ゆっくりとしたサヨナラ ―「猫の神様」東良美季・著― そして「鴨ちゃん」の訃報

hankinren2007-03-22




 私は動物に対して冷たい。これから先もきっと動物と暮らすことは無いだろう。犬や猫が擦り寄ってきても抱きしめることは無い。目を逸らして逃げてしまう。友人達は「どうしてそんなに動物に冷たいの?」と言う。きっと怖いんだろう。縋るような瞳で自分をまっすぐ見つめる小さな生き物が怖い。一旦抱きしめてしまって手を放す時の喪失感が怖い。あるいはお前なんか要らないと手を振りほどかれることも怖い。自分無しでは生きていけないような小さな弱い生き物と共存するのが怖い。明らかに自分より命の短い生き物と暮らすことは、必ず来る別れを約束されるということで、生きていく上での悲しみや寂しさという荷物を増やすことだから、私は怖い。


 私は子供を生むこともないだろう。自分のような人間の遺伝子を残したくもないし、ましてや一つの生命を育てることなんて無理だと思っているから。そして絶対的な愛情の対象を生み出すことも怖い。自分の中の「情」の深さも怖い。だから私が動物を飼えないのも、結婚も出産も出来ないだろうと思っているのも、根本は同じところに自分という人間の欠陥の根がある。ただそれを実際のところ苦には思っていない。そういうふうに生きてきたから。そういう自分の欠如を当たり前に受けとめているから。自分の中の欠如を生める為に他者を利用するよりは、ずっと一人で生きてきた方がいいと思っている。寂しい人生かも知れないけれども、孤独は私の親友であり恋人だから寂しくないよと、今は思う。だけど時折ふと、そういう自分のままで歳をとっていくことに惑いが生じる。自分には絶対に出来ないと思っていた、「かけがえのない誰かと共に生きていくこと」その暖かい光に触れた時に。


 その暖かい光は、本や、映画や、あるいは周りの人達から発せられる。その光に触れた時だけ、「寂しい自分」に戸惑う。



 書店から「ご注文の本が届きました」と携帯に電話があり、会社で仕事を終えると急ぎ足で本を取りに行った。書店で東良美季さんの「猫の神様」を受け取った後に久しぶりに映画館に行って映画を見た。見終わって家へ向かう電車に揺られながら本を読んでいた。家に戻り本を読み終えた。「かけがえのない誰かと共に生きていくこと」と、「その誰かを失うこと」について考えていた。そしてPCを立ち上げてmixi西原理恵子コミュで、西原さんの伴侶である「鴨ちゃん鴨志田穣さんの訃報を知った。享年42歳。西原さんの本はずっと読んでいたので、西原さんがアル中の鴨志田さんと離婚して、鴨志田さんのアル中の治療中に癌が発見され、それからまた家族で一緒に住み始めたことは知っていた。


 「猫の神様」は東良さんのブログをずっと読んでいる方はご存知でしょうが、東良さんと二匹の愛猫「みャ太」「ぎじゅ太」との出会いと別れ、そして共に生きてきた十数年を綴った物語です。

 
 人の数だけこの世には「物語」が存在する。どんな人間にも「物語」が存在する。誰もが自分の人生の中の物語の主人公で、「物語」は生きていく限り続いている。人生という物語の中には哀しい場面も楽しい場面も無数に存在していて、ただ、それを「悲劇」にするかハッピーエンドにするかは、主人公の物の見方、つまりは自分に起こりうる全ての出来事の捉え方次第なのだ。


 ある時から、「何かを失うこと」について考えるようになった。昔は「何かを得ること」しか考えていなかった。あれが欲しい、これが欲しいと、ガツガツと餓鬼のように人が持っているものが欲しかった。それが自分には必要なものか、そうでないかも考えずに、ただ人が持っているものが欲しかった。欲しいけど手に入らない、欲しいけれどもいざ手に入れると自分の思っていたものと違う。こんなはずじゃなかった、私の欲しいものはこれじゃないの、じゃあ何が欲しいの? わからない、わからないの、私は私の欲しいものがわからないの。わからないくせに欲しい欲しいと思う気持ちだけが身を焦がして、手に入らないことを世の中や他人のせいにしたり、自虐という逃避の理由にしてみたり。与えられないのは、誰のせい? 私のせい? 世の中のせい? 他人のせい?欲しいものが与えられない手に入らない誰が悪いの何もかも悪いせいよと、世の中を恨んでいた。愛して可愛がって私の欲しいものを与えてと餓鬼のように浅ましく生きていた私は自分しか見えなかった。私の世界には私しか存在していなかった。自分しか存在していない世界、それは閉ざされた、ある種の居心地の良さがある空間だった。


 求め続けても何も得られることはなく、むしろいろんな物を失ってしまってから、自分に必要じゃない物は欲しがってもしょうがない、自分が本当に必要とする物だけを求めて生きていこうと思うようになった。そうすると今度は「何かを得ること」ではなく「何かを失うこと」について考えるようになった。人は変わる、世の中は変わる、出会いもあれば別れもある。ずっと変わらないものなんて多分存在しない。今日愛してると言われても、明日は愛は終わったと告げられるかも知れない。今日、世界で一番好きだと思っていても、明日は別の人を世界一好きになっているかもしれない。
 そして人は、死ぬ。必ず死ぬ。さよならは突然やってくるかもしれない。別れの言葉を告げる前に、愛しているよと言う隙も与えずに突然やってくるかもしれない。突然の別れの後にいくら悔やんでも時間は戻ってこない。例え愛していると言い続けていても、もっと優しくして一緒にいればよかったと間違いなく人は悔やむだろう。もっと、もっと、愛してると全身全霊をかけて伝えてやればよかったと悔やみ続けるだろう。


 「何かを失うこと」を考えるようになってから、ますます「かけがえのない誰かと共に生きること」が怖くなった。まだ「何かを得ること」ばかりを考えていた時、それは自分の事しか考えていないということだから、その方が随分と気楽な状態だったということに気付いた。積極的に求めようとはしなくても、生きていくうちに必ず出会いがある。そして時にはその出会いがかけがえのない物となる。避けても逃げても出会うべき人とは出会ってしまうのだ。世の中の全ての出来事は偶然ではなく、必然性を帯びている。そしてその必然性には何か理由が間違いなく存在している。


 「何かを失うこと」が怖い。とてつもなく怖い。だけど「かけがえのない誰かと共に生きていくこと」の暖かい光に触れた時に自分の恐怖の正体が実は羨望である事にも気付かされる。本当に心の底から人と共存する事から逃げていたら、おそらく私はこういうふうにネットで文章を書くこともしてはいなかっただろう。誰かと触れ合いたい、一人じゃなく、人と触れ合って生きていきたい、失うのは怖いけれども、それでも人を求めてしまう。多分、だからこそ、こうやって一銭にもならない文章を書き続けている。



 西原さんが、鴨志田さんとの子供達との日々を綴った漫画は毒を吐きながらもこの上なく優しく暖かく、そして痛かった。家族を愛しながらも酒に逃げ込み自滅していく弱い夫と、その弱さを逃げずに受け止めながらも一度手を放してしまいhttp://www.toriatama.net/r40.htm別れてはみたけれども絆は断ちがたく、そして最期には共に暮らして死に向かう伴侶を見届けることを選択する妻。離婚したままなので、喪主は元妻となっているのが切ない。確か西原さんの実の父親は酒で亡くなって、義理の父親は自殺されていたと思う。自分の近い所にいる人が弱さで自滅していく姿と対峙する痛みは他人には計り知れないものであろう。だからこそ同情されたくもないだろう。同情されないためには、笑いながら強く生きていくしかない。


 「猫の神様」は、愛猫が病魔と闘い続ける姿が日常の静けさの中で描かれている。日常というものは静かなものだ。同じように朝が来て陽が昇り夜が来て陽が沈み、それが繰り返される。静かに流れる音楽のような日常の中で「かけがえのない大切な存在」の命の焔が、日に日に小さくなるのを飼い主は見つめている。見つめるしか出来ない。目を逸らして逃げることもできない。猫は言語を発せないので、ただその日常の共に暮らす時間の中で手探りで絆を辿り確かめることしか出来ない。約束されたサヨナラがやってくるまでは、そうすることしかできない。

 それでもその手探りで辿る絆は、細いながらも確かに存在していて、その糸のような絆は金色の光を放っている。


 昔見た、「ユキエ」という倍賞美津子主演の映画がある。アルツハイマーに犯され、時には子供の顔も名前もわからなくなることがある主人公が家族にこう告げる。
 「この病気は、あなたたちとのゆっくりとしたサヨナラだと思っているの」

 
 「猫の神様」には、その「ゆっくりとしたサヨナラ」が、描かれている。約束された別れの日までの、「ゆっくりとしたサヨナラ」の時間が流れている。病魔に苦しむ愛猫と、その痛みと対峙する飼い主との音楽のような時間が美しい文章で綴られている。


 「かけがえのない誰か」と、約束されたサヨナラの日へ向かう日常を綴る東良さんの文章と、西原さんの漫画を読んで、悲しみと優しさは似ていると思った。


 悲しみと優しさは似ている。もしかしたら同じなのかもしれない。そして悲しみも優しさも生きていく上で大切な感情なのだ。それは痛みを伴い時には心をえぐってしまう感情だけど、きっと大切で、人間にとって必要なものなのだろう。


 サヨナラだけが人生ならば。

 寂しさや悲しみや痛みから逃げずに、その春の陽射しのような暖かさを浴びて生きてゆこう。約束されたサヨナラの日まで、繋がれた細い金色の糸を辿り確かめながら生きてゆこう。生きていくということは、「ゆっくりとしたサヨナラ」の日々を過ごすことかもしれない。

 それでも確かに誰かを愛したという記憶だけは、全てが消えても宇宙の片隅で唯一の永遠の光を放つ星となり生き続ける。




 悲しみと優しさは似ている。
 どちらも、目が眩むばかりに、美しい。





「猫の神様」 東良美季・著 本日発売です。http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31861537
東良さんのブログ 「毎日jogjob日誌」http://jogjob.exblog.jp/
追想特急」http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/
新潮社のHPで期間限定ブログが読めます
http://www.shinchosha.co.jp/topics/nekokami/

 実は「猫の神様」には、わたくし「藩金蓮」も、こっそり登場しておりますので、よかったら読んでくださいませ。



猫の神様

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