出家と刺青


「だから私ね、決心したの。もう二度と男は作らないって。私と一緒になった男が可哀想になるのよ。私は1人で生きていく方が似合ってるわ。その方が幸せになるのよ」

      (中略)

「私、本当に男とは縁をきっぱり切ったのよ。その証拠、見せようか」


 かなり酩酊したナオミはとろんと潤んだような色っぽいまなざしを私に向けて言った。
 身体に男を寄せ付けぬ呪い(まじない)をした、と言うのである。  



         団鬼六著「妖花」より(新潮文庫『美少年』収録)



 にっかつロマンポルノでSMの女王とした活躍した谷ナオミを描いた短編「妖花」を読む度に、上記のやりとりの次の場面に快感にも似た戦慄が走る。

 女優を引退し実業家として成功をした谷ナオミは引退後も波乱万丈の人生を送り「自分は男を駄目にする女だ」と、かつて麻縄を食い込ませ数多くの人達を魅了したその背中に、「男を寄せ付けぬ呪い」と、背中一面に緋桜の刺青を施すのだ。「情が深く、とことん男に惚れる女」の背中を緋桜を見せられた団鬼六は、「バカだなぁ」と口にするも、その覚悟を痛感し、かつての多くの男達を魅了した「SMの女王」懐かしい姿に酔わされる。
 悲しく、美しい、緋桜に。


 ここ数年、ぼんやりとした願望のようなものがある。歳をとり、男を欲しいと思うことも、誰かに添いたい、肌に触れたいと思うことも、誰かと共に生きていこうということも、全て諦めることが出来て、男無しで1人で生きていく覚悟が出来たならば、もう男を求めないと誓えたならば、仏様に仕えよう、と。
 私は寺という場所が一番落ち着ける。何かあれば何かなくとも縋るように引き寄せられる。私には幸い夫も子供も居ないので「捨てる」という離苦を味わうことも無い。いつになるやらわからないけれど、男の肌を心を求めることが無くなれば、1人で寂しいと思うことも無くなれば、何らかの形で仏様の傍で死を待とうという願望がある。

 男運が悪いとか男を見る目が無いとかクズとばかり関わってきたとか自分の依存心の強さと男性不信の深さとか、いろいろな言葉に言い換えることは出来るのだろうけれど、一時期、本当に深く深く「このまま一生、自分は男とは上手く関係を作ることは出来ない」と墜ち、そのくせ男を欲する地獄の業火のような情念に囚われて絶望をしていた。いや、本当は絶望なんてしていないのだ。絶望してしまえば、「望みを絶って」しまえればいいのに、それが出来ないのだ。絶望して諦めてしまればいいのに。
 絶望しきれないのに墜ちることを繰り返し、訪れたのは、「虚無」だった。今でも心にはひゅるひゅると風が吹いてやまない。

 例えば快楽だけで満たされるのなら、それもいい。快楽だけの肉体関係を複数の男と持ち、それで満たされるならそれでいいじゃないかと、試みたこともあった。一瞬だけ身体と心が満たされるのなら、それもいいじゃないか、と。けれど本当に、それは一瞬、虚無を埋められるだけに過ぎなくて、何も私に残さず、風の音を強くするだけだった。時間が経てば経つほど寂しくなった。自分が欲しているものは、快楽だけではないのだ。
 
 男に惚れて、ロクなことにならない。お互いに。そしてどうやら自分は男には騙され易いということも最近気付いた。惚れると許してしまうから、見て見ぬふりしてしまうから。言葉をたやすくそのまま信じてしまうとバカを見るということも気付いたのは最近だ。結局のところ自分は、男を救おうと、傍にいて欲しいと愛されても好かれてもいないのを承知しながらも縋って言われるがままに貢いで自分で自分の首を絞めていた20代の頃と何も変わっちゃいないのだ。


 瀬戸内寂聴著・「比叡」を読んだ。筆者の自伝的小説。結婚、不倫、離婚を経て小説家として成功して経済的に自立し、家庭のある男との恋愛を繰り返していた筆者が愛欲を捨て、比叡山にて出家する物語である。

 以前、ある仕事関係者の男性と話していて瀬戸内寂聴先生の話になった時に、その男性は吐き捨てるように、こう言った。

「あんな、人の亭主と寝てる女の書いた物など読む気にならんわ」

 と。
 私は相槌を打てなかった。「私も実は人の亭主と寝ているんですよ。今まで寝た男はほとんど人の旦那です」と言いたい衝動にかられたが、言ってどうなるのだろう。
 昔は、既婚者や他に本命の女の居る男の方が都合がいいと思っていた。未来の無い関係だから、めんどうが無いと。だけどそれは大きな勘違いで、要するに私はそれまで関わってきた人のことを誰も本気で好きじゃなかったのだ。

 いずれにせよ、男と関わり合うことは本気になればなるほど面倒で、そして、とても、怖い。捨てられる恐怖、痛めつけられる恐怖、苦しめられる恐怖が蘇る。かつて数は少なくとも存在した筈の「楽しく幸福な恋愛の記憶」が、今は無い。いろいろあって、失われてしまい、自分には永遠に手に入るものでは無いと、だから男との関係で幸福などを求めることは早く諦めないといけないと近年、痛切に思う。それは身を守る卑怯な手段だということも十分承知だ。けれど、怖いのだ。今は悪夢しか蘇らない。

 今年に入ってから、「妖花」の谷ナオミのように、身体に刺青を施そうかと何度か考えた。今は生業の仕事の事があるから出来ないけれど、1人で生きていくために、「まじない」を背中に刻もうかと。彫るのなら、千手観音がいい。地獄の蓮の花の上に立ち衆生に手を差し伸べる千手観音が。そうすれば、諦められるのではないか。寂しさも悲しみも断ち切って1人で生きてけるのではないか、嫌な記憶を思い起こして恐怖で泣くことも無くなるのではないか、と。
 今年に入って、昔の男、妻子ある男に、1人であることを嘲笑され侮蔑された。ああ、そうか、ずっと哀れまれて蔑まれていたのかと初めてわかった。だけど私の孤独と、今までどんな想いをして生きていたのかは、経済的にも仕事にも家庭にも恵まれ、私を笑う男には一生、わからない。人の傷が一切わからないのだから。わからないまま死ぬだろう、そうやって同じことを繰り返し、知らないまま死ぬだろう。果たしてそれは幸福な死なのだろうか。

 40歳になったら、刺青を入れて、50歳になったら、出家をしよう。そう考えている。
 けれど、諦めることも絶望することも未だ遠く、業火は燃え続け小さくなることもない。まだ痛めつけられることや苦しむことが足りないのかと自分で自分に呆れる。とことん男を憎んだはずなのに、そうではなかった自分に呆れる。まだ信じている自分に呆れる。男と幸福になれるのではないかと未だ夢を見ている自分に。早く、早く、諦めてしまわねば。同じことを繰り返すことを、こんなにも怖がっているのだから。

 私の背中に千手観音が彫られたならば、1人で生きてく方が幸せなのだと、躊躇わずに言うことが出来るのだろうか。
 寂しさを飼いならし、強く、何物にも怯えずに、生きていくことが出来るのだろうか。


美少年 (新潮文庫)

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瀬戸内寂聴全集〈11〉長篇(8)

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