華やかなりし映画の都、京都
更新できないといいつつ、更新していますが。
本日、第5回の大人の修学旅行でした。
わたくしの当日レポートは、来週後半になってしまいますが、今回、講師として協力してくれました、「しゃべくりチャンバラ映画友ノ会」代表の小島雪さん(男性です)が、この日の為に作ってくれた、レジュメを、以下、UPいたします。
私が書いたんじゃないですよー。私はこんな知識ないから!
小島雪さんについて、ご相談、質問があれば、わたくしの方へ(メールアドレスはプロフィールんとこに載ってます)ご連絡下さい。
京都文化博物館で、復刻された貴重なフィルムで「動く牧野省三」を見た!
やっぱ写真と、動くのとは印象違いますねー。
あと、やっぱ大河内山荘は、いいよ。スケールが大きくて、あそこには「男のロマン」が集約してるのだ。
今回は、終了後、皆で「イノダコーヒー」にも行きました。
ではでは、以下、小島雪さんによる、今回のレジュメです。
〜華やかなりし映画の都、京都。映画の父と息子を探す旅〜
○企画意図
今回の大人の修学旅行は、映画の始まり、歴史を辿る旅です。
情熱を持つ事、夢や理想を追求して馬鹿になる事がいかに素晴らしく、楽しい事か。
好きな事を追求した素晴らしき映画馬鹿達。その足跡を辿り、少しでも明日の活力になればと思い、企画を立ち上げました。
まだ映画と呼ばれる少し前、映写機によって24枚の写真が連続に動く、動く写真、活動大写真と呼ばれていた時代。人々からは活動、もしくは写真を観に行こう。そう愛着を込めて呼ばれていました。
大衆を喜ばせたその娯楽は全国に広まり、当時交通に不便だった地方にも、映写技師達がフィルムをつめた木箱を自転車に乗せ、機材を持って活動写真を楽しみに待っている人達のために走り廻っていました。
観客は舞台や寄席から活動へと流れて行き、たくさんの銀幕スター、巨匠、名匠と呼ばれる役者、監督たちが現れます。映画創成期、まだみんな十代、二十代。三十代でベテランと呼ばれ若さと情熱が漲っていた時代です。
命がけで映画を作る、その為なら無茶だってする。そのエネルギーが現存するフィルムからも伝わって来ます。
映画最初のスーパースター尾上松之助、時代を変えた阪東妻三郎、当時の少年達の英雄、嵐寛寿郎。
そして伊藤大輔や山中貞雄といった天才監督と共に、時代劇初期に君臨した大河内傳次郎。
様々な力作、名作を作った彼らの痕跡が京都に残っています。
明治生まれの若人の情熱を感じて頂くために、足跡を辿る旅は今回大河内山荘から始めたいと思います。ぜひこの機会をキッカケに、何か感じていただければ幸いです。
しゃべくりチャンバラ映画友ノ会 代表 小島雪
○監督、役者紹介
☆尾上松之助……日本映画最初のスーパースター。牧野省三に見出され映画界へ。
英雄豪傑を演じ出演作は1千本を越えると言われている。
この人の映画に憧れ映画界に入った人は多数おり、そのどんぐり目を大きく見開き見えを切る演技から、目玉の松っちゃんと大衆より親しまれた。
☆大河内傳次郎……第二新国劇の脚本家、看板スターから映画界に身を転身、阪東妻三郎と共に日本映画界に君臨する大スターとなる。
大河内はその独特の三白眼とこけた頬、妖気漂う眼力と迫真の演技をもって映画界に突如として現れ、俳優番付で日本一の高給取りとなった。
☆阪東妻三郎……日本一のスターは誰かと問われれば真っ先にこの人の名前を挙げる人が多い。
歌舞伎の殺陣にスピードと悲壮感を盛り込み、新たな時代劇を作り出し、業界で初めての個人プロダクションを建て、阪妻プロダクションとして数々の作品を世に送り出した。世界配給も考えた先見の目を持つ。俳優の田村正和の実父。
☆嵐寛寿郎……今の六十代以上の方にあなたのヒーローは? と問えば、鞍馬天狗と答えるだろう。
剣劇、殺陣の上手さは東西随一、子供の味方で悪を挫く。天狗のおじさんが白馬に乗って登場すると、劇場内は拍手喝采。「待ってました!」と声が掛かる。
常に王道を作り続け、大衆のための映画作りに身を投じた巨人。
憧れと親しみを込めて、大衆からは嵐寛(アラカン)と呼ばれていた。
☆牧野省三……日本映画の父と言われ、監督、プロデューサーの先駆けを成した人物。
千本座の経営者から映画界へと身を転じ、尾上松之助を見出し、阪東妻三郎を始め、多くのスターを発掘、育て上げた。トリック撮影(特撮)などの技術革新や、映画作りの基礎を築いた。
孫には津川雅彦(マキノ雅彦)、長門祐之がいる。
☆黒澤明……日本映画の実力を世界に示した監督。世界中の映画関係者に影響を与えた功労者。
常に第一線で活躍、現代劇、時代劇に新風を吹かせた。
昭和26年(1951年)にヴェネチア国際映画祭金獅子賞を『羅生門』で受賞。
平成2年(1990年)に米アカデミー特別名誉賞を受賞。他多数の受賞暦を持つ。
黒澤監督に影響をうけた人物の中に『ジョーズ』のスピルバーグや『スターウォーズのルーカス、他多数。
○日本映画創成期の歴史
明治41年(1908年)、千本座の座主だった牧野省三、当時30歳。横田商会の協力を得て京都の真如堂で初めて撮影した無声映画が『本能寺合戦』。これにより日本映画の幕が開いた。
当時舞台では初代中村鴈冶郎、六代目尾上菊五郎、寄席では初代江戸家猫八などの一枚看板が存在していた。活動写真にもスターがほしいと、牧野省三は旅回りをしていた尾上松之助一座を偶然見つける。省三は、松之助の運動神経の良さに目を付け、映画界へと誘い、コンビ第一回作品を大超寺で撮影、『碁盤忠信』を発表する。明治42(1909)このどんぐり目の英雄に大衆は魅了され、松之助は銀幕のスターとなった。
大正10年(1921年)省三は松之助とコンビを解消。新たなスターや監督を発掘、育てるため、京都等持院に自身の撮影所を構えた。
大正12年(1923年)に阪東妻三郎が入社、脇役などの下積み生活を送った後、主演した『鮮血の手型』で注目を集め、英雄豪傑、講談調の松之助とは違った新たな魅力に大衆が引き付けられ、苦悩する人間像を作り出した阪東妻三郎の新時代へと移り変わっていく。
大正15年(1926年)日活京都撮影所に監督伊藤大輔が入社、同年に舞台から室町次郎という役者が入社して来る。名を改め大河内傳次郎とし、伊藤大輔との初コンビである『長恨』を発表。日活、松竹、マキノと、各会社から次々とスターが生まれ、時代劇黄金期の幕開けとなる。
時は過ぎて昭和6年(1931年)国産トーキー第1作『マダムと女房』が松竹キネマより発表され、映画に音が生まれた。その5年後、昭和11年(1936年)に黒澤明がP・C・L(現東宝)に入社。
助監督の仕事ぶりや脚本で注目され、昭和18年(1943年)に『姿三四郎』で監督デビュー。昭和25年(1950年)に発表された『羅生門』が翌年世界に注目され、昭和33年、日本映画の黄金期は絶頂に達し、日本全国の映画館、その入場者数は歴代最高の12億人を記録した。
○ 場所説明
☆大河内山荘……大河内傳次郎が30年以上かけて作った6千坪もある庭園出演料のほとんどを費やし、今は観光スポットとして旅行客に親しまれている。大河内記念館が平成元年6月(1989年)に完成。
☆太秦・大映撮影所跡……新興キネマ、大都、日活が1942年に合併、大映となる。羅生門を皮切りに、次々と海外で賞を取る作品を発表する。
☆京都文化博物館……京都の文化、歴史を紹介する文化施設。古い日本映画の資料、フィルムが保存されており、毎月上映会も行っている。