どしゃぶりの雨の中


 数年前のあの日は、雨が降っていた。
 雨音を聞きながら私は、荷造りをしていた。昨夜から寝ていなかったのに、全く睡魔は訪れなかった。
 家賃の滞納に業を煮やした大家が実家に電話を入れた。家賃の滞納どころではなかった。借金が膨らみもうどうしようもなくなっていた。
 大家と親からの電話を受けた時、私は恋人ではない家庭のある男とホテルにいた。私は電話を切り自分の愚かさが引き起こした事態の発覚に号泣した。恋人ではない男は泣く私を抱きしめ、「僕は何もしてあげられない、ごめんね、ごめんね」と言った。男はそのまま私の上に乗りいつものように挿入した。
 同情しながら欲情し、自分の上で腰を動かす男を私は泣きながらも冷めた目で見ていた。男の欲望の正体は、こんなものかと、思った。

 「すぐに帰ってきなさい」と親に言われ、私は男と別れ家に戻り荷造りを始めた。雨が降っていた。雨の中、何度もごみ袋を持ってゴミ捨て場まで往復した。びしょ濡れになった。捨ててしまわなければいけないものがたくさんあった。昔、書いた脚本の束。評価され新聞取材も受けたことがあったのに、私はある時から一切モノを書けなくなったいた。死ぬ気で貢いだ文章書きの男に「君には書く力はないよ」と言われてからだ。それでも昔書いた脚本の束は残していた。
 だけどそれも捨てようと、思った。殺してしまおうと思った。評価された自分も、愚かな自分も、全て殺してしまわなければ、と。
 もともと全てが親に発覚すれば死ぬつもりでいた。そうではなくても三十歳までには死ぬつもりで生きてきた。私には未来は無い。借金塗れで、1人の男に愛されずとも貢ぐしかなかったクソ女。最低の駄目人間。生まれてくるべきではなかった人間に未来などない。
 私はその男と関わってきた永い永い年月、毎日責められていた。罵倒され怒鳴られ言葉を封じ込められてきた。それでいて性器を咥える行為だけを「お前の好きなモノを与えてやる」と言わんばかりにさせられていた。男は帰る時には、私の財布の小銭までを一円たりとも残さずに持っていった。金を貸すことを拒否すると攻められるか、「俺は死ぬ」と脅された。
 卑怯な男は、まだのうのうと生き続けている。

 

 今週は、仕事のキャンセルの対応に追われて疲弊した一週間だった。本来ならば忙しく毎日バスに乗っているべき時期なのに、新型インフルエンザの感染拡大により殆どの仕事がキャンセルとなった。幾つかの大手バス会社は、億単位の損害だと言っていた。京都の旅館に勤める知人もそう言っていた。幾つかの会社はこの事態に耐え切れないだろう。社員ではないバスガイドは日雇い労働者である。今はバス会社が正社員を雇って定期的な給与を払うことが出来ないので、ほとんどのバス会社はこの派遣ガイドに頼る。昨年の道路交通法改正によるシートベルト着用義務で「座って案内ならばバスガイドはいらない」と仕事が激減した。そして今回の件で本来ならば年間収入の何割かを稼がねばいけないこの時期に収入が途絶えた。夏は元々仕事が無い。昔は花形だったこの職業は、今はもう「食えない」職業だ。
 この時期に収入が絶たれるということは、食えないどころではない、首をくくらねばならない人が出るかもとすら思う。

 最近、1人の先輩が姿を消した。マンションに荷物を置いたまま居なくなり、電話も繋がらず管理会社も困惑している。そして頻繁に会社に彼女宛ての電話がかかってくる。複数の金融会社だ。彼女は家庭のある男を養い、病気で亡くなるのを看取った。その後も別の家庭ある男に金を渡していたという。ギャンブルも好きだった。家族の不幸もあった。複数の人間から金を借りて問題になっていた。
 彼女以外にも、複数の人宛にかかってくる金融会社からの電話がある。金融会社は友人を装いかけてくる。しかし私は話の内容で金融会社だということがわかる。連絡先として聞いた番号を検索すればどの消費者金融かということもわかる。
 消費者金融に手を出してはいなくても、しょっちゅう電話が止められている人や、借金で生活窮の人も何人も知っている。

 だけどそれでも春と秋は仕事があったのだ。昔と比べ少なくなったとはいえ。
 それが絶たれた。

 業界の人間が集うと愚痴ばかりだ。そしてブランド物など仕事に持っていこうならば、「稼いどるなぁ」と嫌味を言われるので持たないように皆している。どこに行っても愚痴だらけ。ガイドの「チップ」をくすねる運転手も、いる。昔は良かったと愚痴だらけ。そしてこの不況の犯人探し。だけどそれはまだいい方なのかもしれない。世間を見ずに、「仕事が少なくなった」「いらないと言われている」ということに未だに気付いていない人もいるのだから。

 どしゃぶりの雨が降る。どうにもならない雨が急激に降り、あまりにものことに傘を準備している人も少なかった。
 報道や、関係者の泣き言を聞き続けて、私は、この業界は、「死んだ」とすら思った。
 だけど一つ、強いなと思ったのは神戸の人達で「震災の時に比べれば、まだマシだ」という声もある。けれども、あの頃より経済的な軸足は弱くなっていることも確かだ。


 私は数年前の雨の日、何故か死ななかった。
 ずっと親にバレたら死のうと思っていたのに、何故か荷造りをしていて、翌日に迎えに来た両親と共に田舎に帰った。京都を離れるワゴン車の中で、「いつか、絶対に京都に帰ってくる」と、去り行く景色を見ながら考えていた。
 私はあの雨の日、本当は、死んだのだ。
 いろんなものを捨てざるを得ない状況になり、落ちて、死んだのだ。

 再生するためには死ぬことが必要だった。
 死ぬ夢は、新しい何かが始まることの象徴だという。
 だから、私はあの時、一度死んだのだった。


 自分が今居る業界の惨状を目の当たりにしながら、どこか私は冷静で、この一週間の業務で激しく疲労はしているが、落ち込んではいない。
 ただ、自分も、もう一度、死ぬ時が来たなと思った。
 腹をくくって、潔く死のう。
 生き残るために。