彼の岸へ送る火


 終戦記念日はいつもなんとなく晴天のような印象がある。昨日も鮮やかなスカイブルーの眩しい空だった。

 勿論私は63年前の戦争が終わった日を知らないけれど、12年前に亡くなった祖父にその当時の話を聞いたことがある。
 祖父は満州に行ったが、そこで病気になり前線には行かずに命が助かった。もしも祖父がそこで亡くなっていたのなら私は勿論今この世にいない。

 祖父は生き残ったけれども、祖父の戦友達はたくさん亡くなった。今でも私の実家の蔵の二階には軍服や千人針や当時の写真や手紙などが残っている。
 満州の病院から日本にいる婚約者と祖父がやりとりしていたたくさんの手紙も残っている。終戦後、祖父は婚約者と結婚し私の父が生まれた。

 子供の頃から、田舎の蔵の二階が好きだった。古いものがたくさんある蔵の二階はわくわくする場所だった。ギシギシときしむ木の階段を上ると壁に様々な人の名前が記された日の丸の旗が貼り付けられていた。

 私の兄弟達は皆、祖父のことが大好きだった。両親共仕事を持っていたために、幼い頃から学校の送り迎えは祖父が主にしてくれた。兄弟が多いので、交代で祖父母の部屋で寝泊りをした。両親が居る居間より祖父母がテレビを見ている部屋に行く方が好きだった。私が歴史を好きなのは、幼い頃から祖父とずっと一緒にNHKの大河ドラマを見ていたからだ。妹達の昔の写真を見ても、両親より祖父と共に写っている写真の方が多い。どこかへ遊びに行く時も祖父に連れていってもらう方が多かった。

 祖父はしっかりした人で地域のゲートボールの役員を勤めたり、「ボケ老人にならない本」などを読んでいた。温厚な人で怒ったところを見たことないのだが、若い頃は気骨のある気性の激しい人だったそうだ。

 祖父は癌を発症し、入退院を繰り返した。何度も回復して車の運転などもしていた。
 12年前に何度目かの入院をした祖父は明らかに今までとは様子が違った。祖父自身は告知はされていなかったようだが本人は自分の命が永くないことを知っていた。私はその頃大学を留年し、春休みで実家に戻っていた。祖父の命が「あと二ヶ月」だと聞いていたから。祖母と叔母と母が病院に通い交替で祖父の介護をしていたので、私は実家の家事をしていた。妹や弟は高校生だった。

 私の母は熱心に祖父の介護をしていた。実の娘でもないのに甲斐甲斐しく祖父に付き添う母の様子に感激した祖父は病室のベッドで泣いたそうだ。祖父の涙を見たのは、叔母が結婚した時以来、2度目だと祖母が言っていた。

 私は何度目かの留年が決定したところで、両親には「心配をかけたままではいけないから、卒業したということにしておきなさい」と言われて、祖父に嘘を吐いた。「大学を卒業した」という私の嘘を信じた祖父は、「よかった」と病床で笑った。

 3月には黄疸が出てきた。病院に行く度に祖父の命が今度こそ永くないと思わざるを得なかった。私は家を守り、母は介護に通っていた。

 
「明日、おじいちゃんとおばあちゃんの結婚記念日だ」

 と、私が言った。母は、

「じゃあ、明日ぐらいかもしれないね」

 と答えた。祖父の命はあと数日と医者に宣告された日のことだった。
 そして、結婚記念日に祖父が息を引き取ったと連絡があった。準備された「さよなら」の期間があったので驚きもしなかった。ようやく祖父も楽になったのだと思った。

 葬儀の日は4月なのに雪が舞っていた寒い春だった。

 祖父が亡くなった後、母は祖父の遺品を整理しながらずっと泣いていた。若くして「田舎の長男の嫁」となり苦労を重ねてきた母を舅である祖父が優しく助けてくれていたそうだ。
「おじいちゃんが居たから、私はやってこれた」
 と、母は言う。母はその後も祖父の死を受け入れられず、「幽霊でもいいからここに居て欲しい」と言いながら泣いて祖父の日記などを整理していた。


 結局その後も大学を卒業できず中退した私は、祖父が生きていたら嘆き悲しむであろう「愚かで恥ずかしい人生」を送る。可愛がっていた初孫の無残な20代を祖父が見ずに逝ったことが幸いだ。
 そして私はそのツケを払うために実家に戻り旅行の仕事を始める。そこで「遺族会」に付き添い東京の靖国神社へ行く機会があった。

 「遺族会」はその名の通り、戦死した人達の肉親が集う財団法人で厚生労働省が実質的に運営している。(元厚生大臣だった小泉元総理が強行に靖国参拝をしてたのは・・・)現在の会長は衆議院議員古賀誠
 遺族会の仕事がなけられば、私が靖国神社に行くなんて機会は無かっただろう。ともかく、仕事で数年前に遺族会の方達と共に靖国神社に行って遊就館http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/にも入った。

 その際に、遺族会の方達が参拝の記念として靖国神社と桜の絵が入った記念の盆を私の分もご好意で作ってくださった。家に帰って仏壇にそれを供えた。その時に母に聞いて初めて知ったのだ、仏間に掲げてある祖父の遺影には桜の花が添えてある。その桜は、祖父が靖国神社に参拝した際に持って帰ってきたのだということを。

 先月実家に帰省していて、母や弟の妻や妹達と「名前」の話をしていて驚いたことがあった。私はもしかしたら「靖子」と名づけられるかもしれなかったのだと母が言った。祖父が提案した2つの名前の候補があって、結局「靖子」ではないもう一つの名前が今の私の本名だ。そして、もしかして初孫の私につけられたかもしれないもう一つの名前は、祖父の想いが籠もる「靖国神社」からとられたのだと初めて知った。

 今になって祖父が亡くなった戦友達に対してどれほどの想いを抱き続けていたのかということをおぼろげながら知った。そして自分も彼らと共に死んでいたのかもしれないという想いを抱いて生きていたのであろうことを。
 友人達が亡くなり、自分は生き残り、歳をとる。生き残った人間は、生きるしかない、自分の人生を。

 平和な世に生まれた私は「友人達が戦争で次々に亡くなり自分は生き残る」状況になった時の感情が想像もつかない。



 ただ、祖父は亡くなった友人達のことを生き残った自分は忘れずにい続けようと、靖国の桜をずっと大事にしていたのだろうと思う。



 今日は、京都では「五山の送り火」で、山に火が燈される。送り火の由来は諸説あるけれど、盆に此の岸に戻ってきた精霊達を彼の岸に送る為の行事であることは間違いない。


 祖父よ、私はあなたが亡くなる時に嘘を言わざるを得なかったことを、嘘を言わざるを得ないような生き方をしてきたことをずっと悔いています。
 私は、あなたにだけは、許されたいのです。