長恨歌

 それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
 天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。
 天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。でもこの悲しみは綿々と続いて絶える時はこないだろう。

                        ―長恨歌より―



 今更ながら、連休中のことなどを。

 21日は、京都の泉涌寺に行きました。天皇陛下在位二十年記念の夜間拝観が、期間限定で行われておりました。京都駅からシャトルバスが出ているのですが、せっかくなので歩こうと、1人で駅から七条通りを歩く。高校を出て大学に入学し、そして田舎に強制送還されるまで、ずっとこの辺りを転々としておりましたので、見知った場所です。
 薄暗くなる頃に、泉涌寺へ到着。
 
 清少納言の「枕草子」に「御寺といへば泉涌寺」と出てまいりますが、こちらは、御寺(みてら)・皇室と縁の深いお寺で、多くの天皇の葬儀が行われ、月輪陵に眠っておられます。
 仕事でも今まであまり行ったことがなく、夜間拝観も初めてなのですが、これが、素晴らしかったです。
 仕事上、お寺の夜間拝観など見慣れているのですが、今までになく感動してしまいました。門をくぐり坂の参道の下にライトアップされた本堂を見て、その荘厳さに立ち止まってしまい見とれました。
 コンサートも開放した場所で行われて、音楽が響き渡り、参道を花燈籠が照らし、日常を忘れ、闇と明かりに酔いました。
 天皇達が眠る夜の月輪陵も、静かで、本当に静かで、素晴らしかった。

 そしてこちらには「楊貴妃観音」があります。
 玄宗皇帝が楊貴妃を想い彫ったという伝承がある、大陸より伝わる観音様です。
 楊貴妃観音を見て、その美しさと柔らかい表情に私は合掌するのも忘れて見惚れてしまいました。


 冒頭に引用したのは白楽天の「長恨歌」です。
 唐の玄宗皇帝は、五十歳を過ぎてから、楊貴妃を愛し、溺れ、国が乱れ、その結果、側近たちが楊貴妃を殺すように進言し、玄宗はそれにやむおえず従い、楊貴妃は首を絞められ命を絶たれます。
 その悲恋を唄った詩が「長恨歌」。源氏物語など、日本の古典にも登場します。

 美しく悲しい漢の字の羅列ですので、一度ご覧になって下さい。
 
 泉涌寺楊貴妃観音は、微笑みを湛え、華やかで、もし玄宗の眼に見えていた楊貴妃の姿がこれならば、なんて崇高な姿だったのだろうと思う。
 いや、その手をすり抜けて、遠い世界に若く美しいままで去っていったからこそ、この姿なのか。
 手の届かない世界に、好きな人が消え去ること。
 「美しいままで思い出が残る」そう言えば聞こえはいいけれど、それは所詮他人が唱える奇麗ごとに過ぎない。
 老いて、皺皺のおばあちゃんになっても、共に手を繋いでいきていく方がいい。

 ましてや玄宗は、自らが楊貴妃を死に追いやったようなものだ。

 悲しみを身に纏った楊貴妃観音は、笑みを湛え、夜に佇んでいた。

 泉涌寺、付近の様々なお寺も公開しておりまして、どれこもれこ素晴らしかったです。平家物語、壇ノ浦の扇の的で有名な那須与一の墓がある即成院、や、東山の夜景が見事な秘田院、後水尾天皇の命を救った丈六釈迦如来戒光寺なども良かったです。


 11月にまた夜間拝観するそうです。



 23日は、大阪中崎町のプラネットプラスワンにて、豊田道倫ミニライブ&カンパニー松尾「YUMIKA 1989〜1990 REMIX」の上映に行ってまいりました。
 この「YUMIKA 1989〜1990 REMIX」というのは、若き日のカンパニー松尾監督が林由美香さんを撮った「硬式ペナス」「ラスト尿」を、彼女が亡くなった後に再編集された、30分の映像で、今まで東京でしか公開されなかったので、是非でも見たかった。

 「硬式ペナス」の編集中に、松尾さんは自分が彼女に恋していることに気づくのです。そしてこの作品を、彼女へのラブレターならぬラブビデオに、彼女のために作り上げます。このビデオがきっかけに、私小説風とも言われるテロップで自身の心情をも映しながらの詩的な作風が形成されます。そして、林さんが、最初にAVを引退した際の引退作が「ラスト尿」。この後、復帰し2004年に亡くなるまでにAV、ピンク映画で林由美香さんは活躍し続けました。
 「硬式ペナス」も「ラスト尿」も見ているのですが、改めて編集された「YUMIKA RIMIX」を見て、泣いてしまうかなぁと思ってた。画面の中の林由美香さんは、可愛くて、ラストの手を振って去っていく場面も、センチメンタルで、ちょっとホロっとはしたけれど、意外に冷静に見てしまった。
 松尾さんは、確かに由美香さんを好きだけど、セックスという仕事をしている「AV女優」という仕事に対して、複雑な感情と、自分ではどうにもできぬもどかしさと、自分もそこにかかわる矛盾も抱えていて(それは、平野勝之監督の「由美香」での、傷ついても、どうしてこの業界に居続けるんだ等の台詞にも現われている)、だからこそ、映像はセンチメンタルに撮られているけれど、そこに埋没しない。
 人を酔わせはするけれど、自分は酔わない。
 そういう意味では、松尾さんは、誠実ともいえる。
 でもだからこそ、もやもやしたものもある。
 だから、私はカンパニー松尾監督が、好きです。

 場内には、女のお客さんも半分ぐらい居て、豊田さんのファンか、あるいは松江哲明監督の「あんにょん由美香」で林由美香さんに興味を持ったのかなとも思ったんだけど、彼女達は、映し出される「初体験は、売春」「アナルセックスを経験」「体験人数は数十人、その中で付き合ったのは一人」と、臆することなく語る、19歳の少女と、彼女に恋しながらも、彼女が他の男とセックスするのを、フェラチオ、3P、顔面シャワーされるのを撮影する監督を、どう見たのだろうか。
 松尾さんが由美香さんに問いかけているとおり、「それが(セックスすること)が、仕事だということに、あなたは納得できるの?」と、いうことを。

 私はAV見るけど、まだ納得できない。
 AV女優に対して、松尾さんと同じ問いかけをしてしまう、未だに。
 自分が男で、好きな女性が、仕事とはいえ、他の男とセックスして、それが商品としてたくさんの人に見られたら、平気じゃない、きっと。

 それでも、林さんの答えのように「(AV辞めたら)、私じゃいられなくなっちゃう・・・イキイキしなくなっちゃうと思う」というのも、わかるのだ。


 カンパニー松尾監督の作品を見る度に、私はいつも、想う。
 男と女はどこまで行っても永遠に平行線で交わることがないのだと。
 交わろうと手を伸ばし触れるけれど、それは一瞬の触れあいに過ぎなくて、交われたと歓喜しても錯覚で、手に入らないものを求め続ける絶望と孤独がひりひりと痛い。

 松尾監督のAVを見ると、オナニーよりも、セックスがしたくなる。どうしようもなくセックスがしたくなる。それは、そうして永遠に交われない絶望と孤独が痛く、寂しいからだ。
 寂しい、寂しい、松尾さんのAVを見ると、いつも寂しい。寂しいから、セックスをたまらなくしたくなる。交われないとわかっているのに、だ。
 矛盾だらけの堂々めぐり。寂しいからセックスしたくて、だけど男と女は交われないことを思い知り、また寂しくて、セックスしたくて、寂しくて、セックスしても寂しくて、輪廻の如くぐるぐると泣きながら痛みながら回り続ける。
 だから、愛のない、初めから心を交わろうとも思わない、求めないし奪わないセックスの方が、孤独を埋めるにはむしろいいのではないかと思ってしまうのだ。
 
 愛のない、セックス。

 愛ある、好きな人との、恋人とのセックスだけが気持ちいいなんてことはない。幸せな気分にはなるけれど、それは怖さが裏に張り付いた幸せで、地獄が待ちうけていることもある。だって、男と女は平行線で、交わることはないんだもの。
 それならばむしろ、愛のない、未来のない、執着のない相手と一瞬だけ絡み合う方が、いいのかもしれない。

 愛のない、セックス。

 それでいいような気もするし、そうじゃないような気もする。

 セックス。

 うんざりするぐらい、欲しいもの。
 満たされないとは、わかっていても。
 交われないとは、わかっていても。

 だから、私はカンパニー松尾という人が好きだ。
 作品も、スタンスも、姿勢も。
 私が今、現代で一番リスペクトする「作家」です。




 時計を、少し戻して、泉涌寺の夜間拝観を見終わったあと、再び歩いて京都駅に向かいました。
 途中、昔住んでいたところの前を通りながら。

 20代の時に住んでいたこの場所は、「いい思い出がない」どころじゃない。
 悪い思い出しかない。

 男を殺して自分も死のうと考え続けていた永い日々。
 憎しみと妬みと殺意と孤独と悲しみに彷徨っていた場所。
 死にたくても死ねなかった日々。
 
 歩いていたら、昔の、嫌なこと、苦しいことを、次々と思い出した。


 だから、幸せになろう、幸せにならないといけないと、思いました。

 まだまだ、だけど。