邪眼入道

 京都東山に六波羅密寺http://www.rokuhara.or.jp/という小さな寺がある。大通りから外れてるので、ちょっとわかりにくいかも知れない。この小さな寺の宝物館には平清盛の木像がある。

 
 この清盛像は本当に邪悪な顔をしているのだ。目が据わっていて、開き直った悪人の形相だ。邪眼としか言いようがない目をしている。よくもまあ、こんな生々しい、人間臭い、しかも邪悪な木像を造ったなと感心する。



 今までいろんな像を見たが、これほどまで生々しい目を持つ像は見たことがない。僧形であるのに俗にまみれて、痩せているのに目だけらんらんとしていて、まるで生きているかのような目をしている。
 人を、世界を嘲笑するかのような目。達観はしているが、仏の目ではない。慈悲とは対極にある、どこまでもエゴイスティックで全てを見通したような目。そう、この清盛像の目は、仏像と対極の目なのだ。欲望に忠実で、己の欲望の為なら、他者を苦しめても屁とも思わないであろう悪人の目。その悪人の目が、とても人間臭く生々しい。


 清盛像の隣には、この寺の開祖である空也上人像がある。口から阿弥陀仏を出し、念仏を説く空也上人の聖なる像と、俗そのものの清盛像は対照的だ。この二つの仏像が並べてあるのは、異様な光景だ。


 空也像も凄いが、私は清盛像に惹かれる。初めて見た時に、目を離すことが出来なかった。


 自分自身の中にある矛盾を抱えた脆弱な精神や、卑屈さとか、そんなマイナスの感情を全て嘲笑するような、あの目。あんな目の人間になりたい、と思うことがある。


 悪人で何が悪い、己の思うままに生きて、人を傷つけて何が悪い、と高みから見下ろすような、あの目に。人にどう思われても、何を言われても傷つくことなく、人を傷つけても悲しませても良心の呵責など感じない、あの目。


 私は仏にはなれない。菩薩のような笑みを浮かべることは出来ない、菩薩のフリをすることも出来ない。善人にはなれないけれども善人のフリもしたくない。でも、人に嫌われたくなくて、偽善者だと自分を罵りながら引きつった笑みで善人ぶってしまうこともある。その為に心にもないことを口にして生きている。


 たまに、清盛像を見に行きたくなる。僧形の邪眼に嘲笑されたくなる。



 くだらないことを考えることに時間を浪費している愚か者よ、己の欲するままに生きるものこそが人間の本来の姿だ、それが出来ないような脆弱な精神など捨ててしまえと、あの、人を見据えるような邪眼に嘲笑されたい。