私を奴隷にしてください


 あなたは縛られたことがあるだろうか。
 縛られて快感を感じたことがあるだろうか。
 縄に酔うたことがあるだろうか。


 「縛師 Bakushi」(監督・廣木隆一)を会社帰りにレンタルビデオ屋に立ち寄り借りて、観た。
 女を縛る男と、縛られる男、それを職業にしている者達のドキュメンタリー映画。予想通り、いろいろ考えさせられた。映画は非常に面白かったけれど、映画の感想より、個人的に思うことなど徒然に綴りてみる。


 「SM」の経験があるというと、驚かれるだろうか。SMは変態行為なのだろうか。そもそもどこまでが変態でどこまでが変態じゃないのかそのラインって何なんだろうか。
 セックスの延長で多少なりとも被虐・嗜虐行為など意識せずとも行われるのではないだろうか。セックスならずとも人間関係の中でしばし被虐・嗜虐は存在する。
 私はしばし、日常的に女性に対して「S」だと言われるし、自分でも好意を持つ女性に対して嗜虐的だと自覚する。実際のところ「好意を持つ女性」に対してだけではなく「性格」はサディストだ。攻撃的な性格で、相手を打ちのめすことに快感を覚えることもある。酷い人間だと自身で感心するが後悔も反省もしない。だからこそ、普段は怒りを抑えている。過剰な感情を持つことを自覚しているからこそ制御出来ぬ怒りを覚えた時に相手を立ち直れない程の暴力的な言葉の羅列で攻撃してしまいそうで、怖い。
 そして、それは快感なのだ。だからこそ抑えるのだ、「キレる」ことを。


 最初の男はクズだが、性癖はごくごくノーマルだった。次の男はサディストで、アブノーマルと言われるような行為を望み、「君は僕の奴隷だよ」と言い、私も喜んでそれを受け入れた。その後も、サディストばかりと関係した。結局のところ、無意識にしろ、自分が望んでいたのだろう、そういう関係を。その辺は「桜の墓」という題名で以前書いたから割愛するが、要するに痛めつけられることでしか自分は要求されないと思っていたのだ。ちなみに上記「桜の墓」では「自分は本当のマゾヒストではない」と書いていますが、今はこの時とは考えは変化しています。

 「奴隷」になっていた頃の求め方は不健全は形だったので、私は当時の自分をマゾヒストだと思いたくなかったのだけれど、それも一つの確かに存在した欲望の形ではあるのだ。ただ、破滅願望から来た欲望を、「殺されたい」という願いが根本にある欲望を持つことは、今は2度と、ごめんだ。

 だけど恋愛感情の無い相手とのセックスでも、激しく感じることがあり、愛情など無く、モノのように扱われることに快感を覚えることもあり、人間の欲望の得体の知れなさが怖い。


 数年付き合った恋人とは本当に仲が良かった。彼はある特殊な仕事をしていて、その仕事の為に私は会うとしばし縛られたし、様々な性具の実験台にもなった。それは実益を兼ねた1つの楽しい遊びであったし発見の連続だった。仲の良い恋人とのSM遊びは楽しかった。

 その恋人と別れてから縄に触れることも無くなった。蝋燭の熱さも、鞭の痛みも、性具で弄ばれながら公道を歩くことも、危険な場所での性行為も。
 そしてそうなって始めて、自分の性癖を知ったのだ。
 縄が無くても生きていける、けれど時折、恋しくもなる、縄が。戯れの、縄が。あの人の、縄が。汗をかき、縛る、男が。

 SMこそ、心を委ね、心を開く行為だから、誰彼かまわず出来ない、怖いから。普通の性行為よりハードルが高い。だからあれから「御主人様」は居ない。心を開き全てを預けられる信頼できる御主人様は。

 それに御主人様に、性行為だけではなく、生活と心の全てを依存してしまうのが何よりも怖い。私はそれをしでかしかねない。ロクなことにならないのはわかっている。第一、そんな関係は望んじゃいない。
 
 世の中にはセックスが嫌いな人や、セックスの話が嫌いな人や苦手な人もたくさんいて、そういう人から見たら軽蔑の対象になりかねないほど、私は性愛に拘る。自分でもうんざりするほど。

 だけど私は性愛の果てにある地獄と極楽を観たいのだ。しばし映画や小説に描かれているそれらを。そしてそこに辿り着かないと、人間を描くことなんて出来ないのではないかと思うのだ。性愛が描かれた物を好んで観たり読んだりしたがるのは、結局のところ人間の欲望が見たいのだ、知りたいのだ。人間の欲望を見なかったことにする者には、人間の、自分自身の肯定など出来ないのではないかと傲慢にも思う。


 私は私を愛する為に、性が描かれたモノを、求めているのです。

 「縛師」を観て、思い出してしまった。
 縄酔いを。
 残された縄の痕を。
 愛されたい、抱きしめられたいという切なる餓えと乾きを。



縛師 ―Bakushi― [DVD]

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