頑張れなんて、言えない


 アダルトビデオ、お好きですか?
 
 私は好きです。観ます。けれども時折アダルトビデオが、痛い。


 この「アダルトビデオ調教日記」というタイトル、そしてこれを始めたきっかけは、それまでエロ免疫の無かった純情少女Nちゃんという娘にドグマというメーカーが開催するD−1クライマックスのオーディションのDVDを見せて、彼女がそこで繰り広げられるAVを作る人達、監督さんであったり、女優さんであったり、その人達の姿を見て興味を持って、「AV見たい」と言い始めたことがきっかけです。(その辺のところはカテゴリーの「美少女調教日記」参照してください)

 「D−1クライマックス」とは、何か。D−1の「D」は、ドグマのDであり、ディレクターのDであり、「最高にエロい監督」を決め、「エロシンデレラ」を発掘する為という名分の元で開催され、オーディションの場で、数十人の女優が裸で「エロアピール」をして、第一次審査に残った女優を監督それぞれが公開面接をして、最終的に監督が女優を決めて各々作品を作り、それが一斉に発売されて、定められた期間での売り上げにより順位が決定されるというものです。
 そして、そのオーディションの模様が廉価でDVDとして発売され、それを見たNちゃんがその「ドキュメンタリー」から「AV」に興味を持ったのです。

 私も、第1回と第2回のオーディションのDVDは楽しく観せていただきました。けれど今年開催された第3回のオーディションhttp://www.dogma.co.jp/htmls/d-1/index.htmlの感想をひとことで言うと、

「痛い」

 です。


 そして、先日9月15日に発売されたD−1全作品のラインナップを見て思ったことは、


「縄」

 です。(なんか年末にやってる、『今年という年を漢字一文字で現すと』ってヤツみたいすね)


 正直言うと、オーディションに関しては去年の第2回でも薄々と「痛さ」を感じていたのかもしれません。それでもまだおもしろいと思えました。けれども今年の第3回のオーディションは面白さより、痛さが先に来ました。編集された映像を見てこれだけ痛いのだから、私はあの場に居なくて良かったと思いました。居なくて良かったというか、居ちゃいけないと思いました。



 会場には、去年の、一昨年の「エロシンデレラ」達(売り上げ一位の作品に出演した女優さん)が居て最初に挨拶をします。
 そして選ばれる為に、60人の女優が監督に、向けて「エロアピール」をします。いかに自分がエロいかを、「セックスを売る」AV女優が自分の持つ「エロ」を表現しようとします。

 しかし「エロ」をアピールするこの場で女優達が曝け出しているのは「エロ」に見えなかった(勿論エロいなぁと思える女優さん達も居ましたが)
 これ、「エロアピール」やなくて、「Mアピール」じゃんか、と正直思いました。それは去年、一昨年の優勝作品がSM色の強い作品だったから、つまりは「SMが売れる」(このD−1クライマックスにおいては)ことが傾向としてあるからなのでしょうか。
 それは発売された商品のラインナップを見れば一目瞭然で、縄・縄・縄・縄・・・もうお腹いっぱいです勘弁してくださいと言いそうになりました。正直、あのラインナップ見て、うんざりしました。


 女優達は、必死で自分のトラウマを語ったり、「何でもやります」「うんこもします」「私のま○こは何でも入ります」と監督達にアピールします。そして泣く娘が多かった。自分を表現したい、この世界が好きだと雛壇の上に立ち、監督と観客達に見られてその「場」の雰囲気なのか、裸を曝しライトを浴びて酔ったのか、泣き出す娘が多かった。


 そんな「AV女優」という職業の女の子達のエロアピールを見て、過剰にアピールする娘ほど私は「エロ」さを感じなかったし、必死な娘ほど痛かった。もしもあの場に私の女友達が出場していたのならば、私は耐え切れなくなって「やめて!」と叫んで引き摺り下ろしてしまうかもしれない。


 「AV女優」は、セックスを売る職業で、裸になりセックスをすることで糧を得ています。そして彼女達が「仕事」に於いて自分をアピールして売り込むことは筋の通ったことです。そうして出来上がった商品を私達は購入して観るのですから。
 彼女達は「頑張り」ます。売れる為にだけじゃない、自分をいう人間の存在を人に要求されることで確かめるために。

 それはどんな仕事でもそうです。お金の為は勿論だけど、人に要求されることによって、つまりはその世界に要求されることによって居場所を見つけて存在を受け入れられることを知って、自分という人間の存在意義を見出すこと。
 仕事の「やりがい」って言うのは、そういうことでしょ? お客さんに喜んで貰えた、売り上げがあがった、上司に褒められた、そこで「自分の居場所」を見つけることが出来て初めて自分という人間の存在の意義を見出す。だから私は全ての職業は「サービス業」だと思うのです。まず人ありき、だから。
 他者の存在ありきで、自分の存在を見出すことが出来きるのだから。そしてそれが「お金」という結果を齎すことができるのが「仕事」。


 お金の為に、そして自分の存在意義を見出す為に、人は「頑張る」。それはとてもまっとうな正しいことです。それはわかっているのだけれども、私はあのD−1のオーディションのエロアピールの「頑張り」が痛い。


 そもそも「私はMなんですっ!」って、「M」って、何なの? ノーマルなセックスに於いても攻める側、攻められる側というポジションがあって、もともと男の性器は攻撃な形をしており、女の性器はそれを受け入れる形をしているのだから、セックスそのものが「SM」だと言うこともできる。
 そして、フェラチオなどは、男の性器を「しゃぶらされている」受身の喜びもあれば、性器をしゃぶり男が快感によがる姿を見るのが楽しいという「攻め」の快感もあります。
 基本的に性器の形としては男が「S」で女が「M」だけれども、それはお互いのコミュニケーションで役割を交換して楽しむことが出来るのです。一方的に「攻め」だけがいい、「受け」だけがいい人もいるだろうし、それは人それぞれなんでしょうけれども、それを受け入れられ一緒に楽しめる相手が「セックスの相性がいい」人だと思うのです。


 そして「マゾ」には、奉仕型と自虐型がいると思います。奉仕型マゾは相手を受け入れることに喜びを覚える。あなたがしたいことを私は何でも受け入れる、それが私の喜びだからという母性的なマゾヒスト。団鬼六先生のSM小説に出てくるヒロイン達はこの母性的な奉仕型マゾヒストだと思います。調教されて次第に自分のそういう部分を開花されて美しさを増すのです。

 そして、「自虐型」のマゾは、他人の手を借りて自虐行為をするマゾヒスト。私を痛めつけて、寂しいから私はあなたの手を借りて自分を痛めつけたいのと要求します。


 私は、D−1のオーディションの泣いて「マゾアピール」をする娘達が「自虐型」のマゾヒストに思えてしょうがない。アダルトビデオの中で、監督の手を借りて自分を痛めつけてそれにより自分の存在意義を見出そうとしているように見えました。


 これはAV女優だからどうのこうのという話ではありません。他者の手を借りて自虐をしようとする人間なんてその辺に溢れている。世の中には死にたい人間が溢れている。誰かに痛めつけられたい。痛めつけることで要求されたい。私はこの世に確かに存在しているのよと叫びたい。私を要求して! お願いっ! 私は私が生きてることを確かめたい。


 けれども「自虐型」マゾが哀しいのは、そこには自分だけしか存在しないからです。自分を痛めつける為に他人を利用しようとしているだけで、要するに他人は自分の為の道具に過ぎない。ものすごく孤独だ。だけど本当は彼女達だって好きで孤独なわけじゃない。孤独だからこそ人を求めて自分の存在はここに居ますと叫ぶのだろうけれども。


 それでもやっぱり、痛い。

 そして、D−1のオーディションでの女優さん達の「頑張り」が痛いのは、その「頑張り」の果てにある暗闇を私は見なかったことにできないから、痛いのです。
 頑張って、良い作品が出来て、それが自分の選んだ道なのだから「後悔しない」と思えるぐらい強く揺ぎ無い自分自身を持ち続けてこれから先も生きていける娘ならいいけれど。


 だけど、あのD−1の去年、一昨年のグランプリ作品の傾向を見ていると、「頑張る」ってことは、「過激なことをする」ってことなのか? と、思ってしまう。中出し、飲尿、フィストファック・・・
 だから「エロシンデレラになりたい!」娘達が、「頑張る」ことが痛い。


 エロシンデレラって何? 過激なことをすること?


 あの「D−1クライマックス」という場が、彼女達にそういう勘違いをさせてしまったのなら、それは罪だと思いました。
 



 そしてAV女優として売れて有名になることは、それだけリスクも大きくなるということです。セックスを売ること、裸になることを弱味にして攻撃したがる人間はたくさんいるから。
 気持ち良い思いして、楽して稼ぎやがってと憎しみに近い嫉妬を滾らす人間はたくさんいます。不愉快なら観なくていいしあんたには関係ないことじゃないかと思うけれども、世の中には差別することで自分を高いところに持っていきたい人間がいて、そういう人間は常に差別対象を探している。そしてこの世は嫉妬が溢れている。性で糧を得ることはそういう人間の攻撃の対象になることもあります。


 ぶっちゃけ、私のような「AVを観ている女」ですら、見下したような言い方をされることもある。そんなに男に飢えて困ってんのかとか、軽蔑じみた言い方をされたり。親しい人でも、露骨にAV女優を差別してる人もいる。世間って、そんなもんだと言われたらそれまでなんだけど。それでも自分が好きなものを「見てないし、知らない人」に軽蔑されたら悲しい。いちいちそんなこと気にしちゃやってらんないんだけど。



 そして、彼女達が肌を曝し不特定多数の男とセックスすることにより、彼女達を好きだからこそ傷つき悲しんで去っていく人間もいるでしょう。

 例え引退して姿を消してもビデオの中で、インターネットの中で裸の彼女達は残る。


 自分の好きな女優さんが引退して、ホっとすることはないですか? どんどん過激なことをして残って磨耗されてしまうより、一瞬の花火のように輝いて消えて、そして別の世界でひっそりと幸せになってくれる方がいいと思うことはないですか。


 そしてあのオーディションの雛壇の下には審査する監督達がいて、その後に取材陣と一般の観客がいます。
 私はあの場に居なくてよかったと思ったし、居ちゃいけないと思いました。AV女優じゃない女は、あそこに居ちゃいけない。肌を曝し泣きながら「頑張る」女の子達を鑑賞する場に、同性である女が、肌を曝さない女がいることに私は嫌悪感がある。
 同性が商品として品定めされている場所に私は行けない。そして、「頑張る」女の子達に、「頑張れ」とは言えない。女の子の背を押したくはない。頑張らなくていい、過激なことなんてしなくていい、他者の手を借りた自虐なんてしなくていい、あなた達は確かに「AV女優」という商品ではあるけれども、1人の女の子なんだから、たとえ商品価値があったとしても自分を痛めつけるような「頑張り」なんてしないで欲しいと思う。


 それでも彼女達は「AV女優」として売れる為に、そこに自分の存在意義を見出す為に「頑張る」のだろうし、そこで出来上がった商品を私は観る。

 もの凄く矛盾があるのは承知です。矛盾を埋める為に言葉を尽くそうと当初は思ったけど、やっぱりダメだ。
 私の言ってることを突き詰めるとAV自体を否定してしまいそうだし、そのくせ観てるお前が一番傲慢なんじゃないかと言われたらその通りだ。
 彼女達は「AV女優」として頑張る。仕事を頑張るのは当たり前のことです。出来ることが増えれば仕事も増えるだろう。皆、生きていくために必死なのだから。


 それは頭ではわかっているけれども、やっぱり痛い。
 裸で泣く彼女達を見ることは平気じゃない。
 私はあの場所には行けない。痛々しさと、AV女優じゃない女が同性達が肌を曝し品定めされる場所にいることがひどく高い場所から見下ろしているように思えるから。ましてや一生懸命な娘の「応援」や「励まし」なんて出来ない。


 「頑張れ」なんて言えない。
 平気にはなれない。
 だけど、平気になりたくもないのです。


 私はAVが好きで、AV女優が好きだけれども、「性」を売るアダルトビデオを全肯定できない。そこにある闇を見なかったことには出来ない。
 女に生まれたということは、生まれながらにして「女という商品」として生きていかねばならぬという業を背負うということで、その業があるからこそ、私は男と同じ視点でアダルトビデオを観ることは出来ない。それは差別ではなく、区別だ。

 私が自分の女の業を全肯定できないように、アダルトビデオを全肯定もできない。


 ただ、そこに自分がどうしても必要としているもの、そして自分を救ってくれたものがあるから、その世界に手を伸ばす。

 私は女である自分を全肯定は出来ないけれども、女に生まれてよかったと思う。アダルトビデオを全肯定は出来ないけれども、アダルトビデオに出会えて良かったと思う。


 痛みを覚えながら矛盾を抱えながら、女の私はアダルトビデオを観る。

 だけど、その痛みを失って平気な人間になりたくもない。

 「セックスを売る」AV女優の放つ輝きは、目を焼かれてしまいそうなほどに眩しく金色の光を放つ。
 だけどその輝きが一瞬であることを祈る。

 頑張らなくっていいから、一瞬の至高の性の輝きだけを私に見せて下さい。