その6 〜Nちゃんへの長い手紙 後編〜

 Nちゃん。私はもう30半ばで、ある種の世間の人から見たら「オバサン」かも知れません。結婚して子供を生んで落ち着いてるのが当然の年齢だと思われているかもしれません。
 実際、うちの「ちゃんとした」親などは、自分の娘が30をとうに過ぎていて独身で将来性も無く不安定な状況に居ることを心配しています。(それは私という人間があまりにも信用がないのもあるのですが)
 ただ、「オバサン」だと思われても、私自身はそうは思っていないのです。実はあんまり自分の年齢とか気にしてません。何故なら私には「若い時代」が無かったから。10代、20代と、若さとか女であることの恩恵を受けず、むしろそのことに苦しんでいたので、今幸いにも「若い頃は良かった」とか「昔に戻りたい」とか思わないのです。私にとって自分の若さは愚かさに過ぎない。だから若いことがいいことなんて思えないので、今自分の年齢とかもほとんど気にしないのです。


 Nちゃん。
 あなたは私のようにならないで欲しい。劣等感に雁字搦めになって間違った道に行かないで欲しい。あなたは自分自身を信じて、そして愛して欲しい。
 自分を許して弱くて愚かなままの自分をそのまま受け入れて欲しい。

 あなたは「自分に自信が無い」というけれども、そんなあなたを愛している人は確かにいます。そして、その自分を愛してくれる人と愛されている自分を信じて下さい。
 卑屈にならずに相手の目をしっかり見て下さい。相手の弱さや愚かさもしっかり見据えて下さい。人の弱さと向き合うことは容易いことではないです。人間関係でも仕事でも「いいとこどり」した方が楽に決まっています。でも自分にとって都合の良いところだけ見て、綺麗ごとの部分だけ見て、表面だけで接していたら、その関係は「嘘」なのです。そして、その「嘘」は相手も自分をも苦しめます。自分に対しても人に対しても見て見ぬフリはいつか自分を苦しめます。



 そうして相手を許すことによって自分も許してあげてください。「駄目な私」を否定するんじゃなくって「駄目な私」のままで受け入れて下さい。でも「駄目な私」のままじゃ、自分自身が一番苦しいんだから、どうすれば「駄目な私」じゃなくなるか。
 その方法は私もうまく言えませんが、相手にも自分自身にも嘘をつかず、つまりは自分を必要以上に良く見せようとすることをやめて、自分を守ろうとすることをやめて、そのままで生きてみればいいのじゃないかと思います。それは容易いことではないかもしれないけれども、それが出来たらとても楽になれると思います。



Nちゃん。
 私は実は家を出て京都に戻り、先日数年ぶりにあの男に会いました。私の初めての男、セックスと引き換えにお金を要求した男に。
 何故そうしたのか、その男を許したわけではありません。ただ、会うべきだと思ったのです。


 私は、本当は、実際にその男と会うまでとても怖かった。どんなに過去のことだと自分の中で片付けたつもりでも実際に会うと、その男の言いなりになってしまい誘われたら寝てしまいそうで、本当は怖かったのです。その男を崇拝して神のように崇めていた昔に戻ってしまいそうで怖かったのです。何年も会っていないけれども、あの頃の記憶に私は身体も心も蝕まれている自分を自覚していたからです。そのせいで自分が、あの男と別れてからもずっと「男を見る目がない」ことも自覚しているのです。


 けれども実際に会ってみると、なんてことはなかった。
 男は相変わらずに傲慢でそして時折優しくずっと煙草をふかしていた。珈琲にはミルクだけ、それも変わらなかった。

 
 私が昔長い間焦がれて焦がれて泣いていたあの当時のままだった。あの唇にどれだけキスしたいと思ったことか。あの指にどれだけ触れられたいと願って泣いたことか。あの煙草の匂いの染み付いた手にどれだけ頭を撫でられたいと思ったことか。


 私は煙草にさえ嫉妬していました。あの男が私の部屋から帰ると、残された吸殻を口にして泣いていました。彼と唇を合わせたい、彼とセックスしたい、愛してると言われたい、捨てるほどの愛でいいから、彼の「大事な恋人」の百分の一でいいから愛して欲しい。

 一番じゃなくていいから好きになって欲しい。「大事な恋人」が居ようが、働かない男であろうが、娘ほどの年齢の女にサラ金で金を借りさせて返さないクズのような男だろうが、傲慢で自分が誰よりも正しいと信じて人を打ちのめして陰口を叩かれるような男であろうが、それでも私は、あなた無しでは生きていけないと縋っていました。跪いて「お願い私から離れないで。なんでもするから、あなたの言うとおりにするから、だから私から離れないで嫌いにならないで。」と懇願していました。



 それはしかし「愛」などではないのです。自分という脆弱な人間を保つ為に、その男へ縋っていただけなのです。



 オウム真理教の事件の時に私は大変ショックを受けました。あそこには「私」が居る、と思いました。聞きかじった知識で身を守ろうとしながらも、そんな自分の脆弱さに気づいて自分の弱さを恐れて、その為に自分の中の欠損部分を埋める何かを求めて彷徨い、そんな人間の「弱さ」につけこむ「神」を騙る俗物に辿り着いて、縋って、縋って、そして「神」に侵食されて人を傷つけ破滅する人間達が巻き起こした事件を見て、ひとごとではなかった。



 あの男は私の「神」で、私は「信者」でした。
 そんな似非「神」と、似非「信者」の間には、愛情など存在するわけがない。



 数年ぶりに彼と会って取り留めのない話を少しして、案の定誘われました。あの男の中には私に対する罪悪感など微塵も存在していないのです。たとえわずかばかりの情の欠片が存在していても未だに自分が私にとって一番の男だと思っているだろうから誘ってきたのです。だから私はあの男が私を誘うこともわかっていました。


 そして私はそれを笑ってかわすことができました。どうして?と聞かれて、だってしたくないんだもんと答えました。あなたは私のことを好きじゃないし、私もあなたのことを好きじゃないじゃんと答えました。


 そして私は「勝った」と思いました。その男に「勝った」のではなくて、「自分の過去」に「勝った」とその時に初めて思いました。


 私がずっと恐れていたのは、あの男ではなかったのです。あんな取るに足らない愚かな男を恐れていたのではなくて、弱くて愚かで卑屈で、くだらないことばかりにとらわれてどうして生きたらいいのかわからないくせに上っ面だけを繕いがたる脆弱な私、弱い我が身を守りたがるあまり周りの人も自分自身をも攻撃して痛めつけて自分の弱さや愚かさを直視することが出来ず脆い鎧を身に纏ったクソみてぇな自分だったのです。


 世の中を見渡して下さい。自分を含めてクソみてぇな輩ばかりです。自分の身を守るあまりに嘘と偽善を鎧にして卑劣な武器で人を攻撃することでしか自分を保てない腐った輩ばかりです。人の足を引っ張ることにエネルギーをかけて自滅するヤツ、くだらねぇプライドに名を借りた思い上がりでようやく立っているヤツ、自分が絶対的な正義だと疑わずどこかで聞いた正論とやらを自分の言葉の如く吐き散らして笑われてるヤツ、「勝つ」ことでしか他人に対して自己主張をできないヤツ、ご立派な理屈を並べることだけ一流で何ひとつ自分の力では動けないヤツ、人を見下して差別することで嫉妬の苦しみをごまかそうとするヤツ、自分を卑下することで戦いから逃げてるヤツ、人の弱味を見つけることにだけは長けていて自分を賢いと勘違いしているヤツ、情報だけを仕入れて知性を身につけた気になっているヤツ、そういうクソみてぇな輩だらけだ、自分自身もそうだからわかるんだ。


 卑怯者ばかりだ。どうして嘘をついたり卑劣なことをするのか。それは弱いから、哀しいぐらいに弱いから、生きていくのが辛くなるほど弱いから、だから自分の身を守ろうと卑怯者になるのです。


 人は愚かで脆弱で、だからこそ「許されたい」。
 だから「愛されたい」。生れ落ちたその瞬間から、母の乳房を求める瞬間から人は肉体が滅びるまで「愛されたい」「許されたい」「救われたい」、そう叫んでいる。



 世の中はクソくだらねぇヤツラだらけで、自分も確かにその中の一人で、いろんなことがうまくいかなくって、酷い目にあったり傷つけられたりして、思いもよらぬ不幸に遭遇したりする。
 「地獄」です。生きていくことは地獄ですよ。だから「生きる術」を身につけて地獄を泳いでいくのです。



 私は弱いから、強くなりたかった。誰よりも強くなりたかった。けれども最近は、別に強い人間になる必要はないんじゃないかと思っています。弱いなら、弱いなりのやり方もあると思うのです。弱い人間が無理をして強くなろうとすると、どこかで歪が出来てしまう。弱いなら、弱いなりに、卑怯なことをせずに生きる方法もあると思うのです。


 私は今度好きな人が出来たら、卑屈にならずにちゃんと自分から好きだと言おうと思う。私みたいな人間に好かれて迷惑に思われたらどうしようとか笑われたら馬鹿にされたらどうしようとか手に入れてしまったら失うのが怖いから最初から欲しない方がいいとか、そういう自分の身を守る為に、自分だけが傷つかないような、求めるだけの恋愛はしたくないし、そんなものは恋愛ですらないように思えます。


 Nちゃん、生きることは地獄で、たまにそのことを考えると絶望に襲われて昔のように自分で自分を殺したくなることもあります。それでも地獄の中にも花は咲いている、美しい花が。
 私は仕事でいろんなところに行きます。いえ、身近な場所にでも、どこにでも美しい花は咲いていて美しい景色は存在しているのです。


 私は全身が焼け爛れそうな地獄の炎の中で、その花の為に生きようと思います。
 まだ、大丈夫だ。
 花が見える限り、その美しさを感じられる限りは、まだ大丈夫だ、生きる力は残っている。
 もう終わりだと、もう駄目だと今まで何度も思ったけれども、それでもまだきっと美しいものを感じたり人を好きだと思ったり、楽しい時間が存在したり、そう思える限りは、大丈夫だと思うのです。


 お姉さんは、20代の頃最悪でした。だからこそ今の自分は結構簡単なことで幸せになれたりするので、ま、よかったんじゃないかな、とも思う。そして失われた長い年月を、これから取り戻していきたいと思っています。望むものが何一つ手に入らなくて劣等感と罪悪感だけで生きてきた年月を。


 私は自分の性欲とか恋愛感情のような依存心で破滅してしまって、だからこそ「ちゃんとしてない」自分を肯定したいから、セックスや性欲という、どうしようもない不条理な人間の業を、自己肯定する為にAVを見ていたのかな、と思います。
 そうして私は世間ではいけないものとされてるセックスの世界を見て、「ちゃんとしてない自分」を少しは肯定するできて楽になったのだけれども、そんな私があなたにAVを貸して、結果として、あなたも何かそこに自己肯定する何かを見つけてくれたようで、お姉さんは嬉しいです。
 あなたに見せてよかったです。


 私は、これからゆっくりと自分の足で歩いていこうと思います。無理することなく、卑屈にならず、自分を守る為の嘘をつかずに。
 本当は、そうやって生きることって、すごく当たり前のことなんだけどね。でも、だからこそ、やれないことはないと思うんです。

 昔のように依存して縋るような卑屈な恋愛もしたくないのです。ちゃんと相手のことも受け止めて許して甘やかさないでいたいし、相手にもそうであって欲しい。そして、自分を守る為の嘘をつかないようにしたい。これは人間関係だけじゃなくって、仕事においても同じだなぁと最近感じています。そんな嘘をついたって、実は何もいいことはないんですね。以前は、そんな嘘やごまかしを当たり前のようにやっていました。人に対してだけじゃなくって、自分自身に対しても。それも自分の弱さや愚かさが許せなかったから、そういうことをしていたのだと思います。


 Nちゃん。
 お姉さんは、これから、今までのことを取り戻す為に、背中に張り付いた重い罪悪感を、ゆっくりでいいから、取り除くように生きたいと思っています。未だに罪悪感はいばらのように私の身体に絡み付いています。だからこそ、少しずつそれを取り外さないと、そうしないと生きていけないのです。今でこそ死にたいと毎日思うということはなくなったけれども、私はずっとなんとなく自分はロクな死に方をしないだろうと当たり前のように思っているのです。
 そんなふうに思って生きることが健全なことのわけがない。だから自分を許してやりたい。楽になるために。人も自分も痛めつけないように生きる為に。



 先のことはわかりませんけれども、劣等感と罪悪感で雁字搦めになって地獄を彷徨う亡者のような、昔のような生き方はしたくないのです。どっかでまた躓いて、同じことを繰り返すかもしれないけど、今の私は確かに昔の私ではないのだから、多分、怖いけど、自分のことを許せるように、そして自分の好きな人も許せるようになりたいと思う。いえ、なれると思います。


 Nちゃん、あなたに会えて良かった。今はあなたとは遠く離れてしまったけれども、あなたが前向きになろうとしている姿に恥じないように、私も弱く愚かなままで、そんな自分を許しながら、自分の足で生きていこうと思います。そうしないと、いつまでたっても、私は人と対等な関係を築けず卑屈なままで太陽の光の下でうつむいたままで歩くような生き方しかできないのです。


 長い手紙になりました。あなたに出会えてよかったと私は思っています。
 私は、あなたが好きだよ。いつもうつむいて早足で歩くあなたが、すぐに赤面するあなたが、「いやらしいよっ!恥ずかしいよっ!」と言いつつAVを受け取るあなたが、正直で、素直なあなたが、好きです。


 だから、あなたは、私のようにならないでください。私が、陥った場所にはいかないでください。
 その為にも、自分自身を、弱さも愚かさも全て自分だと受け入れて、前向きに、どうしたら、楽しく幸せに生きられるか、そのことを一番に考えて生きてください。
 他の誰でもない、あなた自身が、どうしたら幸せになれるかということを、大事にして。抱え込まなくていいことなんて、抱え込むべきじゃない。あなたには苦しんで欲しくない。あなたには幸せになって欲しいんです。


 Nちゃん。また、会いましょう。私達は、AVを通じて「友達」になりました。これも不思議な縁ですが、よかったと思う。あなたは私に「どうして、他の誰かじゃなくって、私にAVを貸してくれたの?」と聞きましたね。



 あなたで、よかった。
 あなたという人で。