唇寂しい夜


 友人の彼氏がひどい風邪をひいているらしい。


「だからキスが出来ないんです。」


 と、彼女は言う。


「○○さん(私の名前)は、長いことキスしてないんでしょ?唇寂しくないですか?私はセックスはしなくても何ともないんだけどキスしないと唇が寂しくって嫌なんです。そういうことって、ないですか?」


 言われてみて、なるほど、と思った。そう言えばセックスしたいという気分とは微妙に違う「唇寂しい」時がある。


 セックスしたくてたまらない時は勿論ある。人肌が恋しくて泣きそうになる時もある。だからと言って誰でもいいからと、させてくれそうな男に連絡を取って前戯のような軽い飯を食らい酒を飲みセックス一発ああ楽しかったで満たされるならそれもいいかも知れないのだけれども何だか段々そういうことの前後に起こりうる様々な事がめんどくさいと思って結局家にさっさと帰り、やりてぇなあとか思いつつAV見ながら一発抜いて今日も眠る。そういう日々を繰り返している。


 外は寒いし明日は会社だし仕事が無くてもいろいろしたいことはあるし夜出歩くのは嫌いだし、だからセックスする暇は無いとかほざく自分は臆病者なのか怠惰すぎるのだろうか誰かに操を立ててるわけでもないのに。そんなにセックスしたければすればいいのによと思うけれども、それが出来ない自分はめんどくさい女だなぁと辟易する。誰とでもセックスしようと思えばできるクセに、してた時期もあったくせに。


 本当は田舎を出て都会に住んだらたくさんセックスをしようと思っていた。それなりに出会いもあるだろうし昔関係したことがある男や割り切って遊べそうな知り合いを誘ってやろうとほくそ笑んでいた。


 セックスしない時期が長くなるとこのまま自分は一生セックスせずに死ぬんじゃないかと焦燥感にかられる時がある。だけど、それでもいいんじゃないかという諦めにも似た気持ちになることもある。だって何だかめんどくさいんだもの。


 そういう自分は何かから逃げているんじゃないか欺瞞的じゃないかと一瞬思うけれども、だって理屈じゃなくって、めんどくさいって思ってしまったら出来ないんだもの。ああこのまんま一生セックスしないままでいいや、嘘、嫌、やっぱりそれは嫌だ、したいのにしたくてたまらないのに、でもセックスに伴う様々な事がめんどくさいや、とりあえず今夜は一発抜いて寝よう、明日の事は明日考えようと同じ夜を繰り返す。


 例えめんどくささを乗り越えてセックスをしても、きっと唇は寂しいままだ。


 唇と言う器官は身体の中で一番正直で無意識に勝手に行動しやがることがある。ああキスしたいなぁと思うより早く相手の口を塞いでしまったり無意識に舌をもぐりこませてしまったり。


 20代の時は本命の恋人の為に唇の操を守る「誠実な男」とずっと過ごしていたために彼の浮気相手以下の便利な貢ぎ女だった私は数えるほどしかキスをしていない。キスは駄目だがフェラチオが好きな男だったので私の唇はいつも男の性器で塞がってはいたけれども唇は死にそうなくらい寂しかった。



 唇寂しい夜がある。セックスよりもキスが欲しい夜がある。ああこのまま私はずっと寂しいままなんだろうかと思う溜息が寒さで白い。
 一人で居るのは苦にならないというかむしろ好きだし人と関わるのはめんどくさいからなるべく避けたいと思うし自分で自分を孤独な場所に追い込むのも好きだし第一今まで恋人のような存在が居た時も私はずっと一人だったし孤独を楽しむ自分がいる。


 それでもやっぱり唇寂しい夜がある。多分誰かとセックスしてもキスしても寂しいままだ。例えすごく好きな人とセックスしてキスをしても、その寂しさは変わらない。好きな人ほど寂しいのかもしれない。キスして唇が離れた瞬間に、その別離が哀しくなるから。唇と唇、舌と舌の別離が。


 寂しさに慣れた自分は可哀想な女かも知れない。セックスしたいけれども出来なくて自慰しかしていない独身の貧乏三十路来年年女。しかも男運がないせいか適当な扱いしかされないのか今まで一度も男の住まいに入ることを許されたことのないラブホテルと野外でしかセックスしていただけない女なんて可哀想な女って、客観的に見たら何て不幸で可哀想な女ああ可哀想笑えるぐらい可哀想。


 そうやって自虐という遊びもわりと楽しい時もある。

 
 それでもやっぱり切実に唇は寂しい。一人でいることや仕事しかしてないことや貧乏なことやロクな恋愛をしたことがないとか、そんなことは実は結構どうでもいいんだけど。

 寂しがるこの唇が可哀想。
 私の唇は可哀想。


 可哀想な寂しい唇に紅を塗りネオン街の中を帰路につく。街中は季節かまわずのイルミネーションで夜なのに闇の存在を忘れさせるほど色とりどりの光を放つ。

 時の流れの濁流のような早さに目眩さえ覚えるけれども、それでも確かなのは一昨年より去年の方が、去年より今年の方が良い年になっているのは間違いないから年をとるのも楽しみだったりする。



 唇寂しい夜がある。
 けれども、その寂しさが未だ見ぬ甘い夢のように身も心も蕩けさせる媚薬のように思える。


 寂しくて甘い媚薬に。