恋殉死

 私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行かうといふことを忘れたことのない甘つたるい人間だつた。私は結局地獄といふものに戦慄したためしはなく、馬鹿のやうにたわいもなく落付いてゐられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないといふ人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘つたるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様(まつさかさま)に落されてしまふ時があると考へてゐた。 

          「私は海を抱きしめていたい(坂口安吾)」より

 
 永平寺に行くすがら、私の頭の中で唱えられていた文章は、この坂口安吾の小説の冒頭部分だった。私は1人でいる時は、いつも何か物語のフレーズを唱えている。坊主が経を読むが如く。
 私もいつも極楽へ向かおうとしながら何故か地獄の門を叩く人間だ。両親を喜ばせようと入学した大学が肌に合わず中退し、初めての男を喜ばせようと救おうと金を貸し駄目にしてしまった。私は最初から誰かを哀しませようと意図したり苦しめようとはしていないのに、いつも大切な人と自分を不幸にする。だから、もう、最初から人のために生きようなどと考えないように、自分の心の流れに従おうとした頃から、少しはマシになったように思える。いや、もう、多分、地獄に堕ちてから、地獄を恐れなくなったのかもしれない。そのくせムシのいい考えを、誰かが幸せにしてくれるという考えを捨てきれずにいる、だから、ここに来たのだ。

 さて、永平寺シリーズは終わりましたが、その後のこと。
 永平寺をバスで後にして、福井駅に向かいました。外は、雪景色です。ただ、そんなに寒いとは思わなかった。京都の方がずっと寒い。
 福井駅の近くに、行きたい場所がありました。駅で大きな荷物をコインロッカーに預けて駅前の地図を頼りに歩く。閑散とした商店街を抜けて、そんな遠くない場所、建物の合間に小さな鳥居がありました。
 この鳥居は「柴田神社」の鳥居です。ここには、昔、「北の庄城」があった場所です。

 戦国時代、織田信長により朝倉氏が攻め滅ぼされた後、この地を授かり治めていたのが信長の家臣・柴田勝家です。信長が本能寺の変で亡くなった後、信長の妹・お市の方は3人の娘と共に柴田勝家に嫁ぎます。お市はかつて、浅井長政と結婚していましたが、夫の長政が兄の信長に攻め滅ぼされ、子供達と共に助け出されます。この時に長政との間に出来た男の子供は殺されたと伝えられています。
 お市柴田勝家と再婚しますが、その後に同じく信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉と勝家との間に争いが起こり、敗れた勝家は北の庄城で自害し、この際にお市も亡くなったと伝えられています。一説によると、勝家はお市に子供達を連れて秀吉の元に逃げるように説得したのを、お市は、「私は2度も夫を見殺しにするような女にはなりたくありません。ここであなたと死ぬのも前世からの因縁でしょう」と拒否した言われています。そして3人の娘達を託した後、勝家はお市を刺し殺し、自らは腹を掻き切って亡くなったそうです。助け出された3人の娘の長女が後に秀吉の側室となり豊臣家の跡取・秀頼を生んだ淀君、次女が京極高次に嫁いだ初、そして3女が来年の大河ドラマの主人公であります、お江。徳川2代将軍・秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光、千姫、そして後に後水尾天皇の妻となる和子を産んだ女性です。この和子が明正天皇を産みます。つまりは、お市の子孫達は、将軍となり、豊臣家の跡取となり、天皇となったのです。

 お市は絶世の美女と謡われており、様々な物語の中で、羽柴秀吉が猛烈に焦がれていた女性と描かれています。北の庄城で亡くなった時、お市は37歳、勝家は62歳だったそうです。北の庄城のあった場所に勝家を祀る為に作られたのが、この柴田神社です。

 北陸道をバスで走ると、お市浅井長政と過ごし子供達を産んだ小谷城跡の看板が見えます。仕事で柴田勝家と秀吉と戦った賤ヶ岳にも登ったことがあります。お市の方ゆかりの湖北と呼ばれる滋賀県の西北部は観音信仰が深く好きな場所で何度も訪れていますが、それだけではなく、このお市という女性には強く惹かれるものがあり、昔からこの方の亡くなった場所には一度訪れてみたいと思っておりました。

 柴田神社には、お市、そして勝家の像がありました。
 「恋みくじ」を引くと、大吉でした。今年、そっち方面でいいことあるかな・・・気配全くないけど。

 石垣等が多少は残っているけれど、周りは住宅やビルで、勿論昔の面影はありません。つわものどもの、夢の跡は。
 私はその後、神社を後にして福井駅で福井名物の「ミニソースカツ丼&越前蕎麦」を食べてサンダーバードに乗って琵琶湖を眺めながら京都に帰りました。


 山田風太郎が様々な人物の「死に様」を描いた名著・「人間臨終図鑑」という本があります。死を描いてあるのに滑稽で、私はきっと、もっと歳をとって死が迫った時に、この本を繰り返し読むだろうと思う。
 その本の中で、印象に残った2人の人物がいて、1人が石田吉蔵で、もう1人が柴田勝家です。石田吉蔵は、阿部定によりSMじみたセックスの延長で殺され、「好きな人のものだから」性器を切り取られた男です。風太郎は、この男の死に様を「この本に登場する人物の中で最も幸せな死に方をした人の1人」と描きます。
 そして勝家の死は、「柴田勝家は天下を取ることが出来なかったが、お市の方に共に死ぬことを選択され、秀吉よりも遥かに幸福な死に方」と、書かれています。(今手元に本が無いので微妙に違ってたらごめんなさい。ニュアンスはこんな感じです)

 私は山田風太郎のこういう感覚が、すごく好きで、たまらない。勝家や吉蔵の死に方を、「男として最高の幸福」と捕らえることの出来る感覚、こういう感覚に共感出来ることが嬉しいし、他に共感することの出来る男がいたら嬉しい。
 男が、恋に死ぬ時。恋で死ぬ時。それはとても、美しくて、私はゾクゾクする。男を恋で殺す女に焦がれる。恋に殉死する男を幸福だと思う。心中とは、また少し違う、恋と殉死する死に様。私は勝家の死は、そういう死だと捕らえる。
 お市の方が逃げることを拒否し、「一緒に死にたい」と願った時、勝家は至福の瞬間を味わったのではないかと想像する。

 山田風太郎という作家は、私の一番好きな作家なんですが、普通に結婚して家庭を営み知る限りは成人してからは平凡な家庭人だったように見えるのですが、作品を読むと、時折「恋の地獄と天国」を垣間見ることが出来て、この人は恋に焦がれ苦しみ地獄を見たことがあるんじゃないのだろうかと、推測するのです。
 特に、私のこの名前の由来ともなった「妖異金瓶梅」のラストシーンは、読む度に泣く。男と女の「恋の殉死」。どちらも片思いで、辿り着けない場所へ向かっているのだけれど、壮絶な恋の殉死。
 私は最初にこの小説を読んだ時に、こんなふうに「死なれたい」と思ったのだ。自分は死にたくはないけれど、こんなふうに「死なれたい」だからというわけではないけれど、ハンドルネームを「藩金蓮」にした。

 たまに、恋をするとモノが書けないという人とか、恋はモノを書いたり作る妨げになるという話などを聞くのですが、それはすごく私には、わからない。恋したら恋した状態で書けばいいんじゃないか、書かざるを得ないんじゃないかと思うから。
 私は今は恋をしていませんが、ブログを辿っていくと、恋で頭がのぼせ上がった状態の時に書いた記事とか幾つかあって、そしてそれはそういう状態の時しか書けない内容だから、貴重だな、と思う。で、書き残して良かったな、と思う。今は書けないから。
 
 冒頭に揚げた坂口安吾の小説やエッセイを読むと、恋という熱病に犯され、のた打ち回る苦しみを味わった人間にしか描けないもの、辿り着けない世界が多々ある。「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「恋愛論」は、相手を殺すしかこの苦しみから逃れる術はないのだと、いや、殺しても逃れられない、壮絶な苦しみから書かれた作品だと窺い知る。

 また、中島らもの恋愛エッセイの数々を読むと、上記の坂口安吾の文章の如く、壮絶な苦しみと至福を経験してきた人だからこそ描けるヒリヒリした「恋の話」が痛みを読む側にも与える。そのミステリアスで極上の「恋」は、奥さんの書いた本(http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070901#p1)の中でその正体を明かされ、私は恐怖すら感じた。

 何が言いたいのかというとですね。(ホントに最近文章にまとまりがない)
 恋をしていない、恋から逃げる男は、嫌いだ、つまらない、ということ。

 死にそうなほどの苦しみと、至福を味わえ、男達よ。
 そして恋の残骸の野原の中で佇み、人を憎め。
 全身の血が逆流するほどの憎悪に身を浸せ。
 「男の子」は、そうしないと「男」になれない。
 いつまでも童貞のまま、だ。

 童貞とか現実の女との接触から逃げているヤツなんて、私は嫌いだ。

 男なら恋で死ね、恋で女に殺されてみろ、恋に殉死しろ。
 いのちがけで、女に惚れるがいい。

 脚本家の大石静さんがエッセイで度々、「女の幸せは好きな男に抱かれること」と書いておられて、私も、そう思う。

 好きな男に抱かれる。
 そのことに意味はない、ただそれだけのこと。
 私の人生を振り返っても、その時が一番幸せな瞬間だった。
 そう、それは瞬間でしかない。
 だから好きな男に抱かれることは、寂しく哀しいことでもある。

 そして、願わくば、恋に殉死できる男に抱かれたい。
 いのちがけで女に惚れて恋で死んで女に恋で殺されたことのある男。

 結局のところ、「いい男」とは、そういう男のことだ。
 そして女の幸せは、「いい男」に抱かれることだ。

 もう一度言う。
 男なら恋で死ね、恋で女に殺されてみろ、恋に殉死しろ。
 いのちがけで、女に惚れるがいい。