うんざりするような優しさで

 以前、SMクラブに面接に行ったことがある。その頃私は、SMの真似事で、ある男の奴隷になっていた。

 奴隷の真似事は何度かやってみたが、いつもどこか頭が冷めていた部分があることを自覚していたので、自分はマゾのつもりなんだが本当はそうじゃないような気もしていたし試しに女王様でもやってみようかと思ったのだ。勿論、お金の為というのが一番だったけれども。


 そして結局女王様にはなれなかった。歓楽街の中のごく普通のマンションの一室で、ご主人様に貰ったマニア雑誌で見つけた広告に出ていたSMクラブに電話をかけて、そこのママに「面接」をしていただいていろいろ身の上話をしているうちに私はボロボロ泣いていた。

 
 男に言われるままに金を貸し続けてサラ金地獄に陥っていると、その当時は恥ずかしくて誰にも言えなかった話をするとママは私に、


「優しいのね。」


 と、言った。

 
 そう言われて私は、その時初めて会った「女王様」の前で、泣き続けた。


 結局そのまま話だけして終わった。母性の無い自分は女王様などできっこなかった。そのしばらく後に「ご主人様」にも酷い言葉を投げつけられて見事に捨てられてSMの真似事は終わった。家庭も自慢の恋人も居る「ご主人様」は私の前から去っていった。



 「優しいのね。」
 と、言われて泣いたのは、自分の「優しさ」が自分の弱さであり、ズルさであることを知っていたからだ。嫌われたくなくて、自分を守りたくて、自己愛の延長から、人を引き止めようとして「優しく」していただけだ。自分で自分を愛せないから、人を利用して自分を愛そうとしていただけだ。


 そんなものが愛情のわけがない。例えばそれは親子関係でも同じに思える。親が子の望むものを全て与えることが愛情なのだろうか。子が自分の望むものを自分の力で手に入れる術を教えるのが愛情ではないだろうか。あるいは望むものが全て手に入るわけではないと教えるのも愛情なのではないだろうか。



 苦行のような恋愛をしている女達が居る。どうしてそんなに自分を苦しめる男に、痛めつける男にあなたは執着するの?と思う。そんな話を聞く度に私は記憶の中から、「痛み」を思い起こす。


 そんな男と付き合っている女は、きまって「でも、彼は優しい人なの」と、言う。優しい人だから、私は彼が好きなの。彼は私に優しくしてくれるの、本当はいい人なの。


 私に金を借り続けて返さなかった男が、ある日、マクドナルドのチーズバーガーを一つ買ってきてくれた。「私の為に買ってきてくれた。」と私は彼の滅多に見せない「優しさ」に喜んだ。数百万の金を借り続けて返そうとしない男から貰った、二百円にも満たない「優しさ」に、喜んでいた。


 苦行のような恋愛をする女に「そんな男とは別れなさい」とは言えない。簡単に別れられないことがわかっているからだ。「優しい男」は、隙のある女を見つける嗅覚に優れている。だから「優しい男」と「優しい男が好きな女」を見ると悲しくなりつつ、うんざりする。


 「優しい男」も「優しい男が好きな女」も寂しい。自分の中の寂しさの穴を埋める為に人を求めるから、相手のことなんて本当は見えてないから苦行のような恋愛をする。実は相手のことなんて、どうでもいいと思っている。自分の大事なかけがえの無い人をわざわざ苦しめるようなマネをするヤツは独りで生きた方がいい。



 って、そういう自分もうんざりするほどそういうことを繰り返してきたのだ。自分の為に、人に「優しく」する悪い癖が染みていて。それに気づいた時に私は結局生まれてこの方誰のことも愛してはいなかったのだと思ったし、人と交わり苦しむよりは、ずっと独りで生きようと思ったのだ。


 苦行のような恋愛に何か一つ救いがあるとすれば。
女達は強くてたくましい。泣いてもがきながらも前を向いて歩いていける。捨てた男と自分の弱さを鼻で笑いながら笑い着飾り生きていく。着飾る女が好きだ。化粧をする女も。私は綺麗だよ、誰にもそう言われなくても、私は私が世界一綺麗だよと着飾る女が好きだ。


 恋愛で泣いた女達に、もう男に惚れるのなんて懲りたんじゃないか、もう女だけで楽しく笑いながら生きていこうよ、と言ってみるけれども、彼女らはまた懲りもせず男を好きになって笑ったり泣いたりを繰り返す。
 馬鹿だなぁと思うけれども、それでもそうしているうちに女はどんどんたくましくなって強くなっていくから、まあいいんじゃないかとも思ったりもする。


 だから私は女が好きだ。