本当に、美しい女 ― 女優・キャサリン・ヘップバーン ―
私は好きな人が死んだ時、どうするだろか。
米女優キャサリン・ヘップバーンの自伝を読んだことがある。彼女は長く仕事上のパートナーであった俳優スペンサー・トレイシーと私生活でも良き伴侶であったが、彼は妻子が居て、宗教上の理由と彼の子供がハンディキャップを背負っていたことで離婚は出来なかったのだ。
それをマスコミも知っていたけれども、この名俳優二人に敬意を表して報道しなかったのだという。この二人は仕事でも数々の傑作を生み出し、それまで乱暴物でアル中で手のつけれらない問題児の俳優だったスペンサー・トレイシーが彼女の愛情によって生まれ変わったように重厚で人望の厚い性格俳優となっていく。彼女もそれまでは傲慢で気が強くて自分が何よりも大事で自我の塊のような女だったのだが、「彼に出会って、初めて私は自分以外の人を愛した。人生が変わった。私は彼との出会いによって別人になったのだ。」と自伝に書き記している。
アカデミー賞を4度受賞して、アメリカで最も愛される女優となり、その毅然とした颯爽な、若さや美貌に頼らない姿は女性の憧れとなった。
30代と40代で出会った二人は仕事でも私生活でもパートナーとなり、それから20年近くを助け合い支えあい生きていく。しかしスペンサーが亡くなった時、最期まで彼の世話をしたのは彼女であるにも関わらず彼の葬儀の列に彼女は伴うことが出来なかったのだ。彼女自身がそれを選んだのだ。妻ではないから。
しかしながら、スペンサーの妻も、妻であることに幸福だったのだろうか。確かに同じ墓に入ることも出来るし夫の遺体に寄り添うことも出来る。しかし、それは幸福なことなのだろうか。20年近く愛し合い支えあい共に暮らし、仕事でもアメリカ映画史史上最も素晴らしいカップルだと絶賛され、夫の最期を看取った自分以外の女性がいる男の妻で居続けることは、自分の中で最良の方法だったのだろうか。それでも妻で居続けたいと思う気持ちは、私にはわからない。
夫が亡くなったという連絡を受けて、夫とキャサリンが暮らしていた家に来た妻は「いろいろ耳にしてはいたんですけれども、そういう関係ではないと実際のところ私は思っていたのです。」と言ったという。20年近くも他の女のもとに夫は居たのに、それでも妻である自分のところが夫の帰る場所だと信じていたのか。私には、やっぱりこの妻の気持ちがわからない。しかし、そこまで家族というものを信じられることが、少し羨ましくもある。
アメリカ中が敬意を持った名俳優の葬儀の列をキャサリンはひっそりと、ただ、見送るだけだった。スペンサーの棺には妻が寄り添っていた。その場面を読んだ時、泣いた。でも、それは彼女が選択したことなのだ。悲しい光景ではあるけれども、彼女は誇り高く誰にも負けぬほど美しい。きっと後悔などしなかったと思う。
キャサリン・ヘップバーンの自伝を読んだ時に、人をちゃんと好きになって、愛して、自分もその人も、誇り高く美しく後悔の無い人生を送る為には、本当の意味で精神的にも経済的にも自立しなきゃなと思ったのだ。男でも女でも、そうじゃない人間が真似したら、きっと破綻する。
キャサリン・ヘップバーンの映画はどれも好きだけど、晩年にヘンリー・フォンダと共演して彼の遺作ともなった映画「黄昏」は痛いぐらい心に響く。この映画は、長く父親と確執があったヘンリー・フォンダの実の娘のジェーン・フォンダが企画して、映画の中でも確執のある親子として共演している。(彼女の母親は夫であるヘンリーの女性関係に悩み確か自殺しているのだ)。この映画でヘンリー・フォンダはアカデミー主演男優賞を受賞したが、その授賞式の時には彼はもうこの世におらず、娘のジェーンが代わりにトロフィーを受け取った。
ハンフリー・ボガートと共演した「アフリカの女王」も好きな映画だ。わがままで気が強いキャサリンが、どんどん可愛らしく魅力的に見えてくる。
キャサリン・ヘップバーンの映画を機会があれば一度見て欲しい。美人でもない。可愛くも無い。老いを隠そうともしない。セックスアピールがあるわけでもない。それでもアメリカ中が愛して敬意を払った「人間として最高に美しい」女優がそこにいる。
懸命にひたむきに自分を誤魔化さず生きる人達が残した作品は、どれもこれも美しい。美しいからこそ、悲しい。悲しいからこそ残る。
だからこそサヨナラだけが、人生なのか。
キャサリン・ヘップバーンhttp://www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/k-hepburn.html
http://trine.hp.infoseek.co.jp/gossip/katharine_hepburn.html
スペンサー・トレイシーhttp://www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/s-tracy.html