この胸の痛みも、いつかは

 葉書の整理をしていた。その中に、結婚を知らせる一枚の葉書を見つけた。私は恐々と、その葉書を手にした。そこには平凡な一組の夫婦の写真があった。私は、ずっと、相当永い間、この葉書を正視することが出来なかったのだ。その葉書が来た時に、その二人が結婚することはわかっていたけれども、自分でも思いがけないほどの衝撃を受け目の前が真っ暗になった。


 何故衝撃を受けたのか。それは、その夫婦の男の方が好きで、女に嫉妬して、、、、と、いう単純な話とは、ちょっと違う。私は、その女が嫌いだった。憎んでいたと言ってもいい。大嫌いだった。憎んでいることに気付かず、しばらくの間「友達」のフリをしていた時期もあった。



 その女は「いい人」で、皆に好かれているように私の目には見えた。いろんなことが、人より「ちょっと駄目」な所も、「ちょっと駄目だけど一生懸命な頑張り屋さん」な所も、「無邪気で純粋」な所も、完璧じゃないからこそ好感度を持たれる「親しみやすい」容姿も、好きな男に対して一途で一本気な所も、「結婚」や「家庭」への夢を無邪気に語る「女の子らしさ」も、人から好感を持たれる材料だった。


 私達は「友達」になった。そして私は彼女の近くに居ると、いろんなことに気付いてしまった。「ちょっと駄目だけど一生懸命な頑張り屋さん」な方が、「デキる女、何でもこなす女」より、「人に好かれやすい」「同性から嫉妬されない、異性から嫌われない、可愛い女で居られる」事を彼女が熟知していることを。だから、「どうして私はこんなに駄目なんだろう」と言いながらも、根本的にそれを解決しようという気などないことを。
 「無邪気で純粋」なのではなく、「無邪気を装った無神経」なことを。そして「純粋」な計算の無い女を演じていることを。
 好きな男に対して一途な自分を周りにアピールすることによって、それに好感を抱く第三者達が、自分の味方をしてくれて、彼女の好きな男に「あれだけお前の事を一途に好きなんだから、答えてやれよ」とご親切にもけしかけてくれることも、彼女は熟知していた。彼女は皆には、「好きな男」の事は「自分の初恋」と言っていたけれども、私には本当はそうではないことも言っていた。


 私の目には彼女は「女という生き物」の駆使することの出きる武器を最大に利用しているように見えた。それでも私以外のほとんどの人間はそれに気付かず「無邪気で一途で、ちょっと駄目だけど一生懸命な女の子」と信じているように見えた。


 彼女は、「セックス」という武器も、とてもとても有効にお使いになられた。「大事な、大切な、自分の純潔」を、それはそれは出し惜しみなさってご自分の処女膜の価値を吊り上げて、そしてたっぷり出し惜しみした後に「好きな男」に差し上げて、その事を盾に第三者達を「自分の味方」にして、彼は「責任」を取らねばならなくなった。



 私の目からは、とんでもなく「ズルい女」に見えた。あまりにも巧妙に自分の欲しいものをどんどん手に入れていく彼女に、「女という武器を駆使」する彼女に、また、それを周りに気付かせないその見事な手腕に、私は彼女の事が、段々と嫌いになった。いや、嫌いだということに気付かされた。


 それに比べて私ときたら、やること成すこと間違いだらけでボロボロだったのに、必死でそれを取り繕っていた。一途を演じたかったけれども実は気が多く八方美人で、何か思ったことをそのまま口に出されると周りの人間に「おかしい」と言われて、同情されて説教された。初めて自分の事を理解してくれたと思った男には他に恋人が居て、それでも好きだからと懇願して「セックスをして頂いて」処女を喪失して、屈辱的な夜を終えて、あげくの果てにはセックスと引き換えにお金を要求されて、それに応えてしまった。「セックスをさせずに自分の価値を釣り上げて男の餌にする」という高等手段を駆使するには、私には自分に自信が無さ過ぎたし、それに、「セックスがしたかった」。だから、餌には出来ずに、餌にされてしまった。



 あの頃は、「セックスを餌に自分の価値を釣り上げ餌にする」、「させない女」が、周りにたくさんいた。「私は、そういうこと好きじゃないのに、彼がしたがるの」と自慢げに言う女だらけだったような気がする。私のような「したがる女」「飢えた女」は「おかしい女」「女の不良品」だった。しかし、今考えると、本当にそうだったのだろうか?
 

 セックスに興味があって、したがる私は、「させない女」達を羨望していて、憎んでいた。そして「したがる私」の性欲も憎んでいた。



 私がアダルトビデオを見る事に未だに葛藤があるのは、そういうことだ。昔は自分の性欲に劣等感があった。そしてその性欲のせいで男に貢いで生活を破綻し破滅して堕ちてしまったことで罪悪感が生じ、自分の性欲や恋愛感情を未だ肯定できない自分がいる。それでも人は生きていく為に自分を肯定しなければいけないから、私は「セックスの世界」アダルトビデオを見続けている。自分を、肯定する為に、生きていいんだよと思う為に。 


 そして私にとって恋愛感情というものは必ず性欲を伴う物だ。だから、「セックスを餌にして自分の価値を釣りあげる為に、させない」という高等技術は、未だに出来ないし、これからも出来そうもない。好きな人とは、セックスを、すごくしたくなるから。そういう自分に葛藤があって、人から見たら「安売りしてる」と思われるかも知れないし、そしてかって、その「恋愛感情を伴う性欲」に従って破滅したことの罪悪感が時折死にたくなるほど重いのに、それでも好きな人とセックスしたい自分がいる。そして、その罪悪感のせいで、私は好きな人に「好き」と言うことが、とんでもなく難しい。


 性欲を持ったままで、生きていいんだよと言われる為に、自分を許す為に、私はアダルトビデオを見ている。欲情する女達を見ている。



 私の嫌いな、その女は、まんまと望みを叶え、安定した生活、「好きな人との結婚」を手に入れた。とても巧妙に立ち回り、皆に祝福されながら結婚し、勝利者となった。「とても幸せです」という結婚のお知らせを皆に送った。そして私は、ただの専業主婦じゃないのよと言わんばかりに、趣味の域を出ないレベルの「お仕事」を頑張る為に、一生懸命お勉強もなさっていたらしい。どれもこれも中途半端に。


 私はと言えば、男に貢いで作った借金の為に必死で働いたけれども、それでも家賃すら払えなくなった。破綻した後は、一生独りで生きていかねばならぬから食うに困らぬ人間にならねばと働いた。泣くほど嫌な仕事でも引き受けた。それが私にとっての「仕事」だった。
 彼女の噂を聞く度に、「女としての成功者」である彼女に比べて、敗残者である自分の惨めさと愚かさで自分の傷を深めていった。


 写真の中の彼女が微笑む結婚のお知らせの葉書は、切れ味の鋭い殺傷力抜群の刃だった。尖った刃が、私の胸の「女としての敗残者」という傷にキリキリと耳障りな嫌な音を発てて突き刺さり傷を深める。血だけでは無い、得体の知れない腐臭を発するヘドロのような液体が流れだし、私は顔をしかめる。だけど目を逸らしてそこから逃げることも出来なかった。だって、その傷は紛れも無く私の体に存在するのだから。


 本当は、彼女が好きだ好きだと言い続けて手に入れた、彼女の夫になった人の事を、私は少し好きだったのだ。そんなこと口に出したことは無かったけれど。私の他にも彼を好きな女は居たと思うけれども、皆「彼女」の存在があるから、言えなかったのだ。そして彼女もそれを知っていた。知っていたからこそ、「一途で可愛い恋する女」を演じて、周りを味方につけていた。だから、私も、彼を好きな他の女達も、彼女の味方をして応援していた。悪者に、なりたくなかったから。
 皆、嘘つきて、ズルかった。私も、彼女も、他の女達も。


 「友達」という言葉は、時にはそんな欺瞞に満ちた繋がりにも使われる。昔は友達が多い方が「人気者」だから、何だかエライような気がしてた。友達が多いと遊びに誘われることも多いし、自分が必要とされているような気がして嬉しい。けれども、そのほとんどは「自分じゃなくていい」のだった。一人は寂しいから、誰からも必要とされないのは自分の価値が下がるようだから、友達が少ないと人に思われるのは嫌だから、皆友達を欲しがる。


 一方的に自分を理解して認めて欲しくて自分の事を語りたいから、それを聞いてくれる人が必要で「友達」を欲しがる人もいる。自分は駄目な人間だけど、でもこいつよりはマシだと優越感を感じる為に「友達」を欲しがる人もいる。自分と似たようなマイナスを持っているから、自分だけじゃないと安心したくて、そこから目を背ける為に馴れ合い許しあおうとする為に「友達」を欲しがる人もいる。仲良しのフリして近づいて相手の弱味を探りだし、そこを抉って攻撃して自分が「勝とう」とする為に「友達」を欲しがる人もいる。あなたすごい人だねと褒められて自分を賞賛して欲しいがために「友達」を欲しがる人もいる。自分に気がある異性をとりあえず他の女の所にいかせず便利に使う為に、「キープ」する為に、「異性の友達」を欲しがる人もいる。


 私は「友達」と言う言葉に懐疑的だ。「友達」が多い人にも懐疑的だ。ましてや「仲間」という言葉は尚更苦手だ。馴れ合い許しあい前へ進まない仲間ごっこの醜さに対峙すると鼻で笑ってしまう。

 私自身は、「一生つきあいたい人」が、「友達」で、それ以外の人は「知人」に過ぎないと区別している。実際のところ「一生つきあっていきたい人」なんて、そんな大勢いる筈が無いと思うのだ。


 私は、「嫌いな女」と友達ごっこを止めた。憎んでいることに気付いてしまったから。ましてや男が絡むと「友情」なんて成立させるのは困難だし、そこまでめんどくさい事をする気もない。好きな男と寝ている女、かって寝ていた女と、本当は別にどうでもいいのに仲良しのフリをするのは気持ちが悪いし、自分の傷を更に抉るだけの悪趣味な自虐だ。そこまでマゾじゃない。そして、そうやって傷を抉るうちに、無意識の中で悪意を孕んだ嫉妬心が抑えきれようもないほど育っていくのが怖い。嫉妬するのは仕方が無いけれども、それを増幅させる悪趣味を楽しむほどの器量は無い。

 
 数年前に、ふとしたことから思いがけず「嫌いな女」と再会するハメになった。本当は会いたくなどなかったのに。私は似合いもしない派手な服を着て精一杯虚勢を張っていた。「いい人」の彼女が私の境遇を知って無責任な同情の言葉をかけてきたので、私は不幸なんかじゃないのよ傍から見たら借金背負って男運も悪くて仕事もロクな仕事してなくて可哀想な人に見えるかもしれないけれども不幸じゃないのよと必死で愛想笑いと自慢話をして取り繕っていた。そして私は久々に再会した彼女の顔に必死で「老い」を探していた。
 後で、自分という人間の醜さと惨めさに自己嫌悪に陥って、泣いた。彼女は絶対的な「女の勝利者」で、私は「女の敗者」だということを思い知らされた。



 私は、ますます、一枚の「女の勝利者」の葉書が怖くなった。


 それからいろんなことがあり私は再び家を出た。別れもあれば出会いもあったし、嫌なことも楽しいこともあった。失われた20代を取り戻す為には余計な事を考えず自分が欲しいものだけを求める生き方をしようと思った。余計な事に惑わされる時間は私には無い。自分が必要だと思わない人間関係を切り捨てる私を「壁を作る」「人間嫌い」「変わり者」だと称する人もいたが、何を思われようと平気だった。偽りの友情に関わるエネルギーも無かった。冷たい人間で結構、変わり者で結構、懐かれて慰めあい馴れ合う人間関係なんて要らない。


 私の傷を抉る一枚の「女の勝利者」の葉書を、この前、久々に見付けた。平気だった。そこに写るのは平凡な一組の夫婦。ただ、それだけだった。

 
 いつのまにか、その葉書を見ても胸は痛まなくなっていた。相変わらず私は「女の敗者」で、彼女は「女の勝利者」なのかも知れないけれども、そんなことはどうでもよくなっていた。人の幸せに勝ち負けなど存在しない。人の幸せは人の数だけ存在するのだから、勝とうとしたり、負けたと悔しがることは愚かで不毛なことだった。私は「女の敗者」なのかも知れないけれども、敗者には敗者の幸せが存在する。


 相変わらず私は人を好きになることに葛藤したり、罪悪感が消えなかったり、そのことで無数の傷が未だに身体に存在しているけれども、それでも、一生消えないんじゃないかと思うほどにかって胸を痛めた傷の一つがいつのまにか消えていたことに気付かされて、嬉しかった。傷が消えるということは、人に対してもだけど、自分自身に対する憎しみが消失したということだ。完全には消えていないかも知れないけれども、見えないぐらい薄くなった傷跡を私は愛おしく思う。


 今、私の胸に存在する他の傷も、いつかはこうやって消えてくれるのだろうか。それはきっと自分に次第なのだろう。いつの日が自分で自分を憎まずに、「女の敗者」のままの自分で、好きな人に好きと言える日が来るだろうか。

 
 痛みと共に生きていくしかできないけれども、幸せになる為には自分を憎むことから卒業していかねば、先は見えない。もう私は自分を憎みすぎて疲れてしまっているのだから。

 憎むより愛する方がいいに決まってる。
 自分も、人も。