三十歳までに、死のうと思っていた
三十歳までに、死のうとおもっていた。
20代の頃は、30歳になるまでに早く死ななければと思って生きていた。年をとってまで、生きていようとは思わなかった。どうせ何もいいことはないだろうし、何も手にしていなかったし、自分なんて何の価値も無いと思っていた。嫌なことや苦しいことがたくさんあって、毎日死にたい死にたいと思っていた。楽しいことも少しはあったけれども、それは長くは続かないと思っていたし、これから先ものごとが良くなるとは思えなかった。
だけど自殺する勇気も無くて、高い場所の窓から地上を眺めたり、線路の脇にただ立つぐらいしか出来なかった。死ぬ勇気も無い自分は脆弱だと自己嫌悪に陥っていたし、誰か殺してくれないだろうか、一瞬で死ねるような事故に遭遇しないかと、毎日思っていた。
だから、30歳過ぎてからのことなんて、何も考えていなかった。将来なんてものは自分には無いと思っていたし、時折明るい未来のようなものをふと考えても、自分で打ち消していた。初めて寝た男はいつのまにか働かなくなり、彼が自分のことを好きではないことは十分にわかっていたけど、二日に一度は部屋に来るその男を介してしか自分という人間の存在は実体として存在しないような気がしていた。自分の親ほどの年齢で、遠くに本当の恋人がいる働かない男との将来なんてありえなかったし、自分自身もたいした仕事はしていないし、何も出来ない人間だし、早く消えて、無かったことにしてしまいたいと毎日思いながらも、何故か生き続けていた。
自分はずっとこのままだと思っていたし、現状を変える強さも力も持たないし、30歳を過ぎたら、唯一の自分が持ちえた「若さ」という弱小武器も失われるし、それを考えたら先のことなんて考える気がしなかった。しょうこりもなく、愛情の欠片も無く、ただ、金を要求するのと、精を吐き出すことだけを目的に自分の部屋に通う男を待つためだけに、生きながらえていた。
しかし、29歳の後半から、31歳の間に、思いがけず嵐が起こった。自分の意思を越えた大きな風の中に巻き込まれ、いろんなことが起こった。その短い期間に、いろんなことが起こり、私はただ呆然とその嵐の中に巻き込まれ考え込む暇も無く流されていた。良いことも、悪いことも、たくさんあって、その時はそれなりに大変だったのだけれども、大変だと思うより大きな力に動かされて状況が一変して、それについて行くだけで必死だった。本当に、いろんなことがあって、全てが変わっていった。しかし、今こうやって思い出すと、その時は大変だった出来事の一つ一つが、全て結果として良い方向に行ったのではないかと思う。失ったものもあるけれども、それは失うべくして失ったものだったのだと、今なら思う。時間がある程度たった今だからこそわかるのだけれども。
そう思えば、あの20代のひたすら厭世的な気分も、絶望的な生活も、必要なものだったのではないかと思うのだ。バタバタと、嵐に巻き込まれもがくうちに、いつのまにか死にたいと思うことは無くなっていたし、30歳過ぎたら終わりだとか、そんなバカバカしいことも勿論考えなくなっていた。
あれを転機だというのだろうか。人間は自分の意思を越えた大きな嵐に巻き込まれて思いもよらない方向に行く時というものが、必ずあるのではないかと、あれから思う。そして偶然なのかも知れないが、自分の友人達も、30歳前後に大なり小なり転機を迎えている。会社が倒産して、転職せざるを得なかったけれども、そこで見事にキャリアアップに成功した者、自分の人生も性格をも一変させるほどの恋愛に遭遇した者、そして、私も含めて皆、その時はいろいろ大変だったけれども、なんとか必死にその嵐の中で息をしているうちに、結果として良い方向に向かっている、多分、皆こう言うはずだ。「20代の時より、30代の今の方が楽しい」と。
30代になって、ずいぶんと楽になった。開き直りというわけでもなく、重い荷物が無くなり、肩が軽くなった。「若い女」ではなくなったかもしれないけど、その分一人の人間として自由になれたような気がする。確かに体力は衰えるし、部分的な老化も始まるけれども、別にそんなことは今のところはたいしたことじゃないような気がする。ただ、時間の流れの速さには焦ることもある。だからこそ、無駄なものをこそぎ落として、本当に自分に必要なものだけを大切に持ちたいと思うようになった。
昔の同僚で、私と同じ年の人が、私が旅行の資格を取ろうとした時、こう言った。「私ら、もう30やで?? 今更資格とってどうすんの?それより早く結婚相手見つける方が先やで」と。はぁ??? って、絶句した。30歳過ぎたら、確かに職安行ったり、求人誌を見ても、応募出来る職種が減ってくる。25歳まで、30歳までと年齢制限してある仕事は多い。特に女は。でも、そうやって仕事が狭き門になるからこそ、武器が必要になってくるわけで、だから資格試験を受けたわけなんだけど。その娘は、同棲している恋人が、なかなか結婚してくれないのに、焦っていた。嫉妬深く暴力をふる恋人。「暴力ふるわれた時とか、嫌になるときもある。でも、もう私は30やから、今から他の人見つけるのなんて、大変やん! やっと、付き合って同棲して結婚しようとしてるのに。我慢するしかないやん。」
そこまでして、30歳までに結婚しなきゃいけないのか。でも、そうして結婚して、その先には何があるんだ?? たまに、こういう人がいる。「人生の目標は結婚!」って人。そういう人に遭遇すると、意地悪にも質問したくなる。「目標達成した後は、どうするの?」って。
もう、30やから、って言われると、誰が決めたんじゃそんなこと、と疑問に思うし、そういう根拠の無い思い込みを絶対的に妄信している人を見ると悲しくなる。女は30歳になると、終わるって、マジに思ってんの???
ちょっと冷静になって、周りの人を見渡せばわかるはずだ。30過ぎても、結婚していても、子供がいても、綺麗で好きなことして、仕事も充実させて、楽しく生きている女の人なんてたくさんいる。30過ぎても、40過ぎても、遥か年下の男性にモテモテの女の人だって、たくさんいる。新しいことにチャレンジしていく女性も、たくさん居る。学校に入りなおして学んだり、子育ての合間に通信教育などで資格とったりする女性も、たくさんいる。30代だからこそ、自分が必要なものを、自分の力で手にいれようとしてるのだ。
そりゃあシミや皺は出来るし、白髪は増えるし体もたるむだろうよ。でも、それを見て「ババアは嫌だ」とかほざくガキみたいな男なんて、相手しなきゃいいし、若さにしか価値を見出せない男は、結局は自分に自信が持てない男だと思うし、そういう男は、一生ガキ女を相手してりゃあいい。そのうち、自分が年をとって、ガキ女にもオッサン扱いされて、人を僻むことで一生を終えるから。そんなクソみたいな輩は、世の中ウヨウヨしているが、きっといろんな人から笑われて馬鹿にされているのは間違いない。馬鹿と関わる暇は無い。
山城新伍が、以前テレビでこう言っていた。
「俺はね、倍賞美津子さんという女優さんは、とても良い女優さんだと思うんだけど、彼女は、皺が似合う女優なんだよ。皺の美しい女優さんなんだ。」
と。
倍賞美津子主演の「ユキエ」という映画は、ミニシアターでしか公開されなかったし、あまり知られていない映画だと思う。アルツハイマーになった女性が、その症状で狂乱をきたし、しかし、それを忘れて、そのことに混乱して、また、家族の顔も時たま忘れてしまうようになる。その女性を倍賞美津子が演じた。狂乱を来たした姿も、痴呆状態になって呆然とする姿も、家族を忘れてしまう悲しみ、年をとる悲しみに胸を痛める姿も、倍賞美津子は、年齢を経た「美しい女性」として演じた。だからこそ、老いと、死に近づくことを受け入れる覚悟をした主人公に感動した。
私は、京マチ子とか、岸恵子とか、あの辺の女優さんが好きなんだけど、彼女達は、明らかに20代のときより、30代のときの方が美しい。40代でも十分に美しい。最近の「女優」とかと違い、人工的に手を施された美しさではなく、年齢を経て情感を増した、豊かな美しさで、スクリーンの中で妖艶に微笑み、人を魅了する。
確かに、30歳になって、「女として終わった」人もいる。確かにいる。「30歳になると、女は終わる」って、本気で思っている人達だ。女は若くないと価値が無いという戯言を本気にして、とにかく外見を若作りしようと、「不自然なオバサン」になっている人もいる。そういう人は、30歳になったから、終わったんじゃなくて、自分で勝手に終わらせてる人達だ。「もう、年だから、アカン」とか、「もう30やで」とか、そういう人達は、これからの永い人生を、何もかも諦めたまま生きていくのだろうか。とにかく、年齢のことをガタガタ言う女とか嫌れぇなんだよ。特に自分より年下の女が言うと、うざいんじゃボケって思うなぁ。「オバサンじゃないよーまだまだ若いよー」とか何とか、人に言ってもらって自己確認したいのがモロわかるからよ。
男は若い女の方が好き、確かにそうかも知れないけど、だから何? それは逆に、男を馬鹿にした考え方じゃないか? 男はそういうわかりやすい部分しか見ることの出来ない単純馬鹿な生き物だと言っているようなもんだ。馬鹿な男もたくさんいるけれども、馬鹿じゃない男も同じくらいいるだろうし、わざわざ馬鹿な男に関わることはないんじゃないか? ついでに言うなら、若い男が好き、っていう女もたくさん、そりゃあたくさんいる。だから、どっちもどっちかも知れないのだけれども、若さにしか価値を持たない人間は、いつかその価値観に復讐されるような気もする。
そういいつつ、ただ年をとるだけでは何もならなくて、本当の意味での大人になりたい。昔は、年齢を経ると、自然に中身も大人になると思っていたが、それはとんでもない勘違いだった。
いつまでも、あれが欲しい、これが欲しいと、ダダを捏ねて、手に入らないと泣き喚いて人を責める子供のような恋愛しかしていない。私は、ずっと、「与えられる女」になりたかった。女は、「与えられる女」じゃないと価値が無いと思っていたし、そうなれない自分は女の不良品だとずっと思っていた。しかし、よくよく考えてみると「与えられる女」というのは、所詮ガキ女で、それ以上にはなれないし、愛して愛してと喚いてる女を誰が愛することが出来るものか。一瞬だけは、同情したりして優しい言葉をかけてくれるかも知れないが、それだけのことだ。
両親とは、自分は「子供の不良品」だと思い、わかってわかってと思うことすらとっくに諦めて、ずっとわかり合えないままだ。
好きな人に対しては、自分は「女の不良品」で、嫌わないで捨てないでと縋るような付き合いしか出来なくて、相手も自分も駄目にするばかりだった。
社会に対しては、「人間の不良品」で、人に近づくのが怖くて距離を置いて、演技をしながらなんとかそこに居る。
「与えられる女」になりたいなりたいと望むままでは、いつまでたってもそこの場所から動けない。
「大人の女」というヤツは、それの逆で、「与える女」ではないかと思う。人に何かを与えることのできる女。勿論、具体的に物や金銭を与えるとか、甘やかすとかではなく、相手の人生に、エネルギーを与えることの出来る女、相手のプラスのなれる女、それが「与える女」なのではないかと思う。で、これがどうすればなれるのかっていうと、わかんないんだけどさ。
「与える女」になれた時、初めて人ときちんと向かい合って、卑屈にならずに、人を愛せるのではないかと思う。そうなれた時、縋るような想いで相手を苦しめることもなく、自分も自信を持てて、相手の目を見て、初めて人を一人の人間として愛していけるのではないか。そこで相手を本当の意味で守り、助けることが出来る本当の強さを手に入れることができるのではないか。
とか、そういうことを思えるようになったのも、年齢を重ねたからであるので、それだけでも、年をとって良かったと思うし、20代の頃の自分より、30代の自分の方が好きだ。
私は今、36歳で、そのうちすぐに40歳になるだろう。それまでに、また、あの自分の意思を越えた力を持つ嵐に何度か遭遇するような気がする。ちょっと怖いけれども、あの嵐に遭遇して、年齢を重ねたいと思う。30歳前後に遭遇した、あのすさまじい嵐に遭遇しなかった自分の人生というのは、今では全く想像が出来ない。
だから、30歳になるのも、35歳になるのも、40歳になるのも、はたまたそれ以上の年齢になるのも、怖くないよ、多分。今より良い方向に向いていると思う。
それは、自分自身が諦めなければ、きっとそうなる