逢状


 今日、会社の先輩から北海道旅行の土産に六花亭のバターサンドを頂いたのです。ちょうど先日、女社長と六花亭食いたいと話していたところなんで、素敵なタイミングでございました。


 六花亭のバタサンも美味かったんですが、北海道話を聞いてて、私の中の「北海道行きたい熱」が、生理前の性欲の如くムラムラと湧き出しましてん。でも今度行くなら、ちょっとゆっくり周りたいんですねん。つーたら、今の仕事やってるうちは無理なんやけど。ほんでツアーとか参加したら安いんやけど、ほとんどが二人以上参加が条件ですねん。一人OKだと割高になるし、知らない人と相部屋は嫌ですねん。せんずり出来ないでしょ☆ (←いや、マジに)えへっ。


 北海道とは関係無いんですが、先日仕事で調べ物をしてて、「逢状」という言葉を拾いました。
 「逢状」とは、花街で客が贔屓の芸者を指名する際に、お茶屋から芸者に届けられる手紙の事です。勿論これは、「愛情」とかけてあるのです。


 「逢状」と、「愛情」。
 いや、粋だねぇ。


 ちなみに、竹久夢二の絵http://item.rakuten.co.jp/seibidou/03090115492700のタイトルにもなっています。あと、夢二は「逢状」について、こんなことも書いております。


 
 桃色の懐紙をのべて

 筆とれど
  
 言ひたいこともとつおいつ
        
 なんと書いたら逢へるやら。


 もう! 夢二ったら! アンタが女にモテるのわかるよ! いやあ、ホンマに粋だねぇ。

 以前、私は高杉晋作について書きました時に「狂」と「粋」について述べました。http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070318#p1


 それにしても最近の流行りモノ、(世の中に起こる事件も含めて)を見るにつけ、うんざりするのは、この「粋」が無いからじゃないかしら。純粋で壮大な精神である「狂」もだけれども、それ以上に忘れられているものが「粋」ではないかと思うのです。



 以前、雑誌で脚本家の大石静さんと、作詞家の松本隆さんが対談されてて、その中で松本隆さんが、「最近の歌は、私が! 私が! 僕が! 僕が! という一人称の歌ばかりなんですよね。そこには自分しか存在しない。他者が存在しない。今の世の中を象徴している。」みたいなことをおっしゃってたんですね。(資料が無いので、間違ってたらごめんなさい)
 それ読んで、なるほどなーと思いました。さすが、「人の夢と書いて、儚い」って、詩を書く人は、いいこと言うね!
 そして、その「私が! 私が!」の世界の中には、「粋さ」が無い。



 「粋」とは何かと問われると、上手くは言えないのですが、自分に与えられた全てのものをありがたく受け止めて(それが時には哀しく辛いできごとであれど)楽しもうとする心、そして「誇り」なのかなぁと思うんです。勿論、「誇り」は「思い上がり」ではない。思い上がりをプライドだと、卑屈さを謙虚さだと勘違いしてはいけない。



 「粋」の精神でいきたいものです。恋にも仕事にも、全てのことに対して。「狂」であれ、そして「粋」であれ。「粋」さが無いものは何にせよ醜くあさましい。



 しかし「逢状」とは、粋だねぇ。惚れたはれた好いた好かれたさりとて添われぬ苦界の男と女を行きかう「逢状」。



 ぬしと寝たい添いたい、ぬしとの逢瀬を肌で思ひだし、ぬしに焦がれて我が身を濡らし、逢えぬ契れぬ寂しさに、我が指はぬしの忘れ形見をなぞり独り慰めて夜を越す。心と身体に残る忘れ形見に指を添わせ独り慰めん。寝たい添いたい契りたい、寝たい添いたい契りたい、寝たい添いたい契りたい。ぬしの面影が身を離れぬ、ぬしの面影に添い寝して、独り我が身を慰めん。

 言葉だけが、あたしの「逢状」。









「羨ましやわが心 夜昼君に離れぬ」      
                         閑吟集より




 「粋」に生きてりゃ、苦界を極楽に変えることもできるんじゃねぇかと思う、今日この頃。