君の未来は明るい


 君はバスの真ん中より、少し前寄りの座席にいた。
 身を乗り出して私の話を聞こうとする君は、背が高く色白の澄んだ目の少年だった。


 同僚が、「修学旅行の仕事が続くと、仕事を辞めたくなる」と言っていた。
 普段、ツアーや御一行さんに行き慣れているベテランのガイドさん達は、修学旅行というと、本当に嫌そうな顔をする人も少なくない。
 派遣のバスガイドの中には、「修学旅行の仕事は受けない」ところも多い。
 生徒達は話を聞かない。露骨にバスガイドの容姿や年齢を嗤う子供もいる。傲慢な教師もいる。説明を聞かない、バスの中では案内を無視してゲームをする。お寺などで下車説明をすると、「こんなところ面白くねー」と文句を連発される。高速道路でのシートベルト着用を何度注意しても言うことを聞かない、先生も全く注意しようとしない、あげくの果ては「うるせー」と逆ギレされる。
 全ての意欲を失っているかのような先生も、少なくない。
 とにかくその場にいて、その場をやりすごすことだけで給料を貰うだけの「先生」が。
 全ての情熱や意欲を失い、明らかに生徒にバカにされている先生が、いる。
 けれど、状況を見ていると、そうやって割り切らないと、やってられない。まともに対峙するとそれこそ壊れてしまうのではないかと、思う。

 だから私達も、割り切るようにしている。
 生徒は話を聞かないものだ、言うことを聞かないものだ、と。
 京都と奈良なんて、お寺ばかりだ。
 案内も歴史の話がどうしても多くなる。
 そして、どうやら今の教科書、教育は、「これを言ってはいけない」ということも多いらしいし、内容も驚くほど薄いらしい。
 伊勢神宮に行くと、「ご参拝」と言わず、「見学」と言ってくれと言われることもある。
 皇室の祖が祀られていることに触れてはいけないらしい。ましてやそこに手を合わす「ご参拝」などするな、と。


 歴史の話を聞くよりも、お寺に行くよりも、そりゃあユニバーサル・スタジオ・ジャパンで遊ぶ方が、バスの中でゲームをする方が楽しいだろう。
 難しい話なんか聞きたくないだろう。
 しかし私達は仕事だから、歴史の話をして、お寺を説明してまわる。
 例え生徒が聞いてないからと言って、仕事を放棄すると、それこそ「バスガイドが仕事をしない」とクレームが来るのである。

 そりゃあ、私も修学旅行の仕事より、一般のツアーや御一行さんの方がいいよ。
 話を聞いて、旅行を楽しんでくれる大人達と接する方が、温泉旅館で美味しいもの食べてゆっくりできる仕事の方がいいよ。
 修学旅行の仕事は、バスガイドは休む暇があんまりない。バス車内で案内して、お寺では説明しながら一緒に歩いて、そして食事もついてないことが多い。
 続くと、体力的にも経済的にもしんどい。
 私も先週、歩き周る仕事が続いて、身体を動かすのもしんどい時があった。朝、起き上がれなかった。
 五十、六十歳のガイドさんなら、尚のこと辛いだろう。

 だけどこの御時世、仕事は選んでられないのだ。
 選ぶ人間には仕事がない。


 今週の、ある中学校の仕事で、君と出会った。

 元気のいい学校だった。「やんちゃ」で、積極的にこちらにも懐いてくれて、いい子達だなとは思ったが、案の定、お寺では話を聞く気はなく、「暑い」「早く宿入りたい」「こんなとこ来たくない」の連発で、車内ではカードゲームをしていた。
 だけど勿論、先生達には「ガイドさん、ずっと説明してください」と言われたから、私は奈良・京都をずっと案内していた。出来るだけくだけた内容にしたつもりだったが、「天智天皇」「聖武天皇」「藤原道長」「徳川家康」「平清盛」などに、皆全く興味はないようだった。
 それはいつものことだ。

 しかしただ1人、君だけは、身を乗り出して私の話を聞いていた。
 驚いたのは、私がマイクを持って歴史の質問をすると、ほとんど君が的確な答えを言ったことだ。
 先生に後で聞くと、「彼は授業中でもあんな感じで熱心に聞きますよ。そして今回の修学旅行のために調べても来ているんでしょうね」とおっしゃった。
 しかし、修学旅行の行き先とは関係のないような、雑学的な質問にも、君は答えた。

 二条城を誘導しながら、君に喋りかけると、お城の石垣の運搬に関して、エジプトのピラミッドの話が出てきたりして、私は君の知識に広さと深さに驚いた。

 たまに、「歴史オタク」な生徒は、いる。
 「俺は知ってるんだぞ!」と威張りたいような傲慢な言い方をする人間は、子供でも大人でもいる。
 けれど君はそういう感じではなかった。
 物事を知りたいという「好奇心」が満ち溢れていた。
 ただただ、知りたい、見たいという好奇心が溢れていた。
 そのことに、感動した。

 偉くなりたいわけでも、いい大学に入りたいためでもなく、世の中を知りたい、見たいという好奇心。
 本をたくさん読み、いい大学を出て、自分は偉いんだと勘違いしているバカは世の中にたくさんいる。彼らは知識や情報はあるが世の中を知らない。
 自分の知識を自慢したがるヤツラは、大抵そうだ。世の中を知らない。知らないから武装したがるのだ。

 何かの枠にとらわれず、世の中を知ろう、見てやろうという好奇心に溢れていた君。
 学生達に接する度に、「これからどうなるんだろう」と、暗い未来を見てしまうことも多い。
 あまりにもオトナをバカにして、そのことを「カッコいい」と勘違いしている子供が多いからだ。
 そしてそのままオトナになった人間も、たくさんいる。人をバカにすることがカッコいいと勘違いしたバカが。

 私は祖父の影響で、NHKの大河ドラマを小学生、中学生の頃ずっと見ていて、「峠の群像」をやっていた時は、祖父が赤穂城に連れていってくれた。
 叔父が歴史小説を家にたくさん持っていたので、それを借りて読むようになった。
 学校の勉強なんかより、小説を読むことの方が楽しくて、授業中、教科書の中に隠して山岡荘八の「徳川家康」全26巻を読破した。
 変な子供だったと思うし、今でも変わり者扱いされることは多い。
 私の部屋の本棚は、歴史・京都の本がほとんどで、読書傾向は山田風太郎とか、司馬遼太郎とか、ノンフィクションとか、「男みたい」だと言われる。
 歴史、司馬遼太郎の話で、男の人と盛り上がることはあるけれど、女同士で話すことは、ほとんどない。

 バスガイドになったきっかけも、司馬遼太郎だった。
 大学の寮で、私の本棚に「竜馬がいく」が並んでいるのを見た娘が、「そんなに歴史が好きなら、アルバイトでやってみないか」と誘ってくれたのだ。

 私の知人の男子には、何人か「竜馬がいく」を読んで、人生が変わったという人がいる。
 東山の霊山護国神社の竜馬の墓にいると、そういう人間達からのメッセージがたくさんある。

 歴史というのは、最も面白い「話」だ。
 だから私は歴史小説が一番好きだ。
 歴史小説を読まないということは、人生をかなり損している、歴史を知らない、知ろうとしないということは、人生の楽しみを失っているとさえも思う。

 
 混沌とした世の中で、未来を持たない子供達と接したり、事件のニュースを見る度に絶望しそうになるけれど、好奇心に輝いたその瞳を見て、君の未来は明るいと思え、そのことに私は救われた。

 バスを降りる時に、私は生徒達に「さよなら」と挨拶をした。
 君が降りる時には、つい「頑張ってね」という言葉が口から出た。
 君は照れくさそうに笑った。

 君ともっと語る時間が欲しかった。
 もっと、この国の歴史、この街の歴史の面白さを伝えてあげたかった。
 
 君はこれからもっともっと知りたいことが溢れてきて、知れば知るほど面白くなっていくだろう、いろんなことが。
 そういう君の未来は、明るい。

 君より遥か年上の私は、いろんなことに絶望している。
 しなくていい経験をして、見なくていいものを見て、いろんなことに絶望して、そのことが未だに苦しい。
 しなくていい経験など無いのだよと言ってくれる人はいるけれど、時折自分で自分を殺したくなるほとの慙愧の念や自己嫌悪に襲われることが、どうしても止められない。
 
 社会の中で生きていると、あちこちに横たわる絶望を目の当たりにせざるを得ない。
 そんな中で、生きていかねばならぬ、子供達は、大変だなと思う。
 幼い甥や姪を見ると、この子達の将来はどうなっているんだろうと、ふと暗い気分に陥ることがある。

 私もいろんなことで、心が折れそうになる日々を過ごしている。
 自分が選択したことだから、弱音を吐いてはいけない、逃げてはいけないと、全て自分の責任なんだから受け止めなければいけないと思いながら、心が折れそうになる。

 だけど、上手く言えないのだけれども、君に会って、私は少し救われた。
 明るい未来が約束された、澄んだ瞳の君と出会えて、救われた。

 そういう日もある。


 願わくば、君が、君のままでこれから先もずっといられますように。 君が君のままで居られたなら、この国の将来は、そんなに悪くはならないんじゃないかと、私は思う。


 司馬遼太郎が、君達に向けて書いた「21世紀に生きる君達に」という本を、いつか読んで欲しい。
 それを君に言えなかったのが、心残りだ。

二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)

二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)