「熟れたボイン」 カンパニー松尾監督作品


 一本の古いビデオテープがある。

 
 数本のAVがダビングされて、ここに残されている。タイトル欄には、その数本のAVの題名が書かれていて、一番下に書かれている題名のところにだけ赤い印がつけられている。
 赤い印がつけられたAVのタイトルは「熟れたボイン」。


 ダビングされたテープで、しかも標準録画ではなく三倍でタイトルのシールの色のくすみ具合からも古さがわかる。実際画像は一昔前の裏ビデオ並みに悪いし音声も良くない。一度テープがビデオデッキに絡まって切れてしまったのをセロテープで補修したので、またそのうちに駄目になってしまいそうな気がする。そんなテープを、私は捨てられずにいる。

 どうして、この中のうちの「熟れたボイン」のタイトルだけに赤い印がつけてあるのか。もう、その理由を問う術もない。

 そのビデオテープをくれた人は、私より13歳上で、家庭があって、それとは別に恋人も居て、本業は堅い仕事をしていたけれども副業としてエロ関係のライターをしていた人だった。
 私がセックスした二人目の人だった。

 アナルセックスとSMが好きな人だった。アナルはするだけじゃなくされる方も好きな人だった。その人はよく会社でオナニーをしていて自分のペニスを撮った写真を私に送ってきた。公衆電話で私に電話しながらオナニーをしたり、精液のついたティッシュ股間に巻いたバンダナや自分の陰毛も送ってきた。

 私は最初の20歳以上年上の男とは、まともにセックスをしたことがなかった。キスは二回だけ、挿入も数えるほどしか「して頂け」なかったし、挿入する時も自分が動くのが嫌だから騎乗位ばかりで基本的に私の体に触れないようにしていた。だから私にとって騎乗位というのは「男はその気が無いのに女から縋ってさせて頂く体位」で惨めな気分になるモノだったのだ、長い間。そのくせ「お前がこれが欲しいんだろう」とフェラチオだけは会う度に長時間していたので、キスは二回、挿入は数回だけなのに、フェラチオだけは何百回も経験してるという歪んだ二十代だった。

 だから私は、「普通」のセックスをしたことがなかった。キスをして、愛撫して、挿入されてという「普通」のセックスをしたことがなかった。そもそも「好き」とか「愛してる」とか言われたことも全く無かった。最初の男には「恋愛感情は無いからな」と言い聞かされ続けていたから。

 ビデオをくれた二人目の男には、路上でズボンの上から彼のペニスを触らされた。そしてホテルに入って前より先に後に入れられた。「ハメ撮りしていい?」と聞かれて、それは嫌だと言った。それが彼との最初のセックスだった。

 初めて「好きだ」と言ってくれた人だった。嬉しかったけれども信じられなかった。だってそれまで私は何年間も最初の男に「恋愛感情は無いけれども、お前が欲しがるから」と名目をつけられてフェラチオばかりさせられて、お金をせびられて、あげくの果てには私から金をせびりながら裏ではこっそり他の女と旅行に行ったりもされていた。
 それでも私は、その最初の男が好きで、その人を助けたかったのだ。例え愛されなくても好かれなくてもセックスできなくても。この人は私を憎んでいると思っていた。憎んでいるから、こんな酷いことばかりするんだと思っていた。財布の中の小銭まで持っていかれた。返してというと逆ギレされた。
 私は多分、一生このままだと思っていた。人に好かれたり、愛されることも、普通にセックスすることも、キスすることも一生ないのだろうと。この最初の男から一生逃れられないのだろう、と。私なんか相手にしてくれる人は、この人以外にいないと思っていたから。


 だけど、そのビデオをくれた13歳上の人に出会って私は、ようやく最初の男の呪縛から逃れることができたのだ。

 

 初めて「好きだ」と言ってくれた13歳上の人は、「君は僕の奴隷だよ」と言って、いろいろなことを要求して、私はそれに全て従った。

 彼は妻とはセックスしていないと言っていたけれども、妻ではない「恋人」のところには毎朝通ってセックスをしていると言っていた。彼の弁当は毎日「恋人」が作っていた。彼の恋人は高学歴のエリートOLで「自立した女」だった。結婚を望まないし、あなたにいざ何かあれば私が養うと言う彼の御自慢の恋人だった。そしてセックスもとてもいいのだと彼は言う。「頭の良い女性はセックスがいい」というのが彼の口癖だった。セックスする度に喉が嗄れるほど声をあげてイキまくるそうだ。蝋燭を一滴垂らしただけでイってしまって気絶したこともあるらしい。いつも会う度に彼女の自慢をされた。彼女とのハメ撮りのビデオを見る?と聞かれたので断った。私と会っている時も、よく彼女に電話していた。「彼女、とってもヤキモチ焼きなんだよ。」と彼は嬉しそうに私に言った。彼女にこんなプレゼントあげたとか、彼女とテニスをしただの、彼女はこんなに僕に惚れているのだと、いつもそういう話をされた。
 不思議に嫉妬はしなかった。何か遠い別の世界の話のようだった。嫉妬する資格さえ自分には無いと思っていた。


 セックスに好奇心は強いけれども経験がほとんど無く美しくも可愛くも無い私は、正体がバレると、すぐに捨てられた。掌を返したように冷たい言葉ばかり投げつけられるようになり会ってもらえなくなった。「あなた頭がおかしいんじゃないですか」と億劫そうに言われた。

 私は普通にセックスをしたことがなかった。私にとってセックスとは「相手の言うことを聞く」ことだった。だって、どうしたらいいのかわからなかったのだ。

 「いらない」と捨てられて、私は泣いた。好きだって言ったじゃないの、愛してるって言ったじゃないのと問うと、

「僕は躁鬱病で、あの時は躁状態だったんです。」

 と、言われた。

 結局のところ彼は最初から私の事は好きでも愛しても居なかったのだ。退屈で陰鬱な日常に刺激が欲しくて「セックスに好奇心が強いけれども経験が少なく男の為にサラ金を背負う可哀想な若い女」が珍しかっただけなのだ。同情して、興味を抱いただけなのだ。

 私はあなたの退屈や寂しさを紛らわす道具じゃない、一人のれっきとした心がある人間なんだと言った。自分の弱さで人を傷つけてもいいのか、あなたは普段繊細ぶって周りの人間の悪口を言ったりしてるけれども、一番無神経なのはあなただ。結局のところ、あなたは恋人のことも好きじゃないんだよ、あなたは誰も愛してはいないんだよ、と、私は言った。

 君の言うとおりだ、許してください、ごめんなさい、と彼は謝った。許せない、と私は言った。一生私は、あなたを許さないと言った。どれだけ謝られても許せなかった。

 「好き」とか「愛している」と言う言葉は暴力だと思った。容易く口にして人の気持ちを引きずり込んで、突き放す。まだ「恋愛感情は無い」と言い続けた最初の男の方が誠実だとすら思えた。

 よく、22歳上の最初の男と13歳上の二人目の男との経験で自分はセックスが嫌いにならなかったものだと思う。二度と男を好きにならず、セックスも嫌いになってもおかしくなかったと思う。

 ただ「好き」とか「愛してる」と言う言葉が怖くなった。それからその言葉を言われると泣きそうになる。その言葉を信じるのが怖くて、でも好きな人に好きと言われると嬉しくて、どうしたらいいかわからなくなって、怖いけど嬉しくて、泣きそうになる。お願いだから、あとで「嘘でした」なんて言わないでね、と思う。信じたいけれども信じるのが怖い。でも嬉しくて泣きそうになる。だから自分も簡単に、その言葉が口に出せない。好きな人に好きと言えないなんて、なんて自分は臆病だと辟易するけれど。


 別れた男に「幸せになって欲しい」と思えるのは、それは例え一瞬でも「愛された」ことがあってこそだ。「好き」だという嘘をつかれて利用されただけの関係など「良い思い出」になるわけがない。
 私はこの二番目の男に関しては全く感傷的にならない。苦い不愉快な記憶しかないからだ。今は何をしているのか、どこにいるのか全く知らないし、向こうも私のことなどは忘れたい嫌な記憶でしかないだろう。あるいは私との経験を自己陶酔する道具にでも使っているのかもしれない。

 彼は御自慢の恋人にも捨てられた。投薬で勃起しなくなった彼に恋人は会ってくれなくなったという。彼の御自慢の恋人は、彼の御自慢のペニスが使えなくなり、彼の愛情の欺瞞に気付いたのだろうか。
 女は残酷でリアリストだ。でもそれが女が生きていく為の武器なのだ。


 彼が私に残したモノは、結局のところこの古いビデオテープだけだ。彼が赤い印をしていた「熟れたボイン」というAVは、それまで私が見たことがない、切ない映像、切ないセックスだった。カメラの向こうの監督に恋して「好きです」と言う女性は自分とは違う種類の生き物のようにまっすぐに美しい。そして彼女の縋るようなセックスは、ものすごくいやらしい。切なくて胸が苦しくなってしまうほど、いやらしい。カメラを通して行きかう「好き」という気持ちと戸惑いが交差する。もどかしくて切なくて甘くて痛くて完璧な映像がセンチメンタルを昇華する。そしてそのセンチメンタルに男は共感し、女は羨望する。

 
 最初にこのビデオを見た時、私はお互いが「好き」という気持ちを持ってするセックスなんて経験が無かったし、それどころがまともなセックスすらしたこともなかった。ビデオの中のセックスも恋愛も自分には手の届かないものに思えた。

 それでも恋愛やセックスに絶望はしなかった。例え瞬間でもお互いが相手を愛おしむことのできるセックスや恋愛が存在している映像を、そこに見たから。

 
 そのビデオテープをくれた男は、今もAVを見ているのだろうか。きっと見ていることだろう。カンパニー松尾監督の作品を見る度に、あの男も見たのだろうかと、感傷抜きに考える。


 許すとか許さないとか憎むとか嫌いだとか、もうそういう感情以前に、私にとって一番どうでもいい人だ。顔も忘れてしまった。
 ただ彼には一つだけ感謝している。このビデオテープをくれたことだけは感謝している。そうして、この古いビデオテープは今も私の手元にある。
 そう言えば、AVを渡された時に私は彼にこう聞いた記憶がある。

「こういうのに出てる人って、お金が目的?」

「お金だけが目的じゃない人もいると思うよ。何かを残したいって願って出る人とかもいると思う。」

 彼はそう答えた。


 甘い記憶など無いし、恋ですらなかったけれども、ビデオテープだけは引越しを繰り返しても捨てずに手元に置き続け、たまに見て今も褪せることのない、その映像に私は魅せられ続けている。