去年の桜・その1


 小学校の時に、給食でホットドッグが出た。
 何も無い田舎の子供達にとって、当時の給食は、普段食べられないものを食べることのできる楽しみな時間だった。いつもは、コッペパンだったけれども、その日のメニューはホットドッグで皆朝から心待ちにしていた。けれども机に配られたホットドッグには、何故か私の分だけ、ウインナーが入っていなかった。

 一学年に十人程度しか居ない山の中の小さな学校だった。勿論クラス替えなどありはしない。私はいつも学校という場所に違和感があって、居場所がなく心地悪い。それは小学校から大学まで一貫してそうだった。小学校の時は人と外で遊ぶより図書館の本を読んでいる方が楽しかった。人と一緒にいるのは苦痛でしかなかった。いつも馬鹿にされた。人と同じことが出来ず、本ばかり読んでて可愛げの無い私は嘲笑され除け者にされはしなかったけれども、上級生の男子からのいじめの対象だった。漫画が好きで漫画家になりたいと思っていたので、絵ばかり書いていた。上手と褒めてくれる人はいたけれども女の絵ばかり描いていたので、男子達は「おまえ、女の絵ばかり描いて、いやらしいぞ。お前はおかしい。」と私を嘲笑した。


 中学は一学年70人ほどいた。その頃になると皆色気ついてきて、誰が誰を好きでなどと、ささやかながら恋めいた発情期も始まったが、私には無縁の話だった。好きな人はいたけれども、その人は私の友達の事が好きだった。少年ジャンプと江戸川乱歩谷崎潤一郎芥川龍之介横溝正史山岡荘八司馬遼太郎吉川英治を読み漁り音楽は中島みゆきが好きな私は、その田舎の小さな学校に話が合う人は居なくて、とにかく早くここを出たいとそればかり念じていた。


 高校の入学式に、クラス別に名前が張り出してあった。何故か私の名前は、一文字間違って書かれていた。確かに合格したはずなのに、どうして私の名前が無いのだろうと、暗い気持ちになった。あの、小学校の時のホットドッグにウインナーが入っていなかった時と同じだ。いつも私は運が悪い。一人だけ、運が悪い。



 高校では劣等生だった。数学と理科関係は、いつも赤点で、一度定期テストで、450人中、450番になってしまい、母親が泣いた。部活動だけが楽しかった。クラスには相変わらず馴染めなかった。部活の先輩を好きになった。バレンタインにチョコを渡したけれども「他に好きな人がいる」とフラれた。その「好きな人」の事も私は知っていた。綺麗で頭が良くって性格も良い人だった。私の憧れの人だった。部活の関係で演劇の脚本を書いて演出もした。皆に褒められた。それから演劇部や、他の学校の演劇の脚本も頼まれて書くようになった。高校を卒業してからも依頼を受け書いていて、ある新聞社が取材に来た。早稲田大学を出たという若い記者の人は、「あなたは東京に来て、こういう道に進む気は無いの?」と私に聞いた。当時、私は京都で大学生をしていた。そんな事が自分にできるわけが無いと思った。


 その時期に書いた脚本のようなモノは、京都を離れる時に全て捨ててしまって一冊も残っていない。


 大学に入った。付属から上がってきた娘達は、皆垢抜けてお金持ちで自分とは全く種類の違う人間に見えた。地方から来た娘達は、皆頭が良かった。私は学校の勉強にもついていけなかったし、お金も無く綺麗でも無く、人とも馴染めず、でも嫌われるのが怖いから、無理やりに人に合わそうとして必死だった。田舎物の馬鹿な自分がバレるのが怖かった。私だけが来るべき場所を間違えたのだと思った。
 やっぱり私は運が悪い。


 自意識が肥大して、学校に行けなくなった。同級生も先生も皆、怖かった。頭も悪く田舎者で、容姿も悪く、処女で男の人から好かれたことも無い、いや、それ以上に何もやりたいことがない、将来の目標もない、「何も無い」私は、劣等感が肥大して、華やかで明るく生き生きとしている(当時は、そう見えたのだ)同級生達が怖くて、本当に怖くて、学校に行けなくなった。留年した。留年を重ねて卒業できなかった。何か他にしていて、留年するなら言い訳もできるけれども、私には何も無かった。ただ逃げて袋小路に迷い込んで親に多大な負担をかけながら大学を卒業できなかった。


 大学を中退する少し前に、あの男と再会した。私の、初めての男と。



 気まぐれに、後先考えずに書いておりますが、一応続きます。