二十一世紀に生きる君たちへ

 平気なフリをして今までと同じ日常を送ることはできない。無理して元気を出すこともできない。人と会って酒を飲んでという気分にもなれない。人を励ます力もない。テレビを見なくてもネットの情報を避けても落ちる気分は止められない。どうしても自分が今まで短い間でも仕事で関わった多くの東北の人達のことがよぎりいたたまれない。けれど「不謹慎」という言葉を目にするのもうんざりだ。
 この前、ある有名人が「友達と飲みに行きたい」と呟いただけで「不謹慎」と叫ぶ人を見て心底不愉快だった。ツイッターやブログの他人の発言にいちいち「不謹慎」と書き込むことは、それは果たして被災した人達に対する「優しさ」や「思いやり」なのだろうか。
 そんなわけがない。自分の感情を爆発させて人を攻撃したいだけだ。今、一番必要なものは、「お金」であり「優しさ」だ。けれど自粛自粛で被災していない人達も相当の経済的な打撃を負っている。派遣やアルバイトは休めば給料は無いしライブやイベントや祭事で生活している人も収入は減っている。京都も観光客が軒並みキャンセルらしい。観光業界も大打撃だ。おそらく不景気に拍車がかかり倒産は増え生活保護は増え、メンタルな病気の人間も増える。
 お金が無ければ人の心は荒む。貧しくても心は潤うなんて嘘だ。お金が無ければ人は鬼にもなり人を騙し殺すことも正当化できる。つまり「お金」が無ければ他人を助けようとする「優しさ」なども持てなくなる。
 落ちる気持ちを止められない、けれど落ちてる場合じゃない、頑張ろうと思うことも頑張るフリをすることも無理だ。 
 多分、私は今、どこか壊れていて、感情を爆発させたいけれど泣きたいのか笑いたいのかわからなくて混乱していることがよくある。恋人と一緒に居るときはひたすら話をしている。弾丸のように話続けている。そうやって吐き出すことによりバランスを保っている。

 この一週間、何度も司馬遼太郎の「二十一世紀に生きる君たちへ」を読み返した。急にこの本が読みたくてたまらなくなり本棚から取り出して、何度も何度もめくった。司馬遼太郎が小学生の教科書用に書いた文章なので短く、読みやすい。
 その一説、


「人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない」


 私には子供はいないし、これからも作ることはない。けれど、もしも子供がいたのならば、この一説を唱えて育てていきたい。賢くなくてもいい、美しくなくてもいい、たのもしい人格を形成して欲しいと。
 生きていくことは地獄だ。嫌なことや死にたくなる出来事、自分の力ではどうにもならないことがたくさん起こる。40年にも満たない私の人生にすらそういうことは起こったし、若い人達は更なる苦難とこれから間違いなく対峙するだろう。

 人は、歴史を学んで、そして古来から読まれ続けている物語をどんどんと読むべきだ。それは自分というひとりの人間が経験しえない大きな世界を手にいれることだから。その大きな世界には極楽もあれば地獄もある。
 今自分がいる世界、自分が見ているものだけが、全てではないのだと知るために歴史を学んで小説を読むこと――それが、「今」を生きぬくために必要な「たのもしい人格」を持つための手段の一つであることは間違いない。

 その「歴史」を紡ぎ続けた司馬遼太郎の「二十一世紀に生きる君たちへ」人が明るい未来を紡ぐための普遍的な心の持ち方が描かれているこの文章を、機会あれば読んでください。

 私がこの数日、この文章を何度も読まずにはいられなかったのは、情報の濁流に巻き込まれ落ちていく心が、絶望せぬよう病まぬようにと、「希望」を求めていたのだろう。心を守り、これから生きていくために。


二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)

二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ)