その4 〜私がAVを見る理由〜


 ある日、AV調教中のNちゃんに、こう言われたのだ。

「私にAV貸すのはさぁ、私がAV見てることが○○さん(私の名前)は嬉しいんだよね。想像つくんだよ、出社前にAVを可愛い袋に入れて(むき出しでは会社で渡せないし)ルンルンって心から嬉しそうに鞄の中に入れてる○○さんが、、、。」

「あ、、わかるんだ、、、私、ちょっぴり変態さんかなぁ?」


 私がそう言うと、Nちゃんは首を横に振って、こう答えた。



「ちょっぴりどころじゃないよ。かなり変態だよ。」




 さて、そんな「私」という女が、AVを見ることについて。


 私が「女なのに」AVを、セックスを何故見てるのか。見たいのか。それは私という人間の「傷」が、それを求めるのだとずっと思っていました。
 人間は誰でも大なり小なり「傷」があると思いますけど、私の一番深いところに刻まれてる傷は、セックス及び性欲です。それは、もう間違いない。


 Nちゃんと、その彼氏の付き合いとかを見てると羨ましくなる。お互い好いて好かれて、なんかほのぼのしてて。実際はそんな平穏なものじゃないかも知れないけど、私には彼女達の付き合いは「普通の恋人同士」に見える。


 何が普通で普通じゃないかはともかく、私はあんまり「普通の恋愛」ってしたことがない。彼氏とデートとかもほとんどしたことがないし、一緒に旅行とかも経験無い。そもそも「愛されてる」とか「大切にされてる」とか思ったことが、全くではないけれども、ほとんどない。そのせいか男の人を信じることができない。

 
 20代のほとんどを一緒に居た20歳以上年上の最初の男と関係したきっかけはお互いの好奇心だけで甘い時間など無かった。初キスより初フェラの方が先だったような付き合い。男女のことをどっちが悪いとか、そういう事を一方的に言ってもしょうがないのだけれども、確かなことは「私の性欲を利用された」ことです。セックスを、ペニスを、私がその人を好きな気持ちと引き換えに、私はお金を要求された。

 私以外に「大事な、傷つけたくない」婚約者が居たはずのその人を失いたくなくて、私に対してその人が恋愛感情など無いことを知っていたのに、私はその要求を呑んだ。その結果私はたくさんのものと時間を失ってしまって、たくさんの人に迷惑をかけて、そのツケがまわってきて、「普通」の生活を送ることができなくなった。大嫌いな地元に帰ってきたのも、親にめちゃくちゃ信頼されないのも、その当時していた仕事を辞めざるを得なかったことも、サラ金に手を出して多重債務者となったことも、はっきり言ってしまえば、私は私の性欲に「人生を狂わされた」。



 そのくせ、その人とはほとんどセックスはしていない。セックスは、ペニスは餌だったから、切り札だったから。キスなんて許されなかったし。向こうは、向こうの言い分があるんですよ。自分が悪いなんて未だに全く思っちゃいないんだから。向こうからしたら、私に、私の「望むものを提供してやったんだから」お金を貰うのも当然って感覚なんでしょう。当然とまでは言わなくても恨まれる筋合いはないと思っていますよ、この人は。そして未だに自分のセックスとペニスで私を釣れると思っている人なんです。彼をそこまで付け上がらせて、駄目にしてしまったのは私だけれども。


 俺と寝たいのなら、俺と居たいのなら、俺はお前の望むものを提供してやろう。その代わり、お前は俺の望むものを提供してくれ。ギブアンドテイク、だ。


 お金を。無いなら、借りてくれ。いつか必ず返すから、絶対に返すから。

 そう言って、男が実際に私に返してくれたのは、私が男に貸した金の、百分の一の金額だ。だって、俺はお前の望むものを提供してやったんだ、うらまれる筋合いは無い。


 お前は、悪魔だと言われたこともある。キチガイだと言われたこともある。それでも私は、その男から離れられず、その男も私から離れず、長いこと一緒の時間を過ごした。うんざりするほど長い年月を。



 今思うと、さっさと他の男のとこに行けばよかったのに。若かったんだし。でもその頃の私は本来からの「女の不良品」「人間の不良品」コンプレックスに加えて多重債務者でもあり、男に「セックスをして頂く」ことしか出来ない自分は、人を好きになってはいけないと思っていた。同世代の女達にとってセックスは「男から望まれて、提供するもの」なのに、私にとってはお金で男を引き止めてまで「して頂くもの」だったから、そんな女が恋愛なんてしてはいけないと思っていた。多重債務者で目の前には「死」しかない女が恋愛なんて、するべきではない。できるはずがない。私みたいな「女の不良品」「人間の不良品」、男にセックスを「して頂く」「サラ金の多重債務者」の女を相手にしてくれる人は、目の前の20歳年上の男しか存在しないと思っていた。だから私は尚更その男に縋っていた。



 長い呪縛から解けて出会った次の男には前より先に後ろに入れられた。精液のついたティッシュを送られてきたり、歩道橋で咥えさせられたり。俺を好きなら俺のいうことを聞くんだと私の体に排便をして、写真を撮られた。私は彼とセックスしたかった。捨てられたくなかった。だから何でも言うことを聞いた。そんな私にうんざりした彼は私を捨てた。もともと彼には他に「セックスがとても良い一流大学卒エリート」愛人が居たし、セックスに興味が強いけれども経験の少ない私は、退屈しのぎに過ぎなかったのだろう。いらなくなったのです。見事に「いらない」と、捨てられました。



 別の男で好きだ好きだと思いもよらないほど優しい言葉をかけてくれて求め続けてくれた人もいました。私はその人に「私のどこが好きなの?」と聞くと「なんでも嫌がらずにやらしてくれるとこ」と言われました。私はそれだけの女なのか、じゃあ他にもっとそういう女が現れたらお終いじゃないのか、私はそれをとったら何も残らない女なのかと絶望に近い気分になり死にたくなりました。



 私が恋をする度に、私の女友達は「お願いだから、また都合の良い女にだけは、ならないでね」と言います。同じことを繰り返す私は友達に心底心配されていて申し訳ないので自分の恋愛の話はほとんど話せなくなりました。 
 どうしたら都合の良い女にならないのか。答えは簡単です。相手の男を決して好きにならないことです。好きになっては、いけないのです。



 お前はセックスが好きだから、それを商売にしたらいい。
 今までそう言った男は二人います。セックスを売れ、そしてその金を俺にくれと。お前は、それが好きだから、と。その二人のうちの一人(最初の男)は、私のことを愛してなどいない、憎んでいると思っていたから、言われてもしょうがないかなとは思ったけれども、あとの一人の男には、私は愛されてると思っていたから、そう言われて驚いた。そして、それは冗談ではなくって本気で言っていたのです。俺は、そういう男だ、お前のことは好きだけど、金になるなら他の男と寝てみないか、と。



 笑えるぐらいに、セックスはいつも私を奈落の底に突き落とす。いつも、いつも、私は私の性欲に刃を向けられ胸をえぐられる。



 こうして人の読むところに書けることなんて、ほんの一部で、本当はもっと嫌なことはたくさんあった。でも、それは書けない。自分が遭遇した出来事を自分の傷にするかどうかは人それぞれです。私と同じことを、私以上のことに遭遇して、それが傷になってない人もたくさんいるはずです。 


 でも私には、傷だ。今までの恋愛(の、ようなもの)もセックスも自分の性欲も、自分の傷だ。私を歪めた傷だ。私を殺した傷だ。



 そう、私は歪んでしまった。多分、最初の男との付き合いの中で、醜く歪みきってしまった。
 私は自分の性欲を肯定的に捉えることが出来ない。常に重苦しい罪悪感が付きまとう。 
 それは私の育ちも関係しているのでしょう。保守的な環境で保守的で堅実な両親に育てられたくせに、セックスと性欲に振り回されて人生を狂わされたキチガイ娘。生まれてきてスイマセン、って、親に対してはいつも思ってます。だから、親と話すと死にたくなる。



 それでもやっぱり私はセックスがしたくて、何人かの人とやってみたりもした。複数の人と同時進行で付き合っていた時もあった。男に「して頂く」自分への復讐のようにやりまくっていた時期もあった。それで人を傷つけたこともある。私は人に愛されたりしないし、男の人を信じることなんてしたくないから、この人が私に求めるのはセックスだけなんだと思い込んで、長々と気持ちを引きずらせて傷つけてしまったりもした。愛さず、支配のようなセックスをして男に復讐しようとしていた時もあった。自分を苦しめ殺した「男」という性への復讐に。
 そして「性欲に人生を狂わされた」愚かで「生きていてはいけない自分」を殺すかのように、破滅的な恋愛とセックスを求めていた。



 誰か殺して自分で自分を殺すことができない私を誰か殺して私は殺されることを待っている誰かお願い私を殺して。



 誰も好きにならず、愛さず愛されず、都合の良い女にならず、ただセックスだけを思う存分やりまくりたいと何度も思いました。そういう人間になりたいと。誰が好きこのんで自分の傷のかさぶたを剥がしたいものか。かさぶたを剥がさずに性欲だけ満たすことができるのなら、どれだけいいか、と。



 私にとって恋愛もセックスも、自分の傷のかさぶたを剥がす行為です。本当はめちゃくちゃヘタレなんです。
 性欲を利用されるのも怖い、過剰な性欲にうんざりされて嫌われるのも怖い、セックスさえ与えておけば満足するだろうと思われるのも怖い。



 そして何よりも、人を好きになって、その人とセックスしたいと思うのが、一番怖い。また同じことを繰り返して相手も自分を滅ぼして痛めつけあうのではないかと思うと、心底怖い。



 でも、この「怖い」って言うのは結局は自分が傷つくのが怖いだけなんです。保身に走ってるだけなんです。自分の身を守ることばかり考えている人間に、人を愛せることなどできない。そして自分を愛せない人間に、人を愛せることなんてできない。




 私は私の歪みと傷が、私にAVを見たいと思わせるのかと思っていました。セックスの映像を、セックスの世界を。
 そこで自分の傷を埋めることの出来る何かと、自分の傷である性欲を肯定する何かを探しているのではないかと。
 セックスに、性欲に罪悪感を持ち雁字搦めになって息が苦しい私を肯定して救ってくれる何かを。



 お前は悪くないよと言って欲しい。


 過剰な性欲を持つことも、セックスに対しての好奇心を利用されてしまったことも、お前が悪いわけじゃないんだよ、と言って欲しい。だって性欲なんて当たり前に皆にあることだから、お前はちょっとやり方を間違えてしまっただけで、自分の性欲を、セックスしたいという気持ちをそこまで憎まなくていいんだよと言われたい。自分を許しなさい親がお前を許さなくても、お前はお前を許しなさいと言って欲しい。性欲を持つ自分を許しなさいと言って欲しい。お前は悪くないんだよと言って欲しい、私を許して欲しい。私の目を見て、私に触れてそう言って欲しい。



 お願い許して私を許して暗黒の闇を孕み死神の顔を持つこの背中に張り付く罪悪感から私を救って欲しい。ふと気を許すと鎖鎌を首にかけて絶望の深く暗い淵に突き落とそうとする罪悪感から救って。



 だから、私は許されたくてAVを見ていた。セックスを、セックスの世界を。



 許されたい救われたい生きていいんだと言われたい。性欲を押さえ込んだり無かったことにしてごまかしたりして引き攣った笑いの仮面を被ったりしなくてもいいと、お前はお前のままで生きていいんだと言われたい。自分で自分を許してやりたい。どうかそろそろ許して欲しい。お前は悪くないんだよと言って救って。
 そうしないといつまでたって背中に黒い衣を纏う死神を背負ったままだ。



 傷は治ることはない。治るような傷なんて傷のうちに入りはしないだろう。人を好きになる度に、セックスをしたいと強く思う度にかさぶたが剥がれ血が吹き出る。






 痛い。





 多分これからもずっと痛む傷だ。だけどどうせ治らぬ傷ならば傷は傷のままで、傷も含めた自分という人間のままで痛みと共に生きていこう。そうすることしか出来ないのだから。


 私は、そうやってAVを時には痛みを感じながらも見ていたけれども、Nちゃんに出会って、ちょっと楽になったのだ。Nちゃんは私と正反対の人間のように思える。私と正反対で、まっすぐに生きてきた歪みのない人間に。
 私は自分の歪みと傷が自分にAVを見せているのだと思ってきたけれども、Nちゃんも私と同じようにAVを見て、ちゃんと欲情して、なんだ、同じじゃんって思ったのだ。
 私もNちゃんも、同じじゃんって。AV見てる自分に罪悪感とか劣等感とか感じなくっていいんだって。


 純粋に、欲情したいだけでAVを見ているのならそんなこと思わなくてもいいんだろうけど、私は私が自分の歪みや傷でAVを見ている部分があることを自覚してたから、AVを見たい自分っていうことを前向きに捉えることができなかったのです。

 でもNちゃんが「いやらしいよっ!」って一人で見て赤面して欲情してるのを見て、楽になった。すごく楽になりました。自分で自分を雁字搦めにしている鎖が、全部とはいかなくても、かなり解けた。だから、彼女は私にとって必要な人だったのだと思うのです。彼女と出会ったことも、彼女にAV調教したことも全て、必然性を帯びていたのだと。



 それでも傷は傷のまま存在しているし、これからもずっと人を好きになったり、好きな人とセックスすることはかさぶたを剥がす行為であることは変わりはないけれど。
 誰も好きにならず、人を避けて、オナニーばっかりしてる方が傷つかずにいられると思うけれど。



 それでもやっぱり私は、あなたとしたい、と思う。人を好きになって、その人とセックスしたいと思う。キスして、触れたい、と切に思う。かさぶたを剥がして、その痛みに泣きそうになったり、怖がって脅えながらも、自分の気持ちは無かったことにはできない。



 根がヘタレの根性無しの臆病垂れの弱虫だから、立ち竦んでしまうけど。私は強い人間だと人に言われることが多いですが、本当の意味で強い人間が、男とセックスと性欲にそこまで引きずられて人生を狂わしてしまうわけがないでしょう。私は、弱い。相当に弱い人間で、これからその自分の弱さの報いを一生受けなければいけないのです。自分の弱さが自分に消えない傷をつけたのだから。自分の弱さで人を傷つけたり痛めつけたりしないように、自分の傷を抱えながら、戦っていかなければならないのです。それは孤独で、もしかしたら勝ち目のない戦いかも知れないけれど。



 それでも「モロッコ」という映画のラストシーンで、マレーネ・ディートリッヒが、過去と未来をハイヒールと共に脱ぎ捨てて、焼け付く砂の熱さに足を捕らわれながらもゲイリー・クーパーの後を追うように、見果てぬ砂漠に向おう。そうすることしかできないのだから。前の見えない砂嵐の先に私の求めるものがあるのなら、そこに行くしか道はないのだから。




 たとえこの世が終末で、嘘と偽善の芥にまみれていても、この気持ちだけは真実だ。かさぶたをゆっくりと剥がすと血がポトポトと堕ちて砂に吸い込まれるけれども、それすらも今の私には甘く美しい痛みに思える。



 私は、あなたと、したい。 あなたに、会いたい。あなたを、あなたを攻撃する全てのものから守りたい。あなたの痛みも苦しみも、我が身のことのようにわかりたい。あなたに近づいて、あなたと、したい。
 その想いだけは、この世界で唯一の、真実です。