美少女調教日記 〜D-1クライマックスとNちゃん・後編〜
そんなわけで京都の街をNちゃんとエロビデオの話しながらデートしたお姉さんなんですが。
Nちゃんと、そういう話するのって本当に面白いんです。彼女は今時珍しいくらい本当にエロ関係に疎くて勿論AVの事も何も知らない。そんな彼女にD-1クライマックスhttp://www.dogma.co.jp/event/002d1climax.htmlのオーディションのDVDを見せた時は、彼女がここまで興味を持つとは思いませんでした。
そして彼女は非常に物事をまっすぐ素直に捉えて、また反応も正直なのです。だからたまに、ものすごく核心をついた発言をして、お姉さん目から鱗みたいな時も多々ありました。
例えば二村ヒトシ監督(愛称・ヒトシ)のAVを見せた時の反応なんかは非常に興味深かった。とても恥ずかしそうにして首や耳まで真っ赤に染めて、、、
「ヒトシのビデオいやらしいよ!恥ずかしいよ!女の人がすごいことなってるよ!」
その反応を見て、お姉さんは、「可愛い、、、、」と思って、ずぶずぶと調教に嵌っていったのですが(変態じゃないですよ)、それと同時に、なんてストレートな賛辞なんだろうって感心したのです。
それまでにも裏ビデオとか見せたりはしていたけれども、この時の反応が一番良かった。可愛い、、、、にやり。
一番恥ずかしそうにしてたんです。可愛い、、、、にやり。
だって、「いやらしい」って、一番の賛辞でしょ?
いやらしいモノ、お嫌いですか?
私は、好きです。大好き。いやらしいモノが、大好き。
AVは、基本的にオナニーの為に作られてると思うから(あくまで基本的に、です)エロい、いやらしいことが大前提だけれども、そうじゃないのもあるわけで、これじゃヌケねーよってモノもあるし、ヌこうと思ったらヌケるんだけど、何か乗れないんだよなーってのもある。ヌケないけど、乗れるモノもある。でも、それはそれでいいと思う。ヌけようがヌけまいが、おもしろければなんでもありという人間なんですよ、わたくし。
①ヌケて、乗れるモノ
②ヌケるけど、乗れないモノ
③ヌケないけど、乗れるモノ
④ヌケなくて、乗れないモノ
私の中ではAVは上記4つのカテゴリーが存在します。勿論①の「ヌケて乗れるモノ」が一番良いわけですが、②の「ヌケるけど、乗れないモノ」というのも用途は果たしているわけだし、何も考えず時間無いからチャッチャッとヌイてまえって時なんかにはお手頃だったりします。③の「ヌケないけど、乗れるモノ」。私はこれも実は結構好き。ヌケはしなくても「アダルト」というカテゴリーだからこそ描けるモノも確かにあって、ヌケなくても脳を犯されてしまうほどのモノ。脳を犯されてヘロヘロにされてしまうモノ。ヘロヘロのメロメロにされちゃったらもう降参ですよ。だから好きなの。④は、駄目。言うまでもないけど。でもエロツボなんて人それぞれだから存在自体を否定はしない。
で、「乗れる」ということは、「共感できる」という事です。これはエロビデオに限らずの話で、「好き」ということは「共感」です。あの作家の本に共感できる、あの監督の映画に共感できる、あの人に共感できるから友達になった、とか。「共感」できることによって人は自己肯定が出来て、安心する。
ですから「女がAV見て何がおもしろいんだ」と言うのも、よく聞かれるセリフなのですが、そもそも男と女は理解し合えなくても共感が出来るから恋人になったり夫婦になったり友達になったり仕事上のパートナーになれるのじゃなかろうか。
セックスだって同じ。男には女の、女には男の快感はわからないけれども、こんなことをしたら気持ち良くしてあげられる、こんなことをされたい、一緒に気持ちよくなりたい、それは「共感」だと思う。だから「セックスの相性」というのは、モノがどうのこうのよりも、そういう部分だと思う。
例え理解し合うことはできなくても、共感はできるのだから、男の為に作られたAVを見て女が欲情したりヌいたりすることは全然変なことじゃないと思う。
「セックス」を描くアダルトビデオって、そう思うと単純に「おもしろい」って思いませんか?
私は、本気で「AV見ないヤツは人生損してるぜ!」と、思ってる。見たくないモノを見せつけられたり、セックスしたくなっても出来ない自分の状況に虚しくなったり、「商品」であるセックスの事を突き詰めて考えて暗い気分になったり、そういうことも時折あるけれども、でもやっぱりおもしろいと思う。
そうは言いつつ、エロビデオを見るというのは(実際はそんなに見てないんですけどね)私の孤独な趣味でした。現実には世間の目は冷たいからねー。昔は私が性的な事を口に出すと軽蔑するような目で見たり説教始めるような人が周りには多かった。
そして何よりも自分自身が、自分のそういう部分が好きじゃなかった。そういう自分が「女らしくない」というコンプレックスがあった。そうしてるうちに私のそういう「性的な事に興味が強い」ことを理解してくれて否定しない人に出会って、その人を好きになったんだけど、そしたら性欲利用されちゃったり、身体売れって言われちゃったり、セックス好きなこと以外は価値が無いみたいな言われ方されちゃったり、ひたすら便利な都合の良い女扱い以上にはされなかったりで、そんな感じで私は未だに自分の性欲に対する罪悪感に縛られてるので、正直「エロビデオ」を見る自分という存在自体が肯定できなかった。
矛盾しているようだけれども、エロビデオを見る自分が肯定できないくせに、エロビデオを見ることのよって自分の性欲、そして「セックス」を肯定しようとしていた。肯定したかった。肯定したい。
私は自分の性的な部分を肯定できるようになって、好きな人に「あなたとセックスしたい」と言える女になりたい。
断られたら死にたくなるとか、変なヤツだとか思われて嫌われるのが怖いとか、やった後で後悔されたら嫌だとか、そういう卑屈さ持ってビクビクするような付き合いはしたくない。好きだけど、好きなのに幸せじゃない恋愛やセックスなどしたくないし、してる場合じゃない。
セックスに対する後ろめたさ、罪悪感は消えないし、多分一生背負って生きてかねばならないけれども、そういうことも含めて「セックス」を肯定したいから、私はこの「調教日記」を始めたのです。
NちゃんにAVを貸した当初はそこまで考えてなかったけれども、彼女の反応を見て、彼女と「共感」できた。そうして私は救われた。身近に、同じ田舎街に共感できる人が存在していて救われた。
そしてまた、彼女も私と同じように「飢え」ていたのだと思いました。D−1オーディションを見た彼女は「おもしろかったよ!ビデオ見たいよ!」と言って、そこからどんどん興味を持ち始めた。
何に飢えているか。
それは非日常。この陰鬱な世界に押しつぶされそうになる私達が求めている非日常。それがセックス。とことんいやらしいセックス。本当は人目に晒してはいけない筈のセックス。人間が鎧を完全に捨てることが出来うるセックス。セックスを売る女、セックスを見せる女、セックスを撮る人達。いけないもの、駄目なもの見てはいけないもの、してはいけないこと、だけどしたいこと、身体が焼け付きそうなほど時にはどうしようもなく欲しくなること、したくてしたくてたまらないのにできないこと、多分これからも私が欲しいもの、満たされないことはわかっていても欲しがり続けるもの、欲しいと思えば思うほど傷つけられるもの、それがセックス。
セックスを思う存分やりまくれば、人は満たされるのか。多分、満たされない。欲しいのは挿入とか愛撫とか愛情とか、それだけじゃないから、多分満たされない。性的なモノを求めるという欲望は人間の原罪のような気がする。それには「業」という言葉が相応しい。
「古事記」によると、男女が求愛するという名の神様イザナギ・イザナミはこういう契りを結んだ。
「あなたの体はどんなふうにできていますか。」
「私の体は完成しましたが、塞がらない裂け目が一ヶ所あります。」
「私の体も完成したが、よけいな突起が一ヶ所ある。だから私の体の突起したものを、あなたの体の裂け目に差して入れて塞ぎ国を作ろうと思う。」
こうして出来たのが、この日本という国だ。私達はセックスで生まれた国に生まれ住んでいる。だからセックスが好きで、何が悪い。
田舎の閉鎖的な世界で退屈で陰鬱な日常を過ごすNちゃんはD−1のオーディションを見て、今まで自分が見たことのない「セックス」の世界を見た。多分、彼女があの中でも「とーじろー」や「ヒトシ」が特に印象深いのは、彼女にとっての非日常的世界を象徴する最たるキャラクターだからなんじゃないかな、と私は思っています。そして非日常の遊びを彼女は手に入れて遊んで楽しんでいる。
楽しみや遊びが無いと生きてらんない。体調崩すほど働いたって年金や保険や税金払ったらたいして残らない。いい学校出てるわけでも特別な技術があるわけでもない女なんて、今の時代働き続けたって輝く未来なんてありゃしない。だからと言って結婚したら必ず幸せになれるなんて周りを見たら、とても思えない。金持ちに生まれたかった、美人に生まれたかった、もっと要領良く生きる人間に生まれたかった、こんなに必死でもがいているのに、どうして未来の光景にはグレーの紗がかかっているのだろう。だからと言って、とりたてて不幸なわけじゃないのはわかっている。ただ何も無いこの陰鬱で閉鎖的な世界で嫌なこと山ほどのうんざりすることと戦いながら地を這い蹲るように泥水を啜りながら生き続ける為に楽しいことを見つけなきゃ、やってらんない。
私の生まれた街、Nちゃんの住む田舎には、何もないのです。映画館も無い、コンサートやライブなんか開催されない。私が18歳で家を出た頃にはコンビ二もファーストフードも無かった。文化っていうのは、都会のもんだよ。都会の人間が当たり前に享受できるものが私達にとっては手の届かないものだった。
この田舎町出身の、ある俳優が講演会の為に帰省して、そこで地元の若い娘に、こう訪ねたそうだ。
「この辺の子って、どこでセックスするの?」
って。
そうなんだよ。何も無さ過ぎて娯楽と言えばセックスぐらいなんだけど、する場所も無くって、ラブホテルも少なくて皆お互いの家でするしかない、親公認で。だから若くで、できちゃった結婚する人間が多いし、ついでに言うと離婚も多い。セックスしかすることがない。
だけど私とかNちゃんのような、いろいろめんどくさいことばかり考えてセックスが怖かったり単純に楽しめなくて簡単に出来ない人種もいる。
だから私は高校卒業後、田舎を出た。いろいろあって一時期戻らざるを得なかったけれども、どうしても出たくて再度家を出た。
でも都会に出ても、形は違えど食う為に働いていれば、やっぱりうんざりすることはたくさんあるし、あるのが当たり前で、その対価として給料を貰っているのだと言い聞かせているけれども、それでもやっぱり私達に明るい未来など無いと巷に溢れる過剰な情報は叫ぶ。
未来など無いと絶望した人達は自ら命を絶つ。
でも私はまだ絶望したくないんだよ。絶望してしまいそうになる時はしょっちゅうあるけれども、まだ死にたくないの、まだまだこの世には楽しいことがあるハズだから、これから先、いいこともきっとあるから、まだ絶望したくないの。
AV見ていて時折暗い気持ちになることがある。私はもしかしたら一生このままロクにセックスせずに死んでしまうんじゃないかと実はしょっちゅう思う。それでもやっぱりAVを見て人がセックスしてるとこ見て、自分もセックスしてるような気になっちゃったりもして、いやらしい映像に脳を犯されて気持ちよくなって、なんだかいろんなことがなんとかなりそうだと思って気持ちが落ち着くこともある。
やっぱりセックスに罪悪感があろうとも、セックス好きなんでしょうね。って、今更やけど。セックスのプラスもマイナスも全部まとめてめんどう見てやるぜっ、てな気分でAVを見てるのかも。モテないせんずり野郎でも「セックスが好きだ」って言っていいじゃねーかよって、そんなふうに自分の性欲を肯定できて、「あなたとセックスがしたい」って、自分がしたい相手に言えるようになりたい。
そういうあれやこれやも全部含めて、私は自分が「おもしろい」と思うからAVをNちゃんに見せたのだ。D−1のオーディションという、非常に、わかりやすい「AVの世界」のテキストを使って。そうやって彼女を引きずりこんで、共感させて、一緒になって、きゃあきゃあ言って遊んでいる。
実際は、そんなお金があるわけじゃないから、あの中のビデオは数枚しか買ってないのです。安いモンでもないしよ。だけど、それでも何だかちょこっとだけ自分が、あの非日常の世界に参加できたような気分になれるし、私が買ってみた数枚は幸いにもおもしろかったし、Nちゃんにも「ヒトシのビデオ」を誕生日にプレゼントしたら「ありがとう!」って喜んでくれて、なんだか冷静に感想述べてたりしてた。
私とNちゃんにとって「D-1クライマックス」という「遊び」は楽しかったです。彼女の場合は、「頭に変なモノをつけて和服のヒトシ」だけじゃなく、AV女優さん達が可愛くて、アイドル感覚で気にいったみたいですよ。
そういう話をする時のNちゃんは、とても楽しそう。
そういいつつ、一番楽しんでるのは、彼女を赤面させて「可愛い、、、、」とか喜んでるワシかも知れんけどね!
なんだかんだあるけど、エロビデオって、おもしろいですよ。なんたって、この国は、イザナギとイザナミがセックスして生まれた国だから。古事記って、いきなり最初の章がセックス描写で、しかも、そこから国が生まれちゃうんだから、エロいよね。