生まれいずる悩みなど


* 複数の友達へのメールから抜粋したり、付け加えたりした駄文ですわ。



 悩みとか苦しみとかって、自分の内面の問題やん。同じ状況にあって、悩んでない人もいれば、悩んで苦しんでいる人もおるわけで。
 私らから見たら、どう考えても「不幸」な状況でも、本人はめっちゃ幸せそうな人っておるし。逆に、他人から見たら恵まれすぎているほど恵まれている状況でも、悩んで苦しんで、遂には自殺しちゃう人までおるよなぁ。

 大学ん時に、同級生が「第一志望の大学に行けなかった」ことを苦にして飛び降り自殺したことがあって、そんなこと他人から見たら、「浪人して受けなおせばよかったのに」とか「大学なんて、そこまで意味のあることやないんちゃうの? 世の中には高卒・中卒で立派に生きている人はたくさん居るやんか」とか、なんでそんなことで死ぬの? って思っちゃうけど、本人からしたらそれは死なざるを得ない理由だったから、死んじゃったんだろう。

 私も昔そうやったんやけど、同じ「多重債務者」であっても、死ぬ人もいれば、平気な人もいるし、私みたいに死にたいと思いながら死ねなかった人間もおるし。

 だから、多くの悩みとか苦しみってのは、自分の内だけに存在する、「自分を捕らえているもの」なのねん。

 で、なんでそうなるかっちゅうと、「こうありたい、こうあるべき自分及び自分の置かれている状況」ってのと、「現実の自分及び状況」ってヤツのギャップの狭間で、「私なんかアカンわー」「なんて私は駄目なんだろう」とか「どうしてこんな不幸な状況に自分はいるんだろう。私って可哀想」「どうしてこんな苦しまないといけない世の中に生まれてきてしまったんだろう」って、悩んで苦しいんやと思うんやわ。

 じゃあ、「こうありたい、こうあるべき自分及び状況」ってのが無くなれば、ギャップも無くなるわけなんじゃねーの?
 つーか、「こうありたい、こうあるべき自分」ってのは、自分が本当に望むことなのかって、まず考えてみればいいと思うんだよ。

 例えば、私なんかも、しょっちゅう落ち込むわけですよ。基本的に性格が暗いから! (周りの人間は誰もそう思ってくれてないけどっ!!)「男にだらしなくて借金作って親に迷惑かけまくって、普通の人が普通に出来ることが出来なくて、結婚も出産もする資格が無い人間で、生まれてきてスイマセン」って。

 でも、例えば、自分が出来なかった「堅実な人生」を、自分が本当にしたいか問われると、迷わずウンとも言えない。田舎で堅実な男と結婚して子供を生んで専業主婦して・・・あるいは一流大学を卒業して、人もうらやむ職につき経済的に余裕がある生活を送るとか・・・そういう人生が本当に送りたいのかと問われれば「?」であったりもする。いや、そこまで行かなくても、「普通」(この言葉も曖昧な概念やけど)の人生を送りたいかっちゅうと、送りたいような、送りたくないような、ようわからんのよ。
 
 どっかで、破綻しまくって今居るところに辿り着いた、結構しっちゃかめっちゃかな自分の人生を楽しんでいるとこが正直あるしなぁ。生まれ変わって、同じ人生を歩めと言われたら絶対に嫌だけどよ。しんどいねんもん。


 だから、とにかく「こうありたい、あるべき自分及び状況」って実態の無い物の呪縛から解き放たれたら、多くの悩みは解消されると思うんだわ、正味の話。


 ほんでさぁ、鬱っぽい時って、どうしてもマイナスを数えて、プラスを視界に入れないやん? マイナス数えてりゃ、そら更に鬱になるわなぁ。でもマイナスとプラスと比べたら、実はプラスの方が多かったりするのよ。まず健康で生きていることが大きなプラスやし。飯も食えるわけやし。貧乏といいつつ寝るとことかもあるわけやし。職も極端に選ばなければあるわけやし。
 不思議な話で、職が無い職が無いとは言うけれども、人手が居ない人手が居ないって職場も山ほどあるんだよ。ホンマに。

 私なんかも、昔はともかく今はプラスの方が多い。京都に戻りたいって思って戻れたし、仕事も希望の仕事しながら食っていけてるし、好きな人には好きだと言ってもらえるし、家とかを背負っているわけでもないし、友達は少ないけどもおるし、贅沢は出来なくても、たまに遊びに行けたりもするし。
 そら、マイナスを数えればどんどん出てくるしキリがないんやけど、マイナス数えて落ち込むのって時間の無駄やん。マイナス数えるのは暇人で恵まれた人のすることやと思う。本当に最悪の状況に陥った人間は、水の中に沈められて呼吸をする為に必死で酸素を求めて手足をばたつかせて海の上に出ようとするしかないんやもん。


 だから、「こうありたい、あるべき自分及び状況」なんてものは無くて、「今の自分」が出来ることをするしかないんすよね、社会の中で生きていくには。(引きこもりとかニートの人は、また別問題の話)
 でもホンマにそうや。「こうありたい、あるべき自分」なんてもんは無いのよ、「向上した理想の自分」なんてものが存在するとしたら、それはあくまで結果論みたいなもんわけやし。だから「私なんて駄目だわー」って落ち込むなら、じゃあどうしたいんかって。その「私なんて駄目」は、何と比べて駄目なのか? それは、あなたの中の「こうありたい、あるべき自分」と比べて駄目ってことじゃないのか。それで苦しむんなら、そんな「ありたい、あるべき自分」なんて存在しないということをわかりなさい、と。あなたを駄目だと言っているのは、あなただけなんだってば。


 女の「恋の悩み」話とか聞いたら、自慢話やったり惚気やったりってこと多いやん? 悩みって、客観視したらホンマに「気の持ちよう」や「とらえ方」の問題やという場合が多い。やから、自分を捕らえているモノの正体を客観視して、それが、実はたわいもないものだということ自覚するべきやと思うわー。

 紙に書いてもええんちゃう? 自分の状況の「プラス」とか、自分を捕らえている「こうありたい、あるべき自分及び状況」を。


 あと、他人に自分をわかってもらおうと思わないことやと思うわ。期待しないってこと。他人が自分のことを理解して受け入れてくれるって思う方がそもそも傲慢やん。人の気持ちなんて、他人にはわかんねーよ。たとえ肉親でも恋人でも。別々の人間なんやから当然やん。わかってくれないっ! って怒る前に、じゃあてめぇは、人のことわかってんのかよって。わかった気になってるだけじゃねーのかよって。

 わかるわきゃねーよ、だって私とあなたは別の人間なんやもん。わかった気になってしまうことから、支配とか勘違いとか、そういう破綻が始まると思うわ。わかんねーし、わかるはずはないけど、わかりあおうとしないといけないとは思うけどね。
 わかった気になっちゃうと、わかりあう努力、つまりはコミュニケーションとか、相手が何がしたいのかをちゃんと聞くとか、そういうのを放置しちゃうから危険なんやって。「知る」と「わかる」は別やから、知ってくれるのは心強いけど、わかったつもりになられるのは、困る。時には非常にうざい。相手によっちゃ、「わかった気になっている」方が、扱い易いときもあるけどな、仕事ん時とかは。プライベートでは、そういう人とは関わらないけど。


 ぶっちゃけ私も、すぐ悩むし落ち込むんだわ。「こうありたい、あるべき自分」と今の自分との距離に、すぐに鬱々となる。で、そーいうのって、自分自身ではどうにもなんないことだったりするのもわかる。頭ではわかってるけど、気持ちは浮かばないとか。
 そういう時は、人の手を借りるしかないとも思う。でも誰の手を借りるか、それを間違っちゃ取り返しのつかないことになる。
 自分で言っちゃうけど、私は人当たりがいいし、女に優しいし、温厚そうに見られるから(実は横山やすし並みに気が荒いのに)、うぜぇヤツに寄ってこられることも少なくないんだわ。その人に手を差し伸べるかどうかは、結局はその人と私の関係性やからね。そのまま逃げることもあるよ。冷たい人だと思われることなんて平気やし。何かを期待して(つまりは利用しようとして)、縋ろうとしている人と、本当に助けを求めている人とを見誤らないようにしようとは思ってる。
 

 とにかく、今は好きなことだけしていたいんだわ。好きなことをするための「頑張り」はするけど、それ以外の頑張りはもういいと思うんだわ。好きなことをするため以外の「頑張り」をすると、疲れてしんどいと思うんやわ。

あと、「あるべき自分」を捨てるべく気をつけることは、自分も他人も型にハメないことやと思う。ついついハメちゃうけど、自分を型にハメることはギャップを作ることやし、人を型にハメることは、人を傷つけることが多々ある。

 私もまたすぐに鬱々となる時が来ると思う。基本的にマイナス思考やから。でも悩んだり苦しんだり鬱々したりするのは、しゃあないわなぁ。人間やから。

 俳優のハーベイ・カイテルが「人を殺したいと思ったことのない人間を、俺は信用しない」つってて、激しく同意したんやけど、「死にたい」って思ったことのない人間も、同じように思う、かも。
 
 安モンの「死にたがり」は、嫌いやけどね。安モンの、「私って世界一可哀想」な「死にたがり」は。マイナスを数えるのが好きなヤツらとは。


 とりあえず、飯食って寝よう。明日も明後日も私は仕事やし、あんたも暇な人やなくて、やることがあるんやから。