戦国に咲いた一輪の花 (後編)
戦国という野に咲いた一輪の花は越前北の庄の露と消えた。
業火に焼かれ、英雄達の運命を動かした花は燃えて天に昇ったかに見えた。しかし花は燃えながらも散ってはいなかったのだ。燃え続けてその炎で歴史を動かし続けていたのだ。
北の庄城からお市と前夫浅井長政との間の三人の娘達が助け出され秀吉の元に来た。長女お茶々、次女お初、三女お江与の年端もいかぬ幼い娘達。母を亡くし二度目の父をも亡くした少女達は心細さと悲しみとで泣きじゃくっていた。だが泣きながらも長女のお茶々は秀吉の顔を見た瞬間、秀吉に掴みかかろうとしてきた。
「この猿め!お前が母上様と父上様を殺したのかっ!この卑しい猿めが!お茶々は一生お前を許さぬ!母上様と父上様を殺めたお前を許さぬ!」
秀吉は驚愕した。似てるとは聞いていたが、これほどまでにとは。
涙で濡れる目を憎しみで燃やす少女は、まさに秀吉が信長に仕え草履取りをしていた時に最初に目にして心を奪われたあの人そのものだった。幼いながらも気高く美しい少女は、母親のお市と瓜二つだった。
あの目だ、俺を蔑む、あの冷たい目。その目に見据えられた瞬間に秀吉は肉体の一部が今までになく硬く屹立して先端が濡れるのを感じた。全身の毛が逆立った。血という血が沸き立った。
お市様が、ここに居る。
秀吉は震えだし心臓の鼓動が早くなり息苦しくなるのを感じだ。
次女のお初は近江の京極高次の元に嫁ぐが1年ほどで夫は亡くなり出家して常高院と名乗る。三女のお江与は尾張の佐治一成の元に嫁がされ二人の子供を生むが離縁させられ秀吉の甥の羽柴秀勝の元に嫁がされる。しかし秀勝もまもなく病没する。
二人の妹が嫁いだ後も長女のお茶々だけは秀吉が手放さなかった。もう時間の問題だった。どうすることも出来ず、何の後ろ盾も持たない茶々は、秀吉の側室となるしか術がなかった。
そして豊臣と徳川の結びつきを深める為に未亡人のお江与は徳川家康の息子の秀忠に嫁がされた。お江は秀忠より6歳上で三度目の結婚だった。
秀吉には正室の寧々(北政所)の他に数多くの側室が居たが子供が出来なかった。秀吉には子種が無いと皆が噂していた。しかしそこでお茶々が孕んだのだ。生まれてきた男子は鶴松と名付けられたが、まもなく死んでしまった。秀吉は嘆き悲しんだ。
俺は元の身分が卑しく何の後ろ盾も持たず譜代の家臣も持たない成り上がり者だ。だからこそ俺は己の才覚と知恵だけでここまで上り詰めた。天下を取り関白太政大臣の位までついた。しかしどんなに地位を高めても俺が死ねば全て俺の築き上げてきたものは風の前に塵のように一瞬で消えてしまうのだ。だからこそどうしても子供が欲しいのだ。俺が築き上げてきたものを残す為に子供が欲しいのだ。しかしこれだけ数多くの女の中に精を放ったのに全く子供が出来ないというのは俺には悲しいかな子種が無いとしかいいようがない。
だから、子供を生んでくれ、お茶々よ。俺の種で無くていい、他の男の種でもいいから、お前が子供を生まなければいけないのだ、豊臣の子供を。お前が生んだ子供なら例え種が俺のものでなくてもいいから、俺の築き上げてきたものを与えてもいい。他の誰でもない、お前の子供が欲しいのだ。お前の子供が、お市様の血の流れる子供に俺は豊臣を残したいのだ。
哀れな老人だと思う。
お茶々は最初は心の底からこの男を憎悪し蔑んだ。こんな醜く卑しい男に縋るしか自分は生きる道が無いのかと思うと何度も舌を噛み切りたくもなった。最初に私の閨に来た時に、この男は私の顔を見た瞬間、みっともないほど嗚咽した。まるで母を無くした子供のように嗚咽した。関白太政大臣にまで上り詰めて巷では英雄だと言われているこの貧相な猿顔の男は嗚咽しながら私に頭を下げた。お茶々様、わしを好こうとしなくていい、蔑んで憎んでくれたままでいい。こんな卑しく醜い老人の手に堕ちようとするあなたの心を思うとわしは申し訳なくて胸が痛む。しかしわしはこうすることしか出来ないし、あなたもこうするしか生きる道がないことはこの世の定めだと理解して欲しい。わしはあなたの欲しいものは何でも与えよう。わしを蔑んでくれ卑しい猿めと罵ってくれ、しかしわしに抱かれてくれまいか、鳥肌が立つほど嫌なのは承知だ。蔑んで憎んで罵りながらわしに抱かれてくれ。目をつぶって他の男のことを考えていてもいい。権力という汚い手を使いあなたを手にいれるわしを蔑んでくれ、憎んでくれ、冷たい目で見てくれ。
醜い猿面は、知ってか知らずか私を抱く時に「お市様」と時折呼びかける。私が何も喜んでおらず氷のように抱かれていることを知りながらも私に縋りつき私の母の名を呼び私の上で果てるこの貧相な男が次第に哀れに思えてきたのだ。
それはもちろん愛とか情ではないけれど、いつしか憎しみは薄れ、ただ哀れに思えてきたのだ。
そして、この男の望む通り、私は子供を生もうと思った。織田の血の流れる子供を、豊臣の子供として残そうと。この男以外の男、子種を持つ男と寝て。
お茶々が生んだ最初の子供の鶴松は早逝したが、次にまたお茶々は孕み「お拾」と名付けられた男の子を生んだ。他の側室との間には子供の出来ぬ秀吉に子種があろう筈がない、お茶々の子供の父親は他の男であろうと町の者達は噂した。
お茶々の子供の父親は誰なのか。石田三成だというものもいたし、大野冶長だという声もあった。あるいは織田信長の弟の織田長益(有楽斎)の種ではないかと。
並み入る側室達の中で秀吉のただ一人の子供「お拾」を生んだお茶々は「淀城」という城を与えられて「淀君」と呼ばれるようになった。豊臣家の跡取りの母となって淀君は秀吉の正室寧々と並ぶかの如く権勢を誇ることとなった。「お拾」は成長し、秀頼と呼ばれるようになる。
徳川秀忠に嫁いだお江与は数人の子供を生んだ。長男は竹千代と呼ばれる。竹千代とは家康の幼名で、代々これより徳川の後継者にはこの名が幼名として使われることとなる。お江与の生んだ竹千代は後に家光と呼ばれる。家光の他にも、国千代、千姫、和子らが生まれた。
秀頼をもうけてからの秀吉の晩年の醜態は諸大名達が目を逸らしたくなるほどのものだった。なりふり構わずに秀頼を寵愛し、その地位を脅かすからといって甥の秀次を殺しその妻子達を京都鴨川三条河原で見せしめのように残虐な殺戮をした。幼い秀次の子供達が磔にされ殺される姿を見て人々は秀吉は狂ったと噂した。千利休を切腹に追いやりその首を一条戻り橋で利休の木像に踏ませて晒した。二度の無謀な朝鮮出兵で諸大名達を疲弊させた。殺戮した朝鮮人兵士の耳を切り取り国内にその耳だけを持ち帰させた。京都東山に方広寺という巨大な伽藍を持つ寺を建立し、奈良の東大寺の大仏を超えた巨大な大仏を作るが、その大仏はすぐに地震で跡形もなく崩れ去った。まるで豊臣家の落日の気配を予感させるかのように。
老醜を晒した豊臣秀吉は京都伏見城で六十三歳の生涯を閉じる。諸大名達には「くれぐれも秀頼を、秀頼のことを頼む」とひたすら息子のことだけを懇願した。執拗に秀頼のことだけを頼むと繰り返し繰り返しその行く末だけを按じて死んでいった。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
という辞世の句を残したと伝えられている。しかし明らかに痴呆の症状を示していたとされる秀吉にこのような辞世の句が残すことができたかどうかは疑問が残る。
秀吉亡き後、秀吉の正室寧々は大阪城を去り京都東山に秀吉の菩提を弔う寺を家康により建立させて、そこに住み高台院と名乗る。大坂城には淀君と秀頼が残った。秀吉と家康の生前の約束通り、秀頼の元には徳川秀忠とお江与の娘の千姫が嫁いだ。母親同士が姉妹なので千姫は秀頼の従姉妹にあたる。
秀吉亡き後、家康はその牙をむき出しにした。秀吉没の二年後慶長5年には豊臣家の譜代大名であった石田三成との間で天下分け目の戦い関が原の戦いが起こる。西軍小早川秀秋の裏切りなどにより徳川家康が勝利した。
残る邪魔物は、大坂城だけだった。大坂城に残る豊臣秀頼とその母の淀君。徳川の黒幕と呼ばれた天海僧正が家康に囁いた。
滅ぼす理由が無いのなら、理由を作ればいいでしょう、と。
秀吉が作った方広寺は地震で崩れ落ちたので家康の命により秀頼が再興した。方広寺の鐘には「国家安康 君臣豊楽」という銘が刻まれていた。
「滅ぼす理由が無いのなら、理由を作ればいい。」
謎の僧・天海は家康に囁いた。この男がこれほどまでに策略家だとは昔は思いもしなかった。そして今までこの男の策略は全て上手くいっている。関が原の戦いで加藤清正や福島正則を味方につけて小早川秀秋を裏切らせる為に秀吉未亡人の寧々に近づくようにと助言したのもこの男だった。無謀かと思えた本能寺の変での織田信長暗殺の謀略から今の今までこの男の策略に間違いはない。あの時、この世から姿を消した筈の桔梗の紋の男の策略に。
「国家安康 君臣豊楽」
これは、家康という名を二つに切り裂き、豊臣が栄えるという意味であり、これは徳川家に対する呪詛だと家康はこじつけとしかいいようがない大儀名分を盾に大坂城に兵を向けた。
遂にこの時がやってきたのか。
大阪の陣で家康は豊臣家に屈辱的な条件を出してきた。秀頼生母・淀君を徳川へ人質として差し出すように、秀頼は大阪城を退去するように、と。いずれとして受け入れることが出来ない条件であった。徳川の兵は20万騎。城の外掘も内堀も埋められた大坂城は裸同然だった。
私の父浅井長政も、義父の柴田勝家も、母も、皆城に火をかけ炎の中で亡くなっていったことを思えばこうなることは予想は出来ていた。
淀君の脳裏を小谷城、北の庄城の炎上する姿が走馬灯のように蘇った。豊臣家は、ここで滅びる。この秀吉が築いた大坂城で。淀君は、ふと思い出した。そうだ、もともとこの大坂城のあった場所は、叔父の信長が攻め続けた石山本願寺のあった場所だ。そう思うと笑いだしそうになった。織田が火をかけた場所で、織田の姫が炎上しようとしている、なんたる皮肉か。
お母様、私は不思議に今悲しくも悔しくもないのです。私はお母様とお義父様を滅ぼした秀吉の妻になり、豊臣の跡継ぎを生みました。そうしなければいけない、と思ったのです。秀吉に懇願されたからではなく、私がそうしなければいけないと思い必死で種を飢えつけたのです。豊臣の血ではなく、織田の血の子供を。そして今私はこの大坂城で滅ぼうとしています。今こうなって私が何故に秀吉の望むまま子供を生んだのかわかりました。私は、滅ぼしたかったのです、豊臣家を。織田家を滅ぼした豊臣家を。その為に私は豊臣の子供を生んだのです。お母様、私は後世で豊臣を滅ぼした愚かな女だといわれるでしょうか。それこそが私の本望なのです。私はお母様が憎んだ豊臣と共に心中します。私はここで滅ぶけれども、妹達がお母様の娘として何かを残していくでしょう。私の役割は、きっとこれで終わるのです。私はお父様や叔父様、お義父様、お母様と同じく炎に焼かれて滅ぶことができることの喜びで今高らかに笑いだしそうな気分です。気が狂ったと思われるでしょうか。気が狂っているのは私ではない。いつかは消える形のない「権勢」というものの為に死にものぐるいに人生をかけ、たくさんの人を殺して人間を道具のように扱う英雄と呼ばれた男達こそが狂っているのではないでしょうか。
どうせ、皆、人は死んでしまうのに。死んでしまえば何も残らないのに。
お母様、お茶々は炎の中で死にます。業火に焼き尽くされた向こうにはお母様もお父様もおられます。あの、私が幼い時に過ごした小谷城も、そこにはあるのでしょうか。お母様、私は私の役目を終えました。早くお母様達に逢いたい。瞼を閉じれば幼い日々の小谷城の幸せな様子しか浮かびません。きっと、そこにはつまらないものに捕らわれた実のない戦いなどもないことでしょう。お母様、早く逢いたい。茶々はお母様を失ってからずっと孤独でした。ずっと、ずっと。だから今そちらにいけることを幸せに感じます。お母様。茶々を抱きしめて下さい。あの小谷城での昔のように。
豊臣秀吉が築いた大坂城は炎に焼かれ滅びた。秀頼の妻、徳川秀忠とお江与の娘の千姫だけは助け出されて家康のもとに返された。秀頼も密かに大坂城を脱出し、薩摩へ逃れたという説もある。
そして徳川の天下となった。家康は将軍職を息子の秀忠におくり駿府城で隠居する。二代目将軍秀忠は生涯妻を一人しか持たなかった。できるだけ多くの側室を置き子孫を増やせとの父家康の再三の命にも関わらず、お江与以外の妻を持たなかった。ただ一度だけ浮気をして子供をもうけたことがある。その子供は後に名君と謳われた会津藩主の保科正之である。これより300年後、江戸幕府が滅亡する際に最後まで徳川を守ろうとした会津藩の祖にあたる。
お江与の生んだ竹千代は家光と名乗り徳川三代将軍となった。家光は将軍宣下を受け、諸大名の前で「世は生まれながらの将軍である」と宣言した。家光は鎖国制度、参勤交代、武家諸法度の制度を確立し徳川幕府300年の礎を築いた。生まれながらの将軍の出現によって長きに渡った乱世がようやく終わったのだ。
家光は妹和子を後水尾天皇に嫁がせて皇室との結びつきをも強める。和子と後水尾天皇との間に生まれた皇女は明正天皇として即位する。
お市の子孫達は、将軍となり、天皇となった。お市は天下を取ったのだ。信長にも、秀吉にも取れなかった天下を。それが本人の望むところであったかどうかはわからないけれども、彼女の意思を越えた壮大な力は英雄達を動かし歴史を作った。
家康は問うた。
天海よ、何故に豊臣は滅んだのであろうか。
それはあなた様もわかっておられる筈、秀吉公、いや、猿めは、あまりにも情が深く情に流され過ぎた。そして我々はそこに上手くつけ込んだ。
天海、いや、光秀公と呼ぼうか。秀吉は醜悪なほどに我をも見失うほどに一人の女に執着して人生を終えたようにわしには見える。あの男が欲しがっていたものは、天下などではない、ただ一人の女だけのような気がするのだ。権力を持つこと、高い位に上がること、それらは全て本来の目的ではなく、一人の女を求める為の手段に過ぎなかったように思えるのだ。わしはそれを愚かだと思う、醜悪なほどに情に流されることを。しかし恐るべきことにその醜悪なほどの執着であの男は今まで誰もができないぐらい高い位に上り詰めてこの国を平定までしてしまった。わしはあのなりふり構わぬほどの執着を、あの欲望を醜悪だと思いながらも羨望せずにはいられない。あの男の欲望にまみれた人生は美しくはないけれども、底知れぬ力を感じるのだ。一人の女へ想いに狂おしいほど憑かれた男に、わしは敵わないと思った。あの壮大な激しい力、それはまさに「英雄」と呼ぶに相応しい。わしは豊臣を滅ぼし天下を手にいれた。しかし後世の人間から見たらさぞかし魅力の無いしたたかな人間に思われるだろう。天海よ、愚かな人間の方が、実のところは幸せなのだと思うことはないか?なりふり構わず己の欲望に突き動かされ走り続ける人間の方が。欲望の炎の中に燃え尽きる人間の方が。
天海は家康に言った。
大御所様(家康)は、神におなりください。欲望にまみれた人間を高いところから見下ろす「神」におなりください。信長公も猿めもなれなかった神になることで、時代に君臨し続けるのです。徳川の時代が永きに渡るように、神として奉られよ。
家康は鷹狩りの最中に倒れ伏した。
意識が遠のく中で未来の光景がうっすらと見えてきた。わしの築いた徳川の世もいつか終わる。この世に終わりのないものなどない。信長公は南蛮人から手に入れた地球儀というものをいつも興味深げに眺めていた。家康、見てみろ、この日本という国はこんなにも小さいのだぞ、と。そしてその地球儀を眺める時だけ鬼神と呼ばれた人とは思えぬほどの無邪気な子供のような表情を浮かべこう言っていたのだ。「わしは、この全ての国を手に入れて世界の王となり、果ては神となる。」と。そんなことはできるはずは無いとわしは思っていた。わしはこの小さい国でいい。この小さい国の王になればいいと。そしてその通りになった。しかしわしには今未来が見える。この小さな島国に、あの地球儀というものに描かれたどこかの国からの使者がやってくるだろう。その時はこの小さな国はひとたまりもないだろう。その時、わしの子孫は、豊臣や織田のように滅ぶだろうか。それも全て世の習いに過ぎないという気がする。
生も死も、全て夢まぼろしだ。うたかたの如き儚い夢だ。秀吉は「浪速のことも夢のまた夢」と辞世を詠んだ。全て夢だ。江戸のことも 夢のまた夢。
人間五十年 下天のうちにくらぶれば 夢まぼろしの如くなり 全ては一生 生をうけ 滅せぬものの あるべきか
人間五十年、わしは長く生きることができ、天下をとることができた。しかし、それも全て夢のまた夢。いつかは消えるうたかたの如き夢だ。この世に確かに存在するものなど、何もないのだから。
何もないからこそ、何かを求めずにはいられないのか、人は。
極楽の花の香りが匂いたち迦陵頻伽の鳴く声が耳に心地良い。そしてわしの名を呼ぶ声が聞こえる。あれは幼き日に別れた母の声か。やっと、帰ることができるのか、母のもとへ。ずっと求め探していた母のもとへ、母のいる場所へ。長い旅だった。あまりにも長い旅だった。ようやく、辿りつけた、あの懐かしい場所へ。
徳川家康は駿府城で75歳でその生涯を閉じた。家康は死後、天海らによって日光東照宮に奉られ、神となった。
英雄達は眠る。愛しい女の手に抱かれる夢を見ながら。