サマータイム

 夏は通勤時の満員電車が臭いです。たまに拷問のような時があります。密室はキツいです。

 夏は裏地のあるスカートより綿の軽いスカートが涼しいです。今日履いてたスカートは380円(どこで買うんだよって)の安物で、気合の入ってない生地で非常にいいです。

 夏はビールが美味いといろんな人に言われますが、1人では飲みません。

 夏は洗濯の機会が多いのに洗濯機が調子悪くてブルーです。

 夏になると長い髪がうざいので切ろうかなと毎年思うけど、結局切りません。短い方が手入れが大変だからです。

 夏は台所がすぐ臭くなります。おかげで掃除がマメになります。


 今日から8月。
 2年前、7月いっぱいで当時勤めていた会社を辞めて、8月2日に実家を出て京都に引っ越した。なんて暑い時に引越しをしたんだろうと、思う。

 最近よくない意味で話題の「工場での派遣」を2年前の7月31日までしていました。
 私の在籍した工場は、大手メーカーで携帯電話やテレビのリモコンなど細かい部品を製造していて、女性の仕事は主に検査業務でした。工場の派遣でもいろいろあるけれど私のいたところは作業着ではなく正社員と同じスーツでなかなか皆にも「かわいい」と評判の制服だった。
 複数の派遣会社がそこに入っていて、私が働き始めて1年目ぐらいに大規模な社員のリストラがあった。女性社員は基本的に全員退職、もしくは転勤。随分社員が退職して、その分派遣社員の仕事が増えて、連日早出残業で体力的にはキツかったけれども稼げた。

 派遣社員になって、良かったと思うことはいくつもあった。その前に、私は短期間旅行会社の正社員だったが、残業代、ボーナスは出ないわ、家族経営の悪い処を集積した馴れ合い会社で給料は遅配するわで、最悪だった。(他にもいろんなことがございました)結局その会社は次々と人が辞めていき、風の噂で倒産したと聞いた。
 「正社員」である時にそんな目にあったので、派遣という枠で守られて、残業代がキチンと出るなんて素晴らしい! と思った。

 工場の仕事は一部を除けば仕事は単純作業だった。だけど単純作業=誰にでも出来る仕事、ではない。続かない人間も多い。けれども学歴も経験も資格も必要ではなく採用される貴重な仕事であった。

 何故工場の派遣の仕事をし始めたか。
 他に無かったからだ。お金が必要だからとにかく働かないといけない。職安に通ったが、PCもまともに使えない、学歴もない、年齢も三十を過ぎている女には職が無かった。新聞の折込広告の募集も6、7割が派遣会社で占められる。特に私の実家があるような田舎は土地が安い分、工場が多く、「工業団地」と呼ばれる複数の工場が立ち並ぶ地域が何ヶ所があった。

 私の勤めていた工場に居た若い男の子達は半分は全国各地から寮住まいをしている子達だった。女は地元の人間ばかりだったけれど、驚くほど離婚歴のある人が多かった。若くで結婚して子供を育てていた人は学歴も職歴も無くて、しかも子供が急に熱を出してしまうことなどがあるので、シフト制などの販売業は無理だった。工場なら人数が多い分、多少は急に休んでも融通がきく。派遣会社もその辺はわきまえてて、その人個々の事情を聞いた上で、各部署に配置していた。
 「中卒」「勤めの経験無し」で働ける職場なんて限られている。だから若くで結婚し離婚し子供のいる、学歴や職歴の無い女性が多かったのだ。離婚して慰謝料や養育費をちゃんと貰っている人の方が少なかった。離婚の原因はたいてい暴力・借金・女性関係。

 しかし彼女達はたくましかった。そこの職場で離婚して後悔したと言っている人とは1人も逢わなかった。経済的には苦しいけど別れて良かったと言っていた。シングルマザーだけではない、不景気で夫が失業して子供と家のローンのために家事をしながらフルタイムで働いたり、皆必死だった。

 私は実家を出て京都に戻る為に依頼された仕事は一切断らずに毎日残業早出をして出張も好んで行った。独身で親と同居で「優雅な身分」の筈なのに、なんであの人はあんなに休日出勤してまでも仕事をしているんだろうと不思議だったと、退職したあとで同僚に言われた。

 短期で入社してきたAという女の子がいた。顔は地味だが背の高いスラっとした20代半ばの女の子だった。とにかく仕事をするのが嫌でめんどくさいという態度を丸出しにする娘だった。
 ある日、休憩室で彼女が私に喋りかけた。

A「仕事、楽しいですか?」

私「楽しいわけないでしょ」

A「ですよねー、もう私、仕事がつまんなくてつまんなくて。よくみんなこんな仕事を真面目にずっとしてるなーって感心するんですよ」

私「私だって楽しいと思ってやってないけど、お金を稼ぐためだから」

A「私ねー、大学生の時にコンパニオンやってたんですよ。お酒飲めて楽しくて時給良くって、だからこういう仕事しんどいんですよ。一日中座って単純作業して。私、外語大学出てるんですよ。本当はスチュワーデスに今頃なってる予定だったんですけど、試験落ちたんです。でもやっぱり英語力を生かせる仕事をしたいんですけど、田舎はなかなかそんなのないでしょ? で、自分の能力をいかせる仕事を見つけるまでのつなぎでここ来たんですけど、面白くないんです。よく、こんな仕事をそこまで真面目に皆さんやれますね。すごいですね」


私「みんな、生活のためにお金を稼がないといけないからね」


 しばらくして彼女は「英語力をいかせる職を見つけた」と言って辞めた。数ヶ月後に街で偶然再会した。その時には「結婚したんです。仕事? 辞めて今は主婦してます」と言っていた。


 彼女が本当は都会で外語大出の英語力を生かす仕事をしたかったが、彼女の弟が悲惨な死に方をして家庭が崩壊し田舎に帰らざるを得なかった事情を知っていたけれど、それでも彼女のことが私は好きになれなかった。

 彼女と同世代で、学歴も職歴も無く離婚して子供を育てるために必死で働いている人達は何人もいた。「仕事が楽しくないからしたくなーい」と、サボることばかりを考えて、傍目から見て見苦しいほどダラダラとしていて、「私、本当は今頃スチュワーデスになってるはずだったんですよねー」が口癖の彼女は、生活に追われて子供を育てながらがむしゃらに働く同世代の人達をどう見ていたのだろう。

 私は地元ではいわゆる「進学校」を卒業していたので、よく同僚達に「どうして工場なんかにいるの?」と言われた。どうしてと言われても、私は大学に入学はしたけれども留年を繰り返し中退して、あげくの果ては男に依存して貢いでサラ金地獄に陥り職も住むところも失い実家に連れ戻された若くもなく、学歴もなく、資格も特に誇れる職歴もない独身女で、働く場所が無かったのだ。旅行関係の資格はとったけれども、田舎は働ける場所がない。だけど私はお金が必要だったから、とにかく何でも自分を採用してくれるところなら選ぶもクソも無かった。

 生活のために、そこにいる人達は皆必死だった。生きていくために働いていた。自分が働かなければ、家族が飢えるから働くしかなかった。

 そういう人達に囲まれて、あの場所で私は生きていく術を学んだような気がする。
 派遣会社は短期の契約なので、容赦無く切られる。あるいは別の工場に飛ばされることもしょっちゅうある。次々に人件費の安い外国に部署が移っていき、人も減っていった。だから皆、明日クビになるかもしれないという切迫感があった。正社員ではないから安定なんて無い。クビを切られないためには、人より働くしかない。辛い仕事もしんどい仕事もひきうける。「あいつはよく働くし、どんな仕事でも引き受けてくれる」という信頼を上の人から得ることが、クビを切られないための一番の得策だった。
 「楽しくない」なんてほざいてる場合じゃない。とにかく真面目に働き仕事をこなす。つまりは誠実であること。それがクビを切られない=たくさん仕事をまかせられる=収入に繋がることだから。単純作業だから特にそういうことが重要だった。


 私は「生きるために働く」ことを見下す「高等遊民」が嫌いだ。「やりたい仕事がない」「こんな仕事は僕のするべき仕事じゃない」とかヌかして親の脛をかじりいい年して働かないヤツらが嫌いだ。
 自分で稼いで自分を養うという最低限のことも出来ないクセに「自分探し」とか行ってフラフラしているヤツらが嫌いだ。
 映画館で昔働いていた時に多かったのが、仕事をしない「映画マニア」達。映画を語るのは一人前だが、まともに仕事をしないヤツらがわんさかいた。お前らは何しにきてんだって。挨拶という接客の基本も出来ないクセに映画を語る時だけ熱いヤツらが嫌いだった。クソだ。
 旅行関係の仕事をすぐ辞めるヤツらも「仕事が楽しくない」とか言う連中が多かったけど、金を貰って楽しもうという魂胆がそもそもどこまで自己中心的なのか。楽しいことは金を貰ってじゃなくて、金を払って経験するもんなの! 私はバスガイドの仕事は楽しいと思うけど、それは結果的にそう思えるようになっただけで、そら辛いことやしんどいことなんてアホほど経験してるしアホほど泣いてるよ。誰だってそうだよ。添乗員の仕事だって数回経験して「体力的にキツいし、朝早いし、楽しくないので辞めます」というヤツらを何人も見てきた。


 私に貢がせてサラ金に借金をさせた22歳上の初めての男がそうだった。50歳を過ぎて、娘のような年齢の女を働かせて借金させて、私が「どうしてあなたは働かないの、選ばなければ仕事はあるでしょ」と言うと、逆ギレされた。モノカキの端くれで、言葉では理屈では敵わなかった。
 働いて社会の中で生きていくという、当たり前のことが怖くて、いつまでも社会に出られないガキのようなクソ男だった。人間のクズだった。



 工場で働いてた頃は、地べたを這いずり回って草を掴んで泥水を啜りながら生きているような感触があった。正直、体力的にも精神的にも辛い時期だった。いつまで私はここにいるんだろう、いつになったらここを出られるんだろう、と。いつまでこの工場で、クビになることに怯えながら働き続けるんだろうかと思うと暗い気分になった。

 だけど地べたを這いずり回って生きている人間達と、共に戦い楽しいこともたくさんあったし、必死で生きるために食うために働いている人達に囲まれて、この世で生き残る術を理屈ではなく感覚で学んだのは、間違いなくあの場所だった。

 私は「生活」をしていない、出来ない、そのクセに頭でっかちな人間や、「楽しくない仕事」を生活の為にする人間を見下すヤツらが大嫌いだ。そんなヤツらがどんな立派なことを言っても聞く気にならない。そういうヤツらが貧乏ぶるのも嫌いだ。お前らの貧乏は、ホンマの貧乏ちゃうやろ! ホンマの貧乏ってのは、働いても働いても生活が苦しい人間のことやっちゅうねん。


 最近、「派遣」という言葉をやたらニュースで耳にするけど、実際のところどういうイメージで捉えられているんだろうなぁと不思議に思う。派遣にもいろいろあるけどね。ちなみに私の現在の「バスガイド」って職種も、今はほとんど派遣みたいなもんです。正社員でバスガイドを養える会社は少ないです。正確に言うと、「派遣」でなくて「職業紹介」なんですけど、形としては派遣なの。



 そして2年前に派遣会社を退職した7月31日。
 昨夜は、京都河原町のバーで、元婚約者T君のライブでした。ライブって言っても普通のバーで彼の歌を聞きながらお酒を飲むのです。
 私と、映画館時代からの友人と、T君の友人達と、出番が終わったT君とで楽しく内容の無い会話。普段はこういう場所にはほとんど来ないのですが、食べ物も美味しいし雰囲気も凄くいいバーでした。
 京都らしく「保津川」という名の、緑と青の中間のような不思議な色のカクテルを頂きました。

 そっち方面に疎い私でも知ってるようなスタンダードなジャズのナンバーを聞きながら、久々に京都河原町の夜。

 地下鉄の駅から地上に出ると御池通を隔てた道の向こうには京都市役所と京都ホテルオークラが並ぶ。オークラの場所は昔は長州藩邸だったので桂小五郎の像があるのです。京都の夜は楽しく懐かしい。もう随分様子は変わってしまい、昔通った店も、私が勤めていた映画館も今は無く、時間の流れが少し哀しいけれど、大阪よりも神戸よりも東京よりも、京都の夜が好き。

 京都の夜は懐かしい。
 生まれ育った土地よりも懐かしく優しい。


 場所や状況は違えど、生きていこう生きていこう。
 地に這いつくばって雑草を掴んで泥水を啜って怪我をした傷口から血を流しながらでも生きていかねばならぬ。

 生きていかねば。