接吻地獄
キスは駄目だ。
最初の男と、一番初めにホテルへ行ったのは好奇心からだった。それまでは良い友人というか話相手に過ぎなかった。年齢も20歳以上離れていたし、彼には婚約者が居ることも知っていた。でもとても気が合う、一緒に居て楽しい人だった。飲みに行って、なんとなく誘われて、ホテルに行った。私は、処女でキスもしたことがなかった。お互い恋愛感情などなく、好奇心だけだったと思う。
初めてキスをした。
「下手だな」と言われた。
初めてなんだから当然じゃんと思った。
その日は、最後まではしなかった。それは、やはり好きな人のためにとっておけと言われた。朝方帰り道で、「俺は、○○(恋人の名前)と、結婚するから」と、言われた。それを私は、俺は恋人がいるから、こういうのは一度限りだというふうに解釈した。
しかし実際は違ったのだ。俺には本命の恋人がいるけど、それを承知してもらったうえでお前と関係を続ける、という意味だったのだ。そして、その言葉は後日「だって、俺には○○がいるって、最初から言ってたじゃないか、お前もそれを承知だったハズだ」と、私を責める時の為の保険でもあったのだ。
向こうから連絡してきて、また会った。キスをしようとすると、こう言われた。
「キスは気持ちが入るから、駄目だ」
と。
それからも会い続けた。何年間も。
その決して短くはない何年間かの間、何度か性行為はしたがキスは2度しかしなかった。
キスは駄目だと言われたけれども、何度か会い続けるうちに、私の方は恋愛感情のようなものが芽生えていたし、彼の顔と口を見ていると、どうしてもしたくなって、不意にしたことがある。
「駄目だって言っただろっ!」と、もの凄い勢いで怒鳴られた。
数年間、数え切れないくらい会い続けて、キスは最初と、その怒られた時との2度だけだ。
娼婦はセックスはしても、キスは許さないと聞いた時、自分がとても惨めで、悲しかった。私は金でこの男を買っているのだと思った。
キスは駄目だと言われた関係。その数年間で、元々しっかりしたものではなかった自分の女としての自信は、ほとんど皆無になった。好き合って、キスしてセックスして、そんな普通の当たり前の「恋愛」が出来ない。誰もが当たり前にやっていることができない。自分が女として欠陥があるのだろうと思った。そう思うと、他の男に行くどころじゃなくなる。こんな欠陥がある不良品女を、他の男が相手してくれるわけがない。キスもしたくないような、挿入とフェラだけの女。例え近寄る男がいても、自分の欠如を見抜かれそうで怖かった。こんな不良品女を相手してくれるのはこの人しかいないと、その男に対する執着を深めた。
女としての自信だけではない。支配欲が強く我の強いその男に、いろんな自信がこなごなにされた。お前は自分で思っているほど能力が無い、傲慢だ、などと。映画の話をしても、知ったかぶりをして偉そうにするなと怒られた。本の話をしてもそうだ。人の噂話をすると下品だと怒られた。あの芸能人が好きだとかいうと、馬鹿にされた。言葉使いも、いつも注意された。お前には文章を書く力はないよと言われて、それから10年近く文章がずっと書けなかった。何も言えなくなった、その人が喜ぶようなこと以外は。その人が喜びそうな本しか読めない。口を開けても、言葉が出てこない。私は喋らない女になった。私が言いたいことを口にすると、必ず怒られる。ずっと、敬語しか使えなかった。もしかしたら、元々はそんな人じゃ無かったのかも知れない。結婚すると言っていた婚約者とは、普通に委ねあって対等に付き合っているように見えた。だから、多分、全て私が悪いのだと思い、申し訳なくなり、その人の為に借金を重ねて働きまくり、お金を渡し続けていた。
その人に従っていたのは私自身の意志だ。従いたかったのだ。支配されたかったのだ。こんな不良品を必要としている人なんて、世界中探してもこの人しかいないと思い込んでいた。お前が一番俺を分かっている、そして俺はお前をわかっていると。そして、その人をそんなふうにしたのも私だった。キスさえ許されない、キスする資格も無い不良品の部屋に通ってくれるのは、その人だけだと、縋って、言う通りにして、自分だけじゃなくその人をも駄目にしたのは、私だ。
キスは何故駄目なのですか、何故気持ちが入ると駄目なのですか、と聞くと、こう答えられた。
「お前の為だ」
と。
「気持ちがお互い入ってしまうと、地獄しかない。お前には幸せになって欲しいから、駄目なんだ」
と。
私は、とっくに地獄に堕ちていたのに。
私には唇を許さない彼も、婚約者とは当たり前の恋人同士としてキスを何度もしているのだろうと思うと、地獄の底にいるような気分だった。
この世には二種類の女が存在する。
男に求められる女と、求められない惨めな女。
彼の婚約者は前者で、私は勿論後者だった。
彼と関係している間、一度だけ男友達のような人とキスをしたことがあるけど、それ以上のことは無かった。そして、そのうちいろんなことが破綻して、そのおかげというべきと言っていいのだろうか、数年の呪縛から逃れて別の男と付き合い始めた。その人との付き合いは短かったけれども、普通にキスをした。駄目だとか怒られなかった。そうして、やっと長い呪縛がとけた。キスの呪縛が。
私は30歳を過ぎていた。
あの男に捨てられると、世界が終わってしまうと思っていた。
時折鬱状態になり、死にたそうになると言っていた男。苦しかったけれども、自分は一生この男と一緒にいると思い込んでいた。一生、もう、キスは出来ないまま死ぬのだと。
男と婚約者は、結局結婚しなかった。私が、胸をかきむしられるように羨望した関係は何だったのだろう。
キスは駄目だという男と狭い世界で一緒に居た数年間は、映画やドラマのキスシーンも見られなかった。当たり前のように男女がすることが自分には許されない。したがると怒鳴られる。世の中で、こんな不幸なのは自分だけだと思った。裸になって挿入をしていても、性器を何度も口にしても、唇だけは許されない。
ドラマや映画のキスシーンを見ると、泣きそうになった。泣くこともあった。自分の唇を触る。この唇は性器を何度も咥えているのに、キスは2度しかしたことがない哀れな唇。
AVのキスシーンは、もっときつかった。平気じゃなかった。AVを見ながら欲情はするのに、キスの場面だけは胸が苦しかった。セックスも、SMも、レイプも、スカトロもなんてことないのに、キスだけは正視できなかった。自分は一生こんなふうにキスすることはないんだろうなと本気で思っていた。
人の舌や唇の感触も忘れていた。
それでも呪縛から逃れて、それなりにキスしたりセックスしたりということを繰り返し、だいぶ平気になったけれども、あの時期の私はこんなふうにキスをすることは一生ないんだろうなという絶望の感触は消えない。
だから今の私は、貪る、好きな人の唇を。
浅ましいほど貪ってしまう。
もう二度と、キスが駄目だとか言わないで。怒らないで。お願い。
私は、ずっとずっと、キスをしたかった。
頭がくらくらするほど、お互いの唇を貪りたかった。
あなたの唇を、貪りたい。
あさましいほど、欲しい。
唇が。