「ドキュメント ザ・オナニー」代々木忠監督

hankinren2009-06-21



「ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。
 しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。
 それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」
 しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところにはいると、地に流していた。
彼のしたことは主を怒らせたので、主は彼をも殺した」


            ― 旧約聖書・創世記第38章より ―



 オナニー(自慰)の語源は、上記・旧約聖書に登場するオナンの物語だと言われている。正確に言うと、オナンが主に罰せられた行為は自慰ではなく膣外射精である。しかし語義が転じて生殖を伴わない性行為として「オナニー」という言葉が使われるようになった。


 代々木忠監督(以下、敬称略)の「ザ・オナニー」を観ました。アテナ映像から発売されている作品集の全てを観たわけではないのですが、それはおいおいの楽しみにとっておき、今のところの感想などを書きます。

 1982年に劇場公開されたこの「ドキュメント・ザ・オナニー」シリーズは、まさに伝説だった。勿論、私はリアルタイムでは知らない。その作品を見た人達が書いた物を読むことでしか知る術を持たなかった。最近、「ザ・オナニー」を劇場で観て衝撃を受け、その後の人生が動かされた複数の方達にお逢いする機会があった。それほどまでの力がある作品なのだ。「性」の世界に惹かれて関わらずにはいられない人間のことを理解できないと嗤う人種も居るだろう。
 本来秘めるべき「性」を生業とすることはどこか後ろめたいことであるし、そうであるべきだ。子供には言えない、親や親戚にも言えない、恥ずかしいことであるし、そうあるべきだ。
 だからこそ、淫猥なのだから。 太陽の光の下に晒された性の礼賛には惹かれない。月明かりだけしか存在しない闇の中に蠢く性こそが官能の灯火となり身体を熱くする。
 秘められたるもの、その最たる行為が「オナニー」だ。


 最近、10年ほど前に出版されたエロ本の歴史などが書かれた本を読んでいる。そこにはビニ本コレクターとして有名な谷村新司氏をはじめ様々な男達が青春時代を彩った「ズリネタ」を熱く語る。
 私は男の真剣なズリネタ・オナニーの話が好きだ。常々リアル友人に対しても「オナニーしない男は嫌いだ!」と断言しているのだが、男のオナニー話は、どこか滑稽で哀切だ。(あまり身近な人とかをオカズにされたり、女を人間と思わないような種類の話は気持ち悪いですので空気を読みましょう)
 セックスの話は、自慢話になりやすいが、オナニーの話は猥談になる。

 オナニーは自分だけの為にある行為で、だからこそ他人が見ると滑稽で哀切で、そして、いやらしい。私は付き合う男が、彼自身の性器を触っているのを見るのが好きだ。それはどこかで作られた私自身の性癖だ。目の前の男が自分の性器を弄び扱き射精するのを、ただ、観ているという、つまりは鑑賞している行為が好きだ。
 AVで男優が自分の性器を触る行為などはなんとも思わないし、勿論露出狂の変質者に関しては論外だ。「死ね!」思うぐらいの不快感がある。

 今までに、3度ばかり露出狂に遭遇したことがある。最初は始発電車の中で、2度目は路地裏で、3度目は公衆電話で話をしていると、ガラス超しに押し付けられた。全て、自慰行為だった。知らない男に強制的にそんな行為を見せ付けられるなんて不愉快以外の何でもない。男のも女のも性器は、基本的には気持ちの悪いものだとしか思えない。だけど自分はやっぱり「オナニー」という行為に縁があるのではないかと、認めざるを得ない。

 AVの中の「オナニー」は、あくまで人に見せる「オナニーショー」だ。現実の女のオナニーなんて、もっと地味な行為ではないだろうか。他の女性がどういうオナニーをしているかわからないけれど、人に見せるオナニーと、家でこっそりとするオナニーは違うと私は思う。
 どれだけの女がオナニーしているのか、知らない。しない人もたくさんいるだろうし、自分自身も「AVは見るけれどオナニーはしない」と思われていて驚いたことがあるので、男性の中には女性の自慰行為を何か特別なものだと、男性のオナニーのように「日常」ではないのだと捕らえている人もいるのだろう。


 さて、代々木忠監督の「ザ・オナニー」である。1982年、今から27年前の作品である。今のような過激なアダルトビデオなんてまだ無かった時代、簡単に性に関するものが手に入らなかった、だからこそ人々が猛烈に餓えていた頃の作品である。

 普段、「女性視点でAVを見るとどう思われますか」と問われると、非常に困る。私の視点は、一般的な女性視点ではないと、他の女性と話をしてつくづく実感しているからだ。だけどこの作品に関しては、私は思い切り自分が「女」であることを感じながら観てしまった。どう自分は女だと感じたのか。それは自分の中の母性愛みたいなものがムクムクと沸きあがってきたからだ。

 「ザ・オナニー」は実にシンプルな作品である。一作品の時間は30分。登場するのは一人の女。そして、監督の代々木の「声」が彼女達に語りかけるのである。
 「結婚して何年?」などの何気ない世間話などから、代々木は何とかして彼女達の「隙間」に入ろうとする。わずかばかりの隙間を見つけると、言葉で気をひき、遂にはバイブを手渡す。恥じらい、照れて笑いながらも、それを股間にあてがい、いつのまにか女達はカメラの前でよがり狂うのだ。
 
 代々木は子供のようである。
 恥じらいを持ちつつ好奇心に溢れ、甘えたくてしょうがない子供のようだ。作り物ではない、「本当に女が感じるところ」、見世物ではない「女のオナニー」が見たくて見たくて、何とかしようと必死になり、だけど目の前の女を敬うからこそ、支配的になれない。
 代々木忠の中の猛烈なマザーコンプレックスを本作品で見せ付けられた。甘えたくて甘えたくてしょうがなくて、でもきっと彼は今までお母さんに甘えたことがなかったから、甘える術を知らず、そのまま胸に飛び込むこともできない。甘え下手の子供が、母親の着物の袖をひいている。お母さん、抱きしめてという言葉が胸に溢れているのに、出てこなくて、だから袖をひいて上目使いに気を引こうとする子供。母なる女を乞うて、思慕が募り、だけど甘える術を知らない子供。抱きしめられたことがないから、母の胸に飛び込んでいく術を知らぬ子供。

 プライドを捨て、必死に「女」を見たがる。プライドを捨てざるを得ないのだ。人は、本当に何かを欲する時、愛する時だけは、身を守る鎧を捨てることが出来る。
 そしてその鎧を捨てろ、自由になれということこそ、代々木忠が今尚、叫び続けていることだ。

 甘えたくてしょうがない。寂しくて寂しくてお母さんに甘えて抱きしめて貰いたくて、だけど上手く甘えられずに、必死になっている代々木忠に、「可愛い」という感情を私は抱いてしまった。私があなたのお母さんになって抱きしめてあげられたらとすら思うほど、代々木忠は「可愛い」人だった。

 そして女達は、鎧を脱ぎ捨て本気で、「見たがる」代々木の前で、彼女達自身も鎧を捨て、本気で「見せる」。秘めた行為である筈の、オナニーを、快感を見せる。さっきまで膝を揃え世間話などをして笑っていた筈の、バイブを見て「とんでもない」と恥らっていた筈の女が、代々木の「見たい」という欲望により、声をあげて乱れる。

 あんなふうに男が、いい年をした男がプライドを捨てて、必死になって「私」を見たがってる。そんな可愛い男を包み込んで抱きしめたくなるのだ、女は。だから男の望みに応え、「私」を見せる。
 男のオナニーは物理的な行為だ。溜まるから、出す。精液を放出する、排泄行為だ。だけど女のオナニーは、独りで快感を手に入れる行為である。
 だからこそ、人には言えない。
 オナニーしてますなんて言えない、恥ずかしいから。
 人に言えない恥ずかしい行為だからこそ、淫猥で、男達は見たがる。


 私がセックスの時に一番好きな瞬間は、男が果てる時だ。自分の上で、男が声を出し射精する瞬間。その時、なんとも言えない支配感と、愛おしさを覚える。この男は、わたしのものだ、と思う。どんな男も、イク時は無心で純粋な雄となる。だから目の前で果てる男が、可愛い。私は私の前で可愛くなってくれる男が好きだ。そういう時に、自分は女で良かったと思うことが出来る。多分、私は根源で男を憎んでいるからこそ、寝ないと、男を愛おしいと思うことが出来ない女なのだ。


 セックスは、性欲は、底なし沼で。
 どんなに過激なことをしても、たくさんの人としても、やってもやらずともどこにも辿り付けなくて、ふと我に返ると目の前に虚無の闇が見える。好きな人とやると一瞬だけ幸福な気分になれるけれど、だからこそ虚無の闇が深くなり袋小路に陥る。恋愛感情を伴わない割り切ったセックスだからこそ、快感を目の前の相手に委ねることが出来て、気持ちいいこともある。

 好きな人と、幸福なセックスしてわかったことがある。
 セックスで幸せになどなれないということだ。気持ちがいいからこそ、セックスは底なし沼だと、ずぶずぶと堕ちれば堕ちるほどどこにも辿り着けないのだ知った。

 底なし沼に嵌まってしまい、その闇に絡め獲られながらもうそこでしか生きられない。そうして堕ちて、堕ちて、男を憎みながら堕ちてしまえば地獄の臭いのするヘドロが身体に纏わりつく。私はかつて寝た男のうちの何人かを、深く憎み続けている。性の根源に憎しみがあるうちはセックスは快楽を伴う苦業だ。そんなセックスをする女も男もたくさん知っている。
 だからこそ、地獄にそのまま堕ちぬように、男を愛おしむ瞬間が必要なのだ、そう思うことが。そうしてその瞬間を欲し続けている。

 セックスがある限り、男は男で、女は女で、だから女である自分も愛しまねば生きていけない。

 薄暗い性の底なし沼を漂う私に、いつも代々木忠は見せてくれる。性と言う得体の知れないバケモノと共に生きていく術を。人間の中に巣食う、ある時は制御の効かない猛獣の如きバケモノの姿を。

 忘れちゃいけない。
 人間は性というバケモノに動かされ人を殺したり、犯罪を犯すことも多々あるのだということを。
 

 私はまだ、こうして男を愛おしむことが出来るうちは、生きていけそうな気がする。
 男を可愛いと思えるうちは。









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