その2 〜純情少女、AVに遭遇〜

 あるいなかのまちにNちゃんというじゅんぼくなおんなのこがいました。Nちゃんはかいしゃのどうりょうのおねえさんにうらびでおをかしてもらいました。はじめてみるひとのせっくすにNちゃんはどきどきしました。それからもおねえさんはえっちなびでおをかしてくれます。はじめはかれしとわいわいいいながらうらびでおをみていたNちゃんですがそのうちひとりでみるようになりました。あるひおねえさんがちょっとかわったえろびでおをかしてくれました。そのびでおはいろんなかんとくさんがおーでぃしょんでじょゆうさんをえらんでびでおをとるというものでした。Nちゃんはそこではんじろうやあたまにへんなものをつけたひとをみました。そしてはじめてNちゃんはじしゅてきに(もざいくのある)えろびでおをみたいとおもってとってもはずかしかったけどおねえさんにおねがいしました。おねえさんは、あのおーでぃしょんのあとではめどりしたびでおをNちゃんにかしました。そのほかにもあたまにへんなものをつけたひとのびでおをなんぼんかかしました。おねえさんはNちゃんがえろびでおをかんしょうしていることをそうぞうしてにやぁとよろこんでいました。それがおねえさんのえろつぼどまんなかだったからです。おねえさんはともだちに「あなたはへんたい」といわれました。さて、そのごNちゃんとおねえさんはどうなったのかな。



 「AV見たい、、、」
と、首まで真っ赤に染めるNちゃんにお姉さんはにやぁ〜っとしながら何本か手渡したのでした。
 で、「頭に変なものをつけた人」(注・二村ヒトシ監督のことです)のAVを渡した時に、Nちゃんは、



「この人名前覚えたよっ!ヒトシっ!ヒトシっ!(なんで君は呼び捨てにするのかな?失礼じゃないか)この人、名前がカタカナなのがいいよねっ!(意味不明)」

 と、言っていたのであった。名前がカタカナなのが何故いいのか、どうしていきなり呼び捨てなのか、よくわからないのだが、彼女は、たまにわけのわからんことを言う娘なのであった。はんじろうとか、、、、訂正してないけどっ!


 そうして、休み明けに私が出勤すると、Nちゃんが駆け寄ってきた。


 「お、お、おはようございます、、」


 って、恥ずかしそうに。なんで普段はタメ口で「おはよっ!」って言うのに今日は敬語なんだ。そうして彼女はビデオを返してくれた。お礼のお土産と一緒に。


 「あ、あ、あの、、ビデオありがとうございます、、、」

 「どないやった?」

 「あれって実らなかったんですかっ?」

 「(パラダイス・オブ・トーキョーのことか)実らなかったんだろうね、、、。」

 「あれ、ああいうのって、全部本当のことなの?」



 彼女からしたら、その日に会った男女がビデオ撮影の中で恋に落ちるということが不思議でならなかったんだろう。でも、あれが全部脚本があって、全部演技だったら、そっちの方がすごいよ。

 
 「本当だろうね、ああいうこともあるんだよ。」

 「、、、すごいですね、、、、、」

 「ねー。で、他のビデオは?」


 
 と、聞くと彼女は首まで真っ赤に染めて俯きながら、とても恥ずかしそうにこう言ったのであった。




 「あ、あ、、ヒ、ヒトシのビデオ(だからなんで君は呼び捨てにするんだ。そんなにカタカナが気にいったのか)
 、、、、すごくいやらしかった、、、、です、、、、」


 Nちゃんが、あんまりにも恥ずかしそうにそういうので、なんだかお姉さんこっちまで恥ずかしくなってきちゃってガラにもなく赤面しちゃって彼女の眼を見られなくなっちゃって、俯いてしまったよ。で、二人して赤面して俯きながら

 「あ、あ、お土産ありがとうございます(私まで敬語になってしまった)。休みの日、どっか行ってきたんですか?」

 「あ、あ、はい、ちょっと近場ですが、、、」

 「あ、あ、いいですね。あ、またAV貸しますね。」

 「あ、あ、ありがとうございます。」




 奥さんっ!奥さんっ!奥さーんっ!!!(←間違い)


 はぁはぁはぁ、、、っ。奥さんっ!(ちょっと心を落ち着かせて冷静になります)



 呼び捨てとか、名前がカタカナなのが何故良いのかの件はひとまず置いといて(未だにわけわからん)


「すごくいやらしい、、、です、、、」
 奥さんっ!(もうええっちゅうねん)



 おねえさんは、またまたえろつぼどまんなかでもんぜつしてしまいました。おねえさんがおとこだったらぜったいにせいえきがぜんぶでちゃってたとおもいます。


 Nちゃんは本当に純朴な娘で、職場で「ピュアという言葉はあの娘の為にあるような言葉だ」とか言われてたり、彼氏は居るけれども「あの二人は、そういうこと(セックス)は、していない、、、と、思いたい。」だの言われているような娘である。ちなみに彼女は69も知らなかったんだよ。彼氏も「Nちゃんって、ほんと何にも知らないんですよー。教えてやって下さい」って言ってたし。そんな彼女が



「すごくいやらしかった、、、です。」



 って、、、奥さん!奥さん!



 で、考えてみると彼女の口から「いやらしい」という感想を聞いたのは初めてなのであった。今まで無修正ばかり貸してたんだけど「男優さんがよくない」とか「すごいことしてるね」とか、そういうわりと冷静な感想ばかりだった。

 

 「すごくいやらしい」


 って、私はNちゃんのように誰かに面と向って言えない。こうやってネットで顔の見えない相手に対してならいくらでも言えるけれども。だってAVを見て「すごくいやらしい」って言うことは、自分が発情しました、欲情しましたって言ってるようなものだ。それを私は言う勇気がない。自分の発情した顔を見せることが、自分の性欲を人に見せるのは怖い。


 AVを人に貸す時も、「おもしろいよ」とは言えるけど、「すごくいやらしいよ」とは言えない。「おもしろい」という言葉は嘘ではないのだけれども、その言葉でいろんなことを誤魔化しているなとNちゃんの素直な言葉を聞いて思ったのだ。


 Nちゃんの、真っ直ぐな健全さが羨ましかった。

 でも、正直嬉しかったのだ。実際のところ自分が「女なのに」AVを見たりすることを開き直れない部分があったから。私は男に思うのと同じように女にも欲情するし、もしかしたら女の方が好きなのかもしれないとも思う。性欲や性的好奇心に振り回されて幾つか傷を負ってしまい周りの人間にも迷惑をかけ、そのことで罪悪感と劣等感を持ち続けている。ずっと、ずっと苛まれている。そういう自分の欠損の穴が大きいから自分は「いやらしいもの」が好きなのかと思っていた。だから「いやらしいもの」が好きなことをポジティブに捉えることができない。だいぶマシにはなったように思えるけど、未だにどこか自嘲的に露悪的にしか性的なことを語れない。要するにそれが自分の欠損の穴だと否定的に捉えている限りは自分の性欲と真摯に向き合えないということだ。


 でも、Nちゃんが「すごくいやらしかった」と言ったのを聞いて、なんだ、Nちゃんのような多分私と正反対の真っ直ぐな恋愛及び人生を送ってきた娘と私も同じだと思ったのだ。「いやらしいもの」を「いやらしいもの」と捉えるのは、私が「欠損の穴の大きい」人間失格だからじゃないんだ、と。
 Nちゃんも、私も、そして多分他の人も同じなんだ、と。


 私はNちゃんに私と同じように欲情して欲しかったのだ。泣くとか感動するとかではなくって欲情して欲しかったのだ。どこか無意識のうちに自分を肯定する為の実験台として彼女のことを使っていたのかもしれない。そしてその実験は見事に成功したのだ。私も彼女も同じだった。私が特別に「不良品だから」性的なことに捕らわれすぎているのではなかったのだと、ちょっとだけ思った。彼女にも、性欲はある。「すごくいやらしい」と発情してくれたのだから。


 
 性欲って、切実なものではないですか。
セックスしたい時やオナニーをしたい時って、切実ではないですか。本当は笑い話にして誤魔化したり冗談にしてしまえない切実な欲望ではないですか。食べなくては寝なくては生きていけないけどセックスしなくてもオナニーしなくても生きていけるハズなのに、それなのにどうしてこんなに切実に求めるのかと思う時があります。
 したくてたまらなくて苦しくて泣きそうになって、でもどうにもならなくて、どうしたらいいのかわからなくって、性欲なんて無くなればいいのにって思ったことはないですか。それで例えば手当たり次第相手を見つけてやりまくったり、一日中一人でしまくってスッキリしたり、もしそういうことで解消されるのならどんなに楽かと思うことがあります。誰かれ構わずとセックスして満たされるのならそんな簡単なことはない。


 部屋に入って二人きりになった瞬間、とにかく二人の間の体の隙間の存在を埋めたくて服を脱ぐのも前戯するのももどかしくて目があった瞬間に繋がってしまったことってないですか。ただ繋がりたいという激しい性欲だけに突き動かされて。
 性欲って言うのは、誰かと、あるいは誰かを媒介とした何かと繋がりたいという欲望なのかなと思うことがあります。
 例えば好きな人とセックスしたいとかそういうストレートな形ではなくても、誰かを痛めつけたい、誰かによって自分が痛めつけられたいという形もあると思います。どっちにしろ自分以外の誰かを、何かを切実に求める欲望が性欲なのではないかと思うのです。


 たとえオナニーで「抜けてスッキリ」することが出来ても、それだけで皆満足してるのでしょうか。オナニーされあればセックスは要らないという人はいるのでしょうか。もしかしたらいるかもしれないし私もそれでいいやと思ってしまうことはあるけれども、本当はそう思いこんで面倒なこと、つまりは自分の欲望から目を背けようとしているのを自覚しているのです。


 やっぱり、セックスがしたいと切実に思う時があります。いやらしいことに脳が犯されている時があります。すごくいやらしいことをしたいと思う時があります。すごくいやらしいものが欲しいと思う時があります。そうして「セックスがしたい」という欲望は結局は自分以外の他者を、例えエゴイスティックな要求の形だとしても切実に必要としている欲望の有り方だとしか思えないのです。


 自分以外の他者を求めるのは、やはり自分の中の欠損の穴を埋める為なのでしょうか。だからどうしても恋愛もセックスもエゴイスティックな欲望としてしか存在できなくて、時にはお互いを侵食して破綻してしまうのでしょうか。欠損の穴の無い人間などいない。満たされてる人間などいないから人は性欲が溢れていてそれらに振り回されたり押しつぶされそうになったりするのでしょうか。


 欠損の穴は人それぞれで、形は様々で、人の数だけ欲望の形があるけれども、その欲望は全て「すごくいやらしい」ものを求めることに他ならない。しかし欠損と言っても、人間に欠損があるのは当たり前で、それらは本当はそんな劣等感や罪悪感を感じたりするものではないと思う、持ってはいけないと思う、私のように。



 「勝絵」
 と、いうものが戦国時代にありました。要するに男女のセックスしている絵、春画です。戦国時代に戦に行く男達のお守りのようなものだったらしいのです。言うまでもなく戦国時代は死が隣り合わせの時代です。戦に行くということは死に行くようなものです。死と向き合う男達は家を離れてセックスは実際には出来ないけれどもセックスの絵を見て性欲と同時に戦気を高めて戦に望もうとしていました。だから「勝絵」というのです。勝つ為に、戦気を高める為に、そして死を目の前にして心を慰め穏やかにする為に必要とされてたものだったのです。「ズリネタ」です。でもとても切実なズリネタなのです。


 「勝絵」というズリネタが、死が目の前にあった時代に切実に求められてていたことを考えると泣きそうになりました。家族を残し死にゆく名も無き兵士達が懐にセックスの絵を忍ばせて戦の合間にそれらを眺めて死への恐怖から逃れようとしたり、もう二度と会えないかもしれない妻のことを思い出したり、死にたくないセックスしたいから勝って生きて帰って来ようと気力を振り絞ったり、そういうことを考えると性欲は生きていこうとする欲望でもあるのだと思いました。生命力なのだと。だから、性欲は切実な欲望なのだと思います。生きていく為に不可欠ではないように思えるのだけれども、本当は、悲しいぐらいに切実に必要なものだと。
 だから「すごくいやらしいもの」が欲しくなるのだと。



 切実に、誰かを欲しいと、繋がりたいと、その為に生きていこうとする欲望。それが性欲なのではないかと戦国時代の「勝絵」について書かれたものを読んだ時に思ったのです。なんて切実なズリネタなのかと泣きそうになったのです。

 性欲が苦しい時はあるけれども、それが無くなるのは怖いです。性的な欲望だけではなく、その他の欲望も、「生きたい」という欲望も失われてしまいそうで。「生きたい」と言う欲望がなくなった時に、どうなってしまうか。そんなことは嫌というほどわかっています。


 私は今まで自分の欲しいものがちゃんと手に入ったことがなくて、だからこそ自分の欲望が苦しくて無かったことにしたいと時々思います。欲望なんて無い方が平穏な人生だし、欲しいものを欲しいということはわがままだと非難されたり、それによって傷つけられることも多い。でも、結局は欲しいものを欲しいという人が最後には幸せを掴むように思える。欲しいものを無かったことにしたり、何もしないくせに諦めてしまうことは卑怯なことに思えます。


 性欲を含んだ欲望というもの全ては、ひどくエゴイスティックなものだから、人を痛めつけてしまうことは、あるけれど。そのことによって自分も痛めつけてしまうけれども。

 それでも檻の中で自分の欲望を殺しながら生きることの方が辛い、きっと。


 戦に望む名も無き兵士は、いやらしい勝絵を見て、死の恐怖から逃れ、生きる力を奮い起こして、愛おしい誰かを求めながら、性欲を滾らせて自慰していたのでしょう。
 そこには、切実な、本当に切実な性欲があります。


 それは、戦国時代の兵士に限らず、Nちゃんだって、私だって、誰だって、存在する欲望です。



 私は、Nちゃんが、とても可愛い。自分と全く違う生き方をしてきて、真っ直ぐに育ち、嫌な言い方をすれば「違う世界の人」かも知れないけれども、「すごくいやらしい」と、私と同じように発情する彼女が。大小はあるだろうけれども、私と同じように切実な性欲を持つ彼女が。私も彼女のように素直になりたい。
 羨ましくて羨望しつつも、可愛くてたまらない。



 あんまりにも可愛くて、どうしようかと思っている。
どうしちゃおうか。