった。自分に自信が無かったから武装していたのだ。
私は、しょっちゅう男になりたい、とは思う。男になってAV借りたり、ソープ行ったり、野宿しながら一人旅したいなぁと思う。でも実際に男として生きることは大変だと思う。仕事だって、そうだ。女には外で仕事をせず、男の稼ぎで生きる専業主婦という選択肢があるけれども、男がそれをすると「ヒモ」と侮蔑される。独身女が仕事をせず、親元で暮らしていても「家事手伝い」と名乗れるが、(それもどうかと思うけど)男がそれをすると、ニートか引きこもりだ。私だって、人それぞれ事情はあるにせよ、ヒモ男やニート男は、「男のくせに情けない」と思ってしまう気持ちがある。それは、どこかで「男は立派に社会で生きるべき」という価値観が自分の中にあるから。世間には「女は家事して子供を生むもの」という価値観も存在するけれども「男は妻子を養い、家庭の大黒柱となること」という価値観も存在する。人それぞれ出きること、出来ないことがあるし、事情もあるから、そういう人の事を非難してしまいそうな、上からモノを言うような価値観は捨てたいと思うのだけれども、やっぱり自分の中に存在する。
以前、友人と仕事の話をしていて、お互い忙しくてしんどいよねーということを話していた。彼女は、「でも、男の人って凄いよね。私、自分一人養うことでもいっぱいいっぱいなのに、妻子を養うなんて、気分的に重すぎる。不可能だなぁ。私は、仕事しんどいけれども、どっかで結婚して辞めるという選択肢があるから、嫌なことがあっても我慢出来るもの。」と言っていた。私もたまに思う。仕事がしんどい時とかに、逃げちゃいたいなー、誰か養ってくんないかなー(誰も居ないけど!)って正直思う時あるもの。
社会の中で生きてたらさー、「女」だから嫌な事もあるけれども、「女」だから得をする事もあって、いちがいに男と女、どっちが生きていくうえで、働いていく上で良いか悪いかって言えないんだよなー。そして「良いこと」と「悪いこと」は表裏一体だったりする。
話は戻るけど、威圧的になること、支配的に振舞うことを男らしさだと思い込んでる人は多い。接客業をしていると、しみじみ感じる。うんざりする。とにかく上に、上になりたい。わざとこちらが答えられないような質問をしてきて、なんだそんなことも知らないのかと嬉しそうにふんぞり返る。文句をいうために旅行に来てるとしか思えない人もいる。男の屈強な添乗員には、何もいえないくせに。威張りたい威張りたい威張りたい、誰もに凄い人だね男らしいねと言われたい。頼りにされたい尊敬されたい立派な人だと言われたい。「すいません」と乗務員が謝ると、優越感を感じるのか、とても嬉しそうだ。
威圧的に、支配的になったり、時には嘘をついたり、カッコつけたり、他人を不愉快にさせてまでも「男らしさ」を誇示したい、そうすることでしか男としての自我を保てない脆弱な「男」なんて、捨てちまえ。あんた達の脆弱さなんて、ほとんどの女はとっくに見抜いている。見抜いて、はいはい、と服従するフリをしている。何の為に?「男」を利用するために。「男らしさ」を保つ為に、「男の甲斐性」という名目で、「男の欲望の対象である女という生き物」として得られるメリットを享受するために。
「男らしい男」は、「女らしい女」が好きだ。自分に従順で、決して自分を脅えさせない女が。そういう男は、自分の理解を超える想定外の女に出会うと、受け入れられなくて、怒るか無視する。無かったことにする。異常だと言う。例えば、松田聖子。今でこそ一見世間に受け入れられているように見えるが、初めの結婚生活の最中に、彼女が外国人と堂々と浮気したことが報道された時、どれだけ批難されたことか。子供も夫もいる女が堂々と他に恋人を作る。昔から、男の政治家や、芸能人達は、堂々とやってきたことだ。それを松田聖子という女が同じことをやった時、男達は怒り狂った。彼女の夫が同じことをしても、あんなには批難されなかっただろう。「男らしい」男達は、松田聖子が怖かった。理解を超えているから、批難した。理解しようともしなかった。
「男らしさ」は、強さではない。男という鎧を身に付けなければ生きていけない弱さを自覚するべきだ。男という荷物は社会の中で生きていく限り、生涯背負わなければいけない荷物だけれども、それを自覚するだけでも、少しは楽と思うのだけれども。
あの声の大きい下品な男も、弱い自分を肯定することが出来たら、武装せずに、もっと楽に生きられたかも知れないと思うことがある。