「焔」 上村松園


 日本画上村松園の作品で、「焔」と題された絵がある。http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=01&col_id=A11098&img_id=C0032486&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=&Q5=&F1=&F2=


 謡曲「葵の上」に登場する六条御息所の生霊をイメージして描いたと松園は言う。言うまでもなく六条御息所というのは「源氏物語」に主人公・光源氏の恋人として登場する。光源氏より年上で身分も高く美しく才気があると評判の六条御息所は恋人の光源氏の心が離れ、そのことに苦しんだ果てに、光源氏の妻の葵の上の元に生霊として現れ、ついには葵の上を取り殺す。六条御息所は気品があり誇り高い女性故に、自身の醜い感情を抑え込み過ぎて、昇華されぬ感情が彼女自身の身体を離れ彼女自身の意思の与り知らぬ処で世にも恐ろしい生霊となったと「源氏物語」には描かれている。


 この絵を描いた上村松園http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%9C%92という人は、女性として最初に文化勲章を受章した明治時代の画家である。上村松園は一人の女性としても激動の人生を送っており、師の子供を宿し未婚の母となり、女性芸術家ゆえの中傷も浴びながら「美人画」を描き続けた。

 松園の目指す絵は


「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」


 で、ある。

「その絵を見ていると邪念の起こらない、また、よこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる、、、といった絵こそ私の願うところのものである」

 と、松園は述べている。


 その松園の生涯において、たった一つの異色作が上記の「焔」である。この時期、松園は絵を描くことにおいてのスランプと私生活で結婚の約束までした年下男性との失恋で、どうにも切り抜けない苦しみに陥っていたという。そしてその苦しみの一念をぶちこんで描いたのが「焔」だという。それまで精錬な美人画ばかりを描いてきた松園が、初めて「情念」を描いた作品だと絶賛され、画壇の話題を浚ったと言われてる松園の人生の転機ともなった絵である。



 私が長く封印している感情がある。
 それは「嫉妬」という感情だ。


 嫉妬という感情は醜くおぞましい。嫉妬する人間の顔は歪んでいる。そしてこの嫉妬心という恐ろしい悪魔を抱え込むと全身の血液が泥になってしまったかのように重く救いようがない気分になってしまい絶望する。

 私は弱い自分が嫌いだから強くなりたかった。ひたすら誰にも負けない強さを身につけたいと思っていた。そして負の感情を前向きなエネルギーに変えようと思った。負の感情を殺して息の根を止めてしまおうと思った。ひとたび負の感情に囚われると、それまで築き上げてきた物がバベルの塔の如く崩壊する。だから城塞を固めて自分の脆さを覆い隠すしかない。不出来な城塞の隙間から風が吹き荒ぼうが血が流れようが、私にはそれしか生きる術がないと思っていた。

 物分りのいい善人のフリをして世の中を渡ってきた。私は今まで様々な職種を経験して様々な業界を渡り歩いてきて、その中で生きていく為に鎧を作り上げた。弱味を見せないこと、本心を悟られないこと、誰にも文句言われず自分の意見を言えるように仕事は人よりこなすこと、人に必要以上に近づかないこと。30歳を過ぎて一生一人で生きていかねばならないと思った時から、私は、そうやって生きてきた。「人に対して壁を作る」とか「付き合いが悪い」とか「何を考えているかわからない」と言われても。


 嫉妬する自分は醜すぎて殺したいほど嫌いだから、その感情を封印しようと思った。嫉妬するよりは嫉妬される側になりたいと思った。物分りの良い温厚な善人の仮面を被って生きている。負の感情を出刃包丁でメッタ刺しにして殺して、ひきつる笑顔で「強い人間」になろうとしていた。


 そうは言っても時折何かのきっかけで負の感情が沸き起こり重く黒い塊が喉に痞えるような気分の時がある。苦しくて苦しくて苦しくて誰か助けてと叫びたくなるのを必死で抑える。助けを呼ぼうと誰かを頼るには私の鎧は強固すぎる。いつのまにか人に甘えることも誰かの前で泣くことも出来なくなった。


 抑え込んだ感情は蓄積し、いつか爆発して攻撃にまわる。人を攻撃するには格好をつけすぎているので自分を攻撃する。そして私は卑屈になるしかない。お前なんかは嫉妬する資格もないんだから、人に嫌われないように物分りの良い善人のフリをしなさいと私の中の「偽善者」という悪魔が言う。


 負の感情を殺そうと善人という鎧で身を固めた私は、いつのまにか、昔私があれほど嫌っていた「偽善者」に堕ちていた。何故、人は偽善者になるのか。良く思われたい、自分を守りたい、人に嫌われたくない、要するにひたすら利己心のみだ。偽善で塗り固められた人間は内なる「善」に酔いしれて、人間の本質が善であるかのような錯覚を覚える。


 「善」は危険だ。おそらく、「悪」より遥かに危険だ。


 しかし世間は、そんなに阿呆ばかりではなく、騙しきれるものではないのだ。お前は偽善者だと言われたら私は反論する術もない。


 男でも女でも嫉妬心を露骨に現す人間が少なからず存在していて、たまに羨ましくなる。誰にどう思われようが、そうやって負の感情を日常的に発散することが出来たなら、溜め込んで独り思いつめてしまうこともないのではないかと思う。

 
 かって、あれほど嫌いだった「偽善者」になり果てている自分に気付いて呆然とする。悪者になると生き難いから、善人のフリをして生きてきた。
 されどやはり私は、世の偽善なる物、全てが嫌いだ。偽善者になるくらいなら、悪人になりたい。


 「嘘」の無い人間になろうと思った。しかし「負の感情」を抑え込んで無かったことにしていること、それも「嘘」ではないかと思った。だから「偽善者」というのは「嘘吐き」なのだ。


 負の感情は苦しい。嫉妬は苦しい。息が出来なくなるんじゃないかと思うぐらい胸を締め付ける時がある。嫉妬の感情ぐらい、どうしようもないものはない。自分には、何を、どうする術もない。ただ苦しんで苦しんで、ひたすら苦しむことしかできない。醜い。嫉妬する自分は、醜すぎて目を背けてしまう。
 でも、その「醜い」自分も、まごうことなき「自分」であるのは、逃れようがない真実だ。


 上村松園は、自分を苦しめる負の感情を「焔」という絵に託した。どうしようもない衝動に駆られて、この凄絶な絵を描いたという。

 そうして己を曝け出した松園は、その18年後に、自分の理想の女性の最高の物と自賛する「序の舞」http://www1.megaegg.ne.jp/~summy/gallery/jonomai.jpgにたどり着く。「序の舞」について松園は、こう述べる。


「何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意思を、この絵に表現したかったのです。優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです」



 善人のフリをして、物分りのいいフリをして、嘘吐きの偽善者に堕ちるくらいなら悪人の方の方がマシだ。つまらないカッコつけのために為に、負の感情を毒のように自分の中に蓄積させて生霊になるのは嫌だ。



「嫌われたくない」とか「人によく思われたい」とか、それらも全て自意識過剰なだけだ。生きていくのに不必要で、足を引っ張る自意識だ。周りを見渡せば、わかることだ。例え、それで大事な人が離れていったとしても、それは、その程度の縁に過ぎないと受け入れるしかない。


 負の感情を抱いたままでも、世を生きていくことは出来る。魑魅魍魎の跋扈する世を生きながらも自分自身であり続けることはできると、上村松園の絵は語っている。