わたしの京都遊び 〜交通費往復千円以内の旅〜


 最近、ホントに用事が無いと京都から出ない。買物も遊びも京都で事足りてしまう。事足りてしまうというか、京都で遊びたい。まだまだ知らないところ、行きたい場所だらけで、困ってしまう。何度も行きたい場所もある。
 そんなわたしの、最近の京都遊びのことなど。



雨林舎

 以前から行きたかった、二条駅の近くにある築70年の町家を改造した喫茶店です。雨をイメージした店内なので、こういう名前なのだとか。こんな感じの町家風のお店に来る度思うけれど、やはり木という素材は落ち着くし、触ると心地がいい、人間の肌に吸い付くようで。
 シンプルな食器に入った珈琲、あと、こちらホットケーキはレンゲ蜂蜜でいただけるのです。喫茶店だけではなく、2階はギャラリーになっており、展示やイベントなどもされている模様。
 私は最近は、家で、こちょこちょとパソコンに向かって書く作業をしていることが多いのですが、ずっとそれをやっているとたちまち眠気と怠けがやってくるし、なんだか頭の中に「新しいもの」が浮かんでこない。「ひらめく」ということは、いつも家の外で、思いがけないときにやってくるのです。そんなわけで、たまに近所のマクドナルドに行ったりもするのですが、こういう1人でじっくり考える作業、考え出す作業、推敲する作業が出来る場所を探しに、たまに交通費往復千円以内の旅に出ます。
 この日は例によってかんかん照りだったので、今度は、雨の日に、ここに来ようか。北野天満宮の天神さんで購入した、相合傘が出来るぐらいの大きな和傘をさして。




火裏蓮花

 火裏蓮花とは、中国の故事により、火の中のような逆境の中でさえ、さらに美しく強く咲く花――という意味だそうです。
 ネットで調べて「わかりにくい場所にある」と書いてあったので、住所を頼りに、京都の通り名のわらべ歌「丸竹夷」を歌いながら歩いて探しました。まるたけえびすに、おしおいけ〜あねさんろっかくたこにしき〜♪
 ふっと、何となく通り過ぎた路地裏に勘が働いて、難なく見つけたこのお店。ここは築100年あまりの民家を利用しているのだとか。こちらも木目調のテーブル、私は壁に向かったカウンター席に座る。1人だから、こういう席があるとありがたい、気兼ねなく、ゆっくり出来る。雨林舎でもそういう席に座った。テーブルに向かい合わせの席とかだと、もし混んできたら、1人客は居づらくなる。
 店の奥には小さなお庭が見える。そこから明かりが入ってきて、店内に花のような光を添える。
 ここでは「きびチーズのケーキ」をいただきました。・・・かなり、美味しい。極上と言ってもいいのではないのでしょうか。噂によると、カレーやピラフのお食事メニューも美味しいらしいので、今度はお昼を狙って行ってみようか。
 ここでもわたしはプリントアウトした50枚ほどの紙と睨みあいをして、推敲作業をする。私はいちいちプリントアウトして自分で赤を入れないと、駄目なのである。パソコン上だけの作業だと、すっきりいかないのだ。紙とインクの無駄だとは承知しているけれど。そして、集中して入り込む作業をする時は、こういう落ち着いた静かな喫茶店が一番捗るのだ。あと、物語を生み出す時にも。
 お店を出る時は、男性(オーナー?)が、扉の所まで見送ってくださった。カウンターの中から動かず、流れ作業に終われ「ありがとうございました」の声すらかけないお店にも慣れてしまっているが、こういうちょっとしたサービスをされるだけで、心が温かい火が燈ったような気になる。
 また、来よう。「丸竹夷」の歌を唄い、この路地裏を目指しながら探して来よう。





万華鏡ミュージアム

 この火裏蓮花さんを探して歩いている途中で、偶然見かけて入ってみた。小さな部屋に、様々な万華鏡。世界がぐるぐると、きらきらとまわっていた。いろんな万華鏡があり、いろんな景色が見えて、私はしばし時間を忘れて、ビーズや砂の音を聞きながら、「綺麗」という言葉が陳腐じゃなく相応しい場所で、まどろんだ。





銀月アパート

 以前からその存在は雑誌などで知っていた、左京区の伝説の銀月アパートに中に入らせていだたく機会に恵まれました。(基本、住民の方が住んでおられるので無関係の第三者が自由に出入りはしちゃだめです)
 行ったのは夜だったので、下記のような写真しか撮れませんでしたが、ネットをくぐるといろいろ出てきます。


 ここは昭和初期の洋風建築で、大島渚監督や、画家の竹久夢二が住んでいたという噂もあります。また、映画「クローズド・ノート」や、「鴨川ホルモー」のロケも行われています。勿論この季節は咲いていませんが、玄関のところには大きな枝垂れ桜があります。
 玄関から中に入り、見るからに時の流れを感じさせる階段を登ります。こちらはキッチン、トイレは共同、お風呂は無しです。トイレが、屋外・・・というか屋根の上のような場所にあり、ビックリ。男女共同だし。
 部屋は、もう、素敵としか言い様がない、見たことのない造りの部屋でした。窓の形も独特で、足を踏み入れた瞬間、「ここ住みたい!」と思ってしまった。
 実際、風呂無しトイレ台所共同は、今更住むのはキツいので、頑張って稼げるようになったら、ここを「別宅」にしたいと本気で考えた。いや、今も本気です。更なる「夢」が出来ました。

 ここのところ、「左京区」がすごく気になっています。京都市左京区。学生の街なので、古本屋が多く、ご飯も安く、ついでにいうと、ラーメン激戦区。なんだか、京都の中で一番「人が住むところ」という気がするのです。そんなわけで、最近、ハマっていることは「左京区」。私の中では左京区が熱い。
 左京区移住願望がむくむくと湧き上がっているのですが、今は仕事の関係で交通の便が良い場所から離れられない。だけど、いつか、左京区に住むか、別宅を構えられるようになりたい。
 学生が多く、カルチャーの発信地・・・といえば聞こえがいいのですが、わりと左京区は、どこか、社会という手のひらから漏れた人でも住み易い場所のような気がするのです。

 私なんぞ、結構ちゃんとした社会人・・・を演じるのがここ数年で上手になった。けれど、演技は所詮演技で、ドッと疲れが来ることがある。私は今、2つの世界で生きている。本名でのバスガイドさんとしての顔と、AV好きでエロの好きな物書き志望でブログを書き散らす「藩金蓮」。その2つを行き来しながら生きている。本当の自分がどっちかなんてわからないし、どっちも本当の自分なんだろう。社会で1人で生きていくために、私は演じることを覚えた。30歳を過ぎてから、若さもキャリアも美貌も金も無い男も居ない女た1人で生きていくために、演じることを覚えた。いつのまにか、それが、とても上手になった。けれど、いつまでこんなふうに、気をはって生きていかなければいけないんだろうと、たまに思う。駄目なわたしは、それなりに、頑張ったのだよ。けれど、生きていると、疲れてしまうことや、悲しいことも多くて、帰られる場所が、落ち着ける場所が欲しいという想いが強くなる。要するに、段々と寂しくなっているのだ。
 夏には柔軟剤をきかせたふわふわのシーツに裸で寝転がりその感触を楽しむように、冬には猫の毛のようにふかふかの毛布にくるまれて柔らかさに包み込まれるように、優しい場所が欲しい。優しくされる場所が。

 わたしは寂しい人だから、こうして旅を続けるのです。

 京都に住んでいると、往復の交通費が千円以内で、こんなにも、旅が出来きて、あたたかい場所を見つけることが出来る。