破滅の物語の終焉 ―「毎日かあさん 4巻 出戻り編」 著・西原理恵子 ―


 毎日新聞に連載されている西原家の日常を綴った「毎日かあさん」の1、2巻は、読み終えた後で妹に貸したので今手元に持っていない。
 私の末の妹は結婚して子供が2人いる。上が男の子で下が女の子。あんたんちと一緒だから、読んでみたら? と言って手渡した。


 妹は、高校を卒業し推薦で短大に入り卒業して地元に戻り堅実な職に就き、その職場で知り合った温厚な男性と結婚して2人の子供を生んだ。
 私はこの妹とは仲が良いのだけれど、彼女に対して劣等感がある。女の幸せは結婚して家族を作るものだと言う価値観の中で育ったのに、それが出来ないどころかいつも何もかもが破綻するような選択をしてしまい周囲の人間に多大なる迷惑と心配をかけ続けてきた私は、堅実な「親の望む理想的な」人生を歩んでいるかのように見える妹を見ていると自己嫌悪に陥ることがある。


 彼女は、そういう私に「お姉ちゃんは、(中退だけど)いい大学入ったり、本よく読んでるし、バスガイドしたり絵描いたり出来るやん。私は勉強も嫌いだし、何かとくにやりたいことや趣味もないし、お姉ちゃんみたいにいろいろ出来るのが羨ましいよ。」と、笑ってくれるので、私は救われる。


 私も妹も、それぞれが自分の出来ることを選択した人生であり、何も間違ってはいない。ただ、私が自分の両親に対して「親の望むような人生を送れない」ことで引け目を感じているだけだ。


 昨年、家を出る際に私は泣きながら「私みたいな人に迷惑ばかりかける人間の不良品は、結婚も出産もしちゃいけないんだ。だから『結婚しないといけない』とか『独りで居るのは不幸だ』とか言われると責められているようで息が詰まる」と親に言った。

 親は、「誰もあんたのことを不良品だなんて言ってない。ただ、今までのことがあるから何をしでかすか心配なんだ。」と言った。


 私は自分が自分を縛りつけて雁字搦めにしていることを知っている。他の誰でもない自分自身が。
 不幸になれ死んでしまえお前には未来など無いと私の耳元で囁きかける声は他の誰でもない私の声だ。

 本気で死ぬ気などない種類のタチの悪い卑怯な自殺願望に囚われて自分で自分を縛り付けている。

 死にたいから結婚など自分は出来るはずが無いと思っている。死にたいから子供を作るなどとんでもないと思っている。死にたいから未来の無い恋愛しか出来ずに自分を愛さない男ばかりを好きになる。死にたいから自分を愛してくれる人達に背を向けて逃げてしまう。
 死にたいから独りで生きて行こうと思い続けてきた。


 本気で死ぬ気が無い自殺願望を背負い生暖かい水の中に浮かびながら、ただ時間だけが澱んだ流れのように過ぎていく。


 私だけじゃない。世の中には「本気で死ぬ気など無い自殺願望」を背負い生きている人間が溢れかえっている。アルコール中毒摂食障害リストカットも様々な依存症も絶望的な気分になるセックスも自分を痛めつける男しか好きにならないことも全て死にたい、破滅したい願望故だ。


 本気で死にたい人間は、自分で自分を殺すことが出来るけれども、それが出来ない本気で死ぬ気が無いけれども死にたい人間は、誰かが何かが自分を殺してくれるのを待っていて、破滅の匂いのする甘い果実を貪り醜く生き続け腐臭を発している。


 誰か私を殺してくれないだろうか。


 
 自分で自分を痛めつけ苦しむ行為は三途の川の賽の河原で石を積む行為に似ている。
 これはこの世のことならず死出の山路の裾野なる賽の河原の物語、と謡われる地獄への道すがら、親より先に死んで親を悲しませた子供はその逆縁の罪故に賽の河原で石を積むという罰を科せられる。


 石を積む石を積む暗い河原で石を積む。

 積み上げても積み上げても地獄の鬼がそれを壊す。

 そしてまた石を積む石を積む石を積む。

 鬼が来る鬼が来る鬼が積み上げられた石の塔を壊す。

 それでもまた石を積まなければいけない石を積む石を積む泣きながら石を積む石を積むこれは自分の罪故の罰だからとただ泣きながら石を積む石を積む石を積む崩されることを約束されながら石を積む石を積む石を積む。


 背には鬼が石の塔を崩そうと待ち構えている。


 
 あなたは幸せになる権利があると、言われた。
 だけどあなたは、自分から幸せにならない道を選択してるんだよ。
 その通りだ。どうして私が好きになる人はいつも私に背を向けているのかと思っていたけれども背を向ける人を選んでいたのは自分だった。
 破滅を約束された関係に縋るのは賽の河原で石を積む行為だ。


 子供を欲しくない女は、恋をしちゃいけないと言われた。子供を欲しくない女が恋をすると不幸になる、と。
 多分その通りだ。死にたい女が求める恋は破滅を約束された恋だから、自分を痛めつけ殺そうとする自分を愛さない男を欲してしまう。


 西原理恵子さんの「毎日かあさん」の4巻は、「出戻り編」というサブタイトルの通り、アル中が原因で離婚した「元夫」が癌で余命一ヶ月の宣告されて残りの日々を家族で過ごそうと家に出戻ってきた日々が書き下ろしを加えられて描かれています。癌が宣告されるまで精神病院でアルコール中毒の治療の為に過ごした日々は鴨志田穣さんの「酔いがさめたら、おうちに帰ろう」で読めます。


 「スカな男選びの大名人」「私が付き合う男は皆、働かなくなっちゃう」「情が深すぎて男を駄目にする」西原さんと、アル中で妻に暴言を吐き罵りあいの夫婦喧嘩を繰り返し、妻の描いた絵を破り離婚を告げられた鴨志田さん。
 漫画やエッセイの中では、ユーモアを交えながら描かれているけれども、現実は殺し合いのような状態だったからこそ離婚に至ったのだろう。


 愛情があるから、逃げられないのか。
 愛情と依存は別物だと言ってしまうのは簡単なことだけれども、誰も本当は何が愛情で何が違うのかなんてことはわからない。

 読者に提供されたサービス精神満点のユーモア溢れる部分だけを読んで「家族って良いよね!」「素晴らしい愛情だよね」と「愛情溢れる家族の物語」として読んでしまうことも出来るだろうけれども、その部分だけしか読もうとしない人達とは私は係わり合いになりたくない。


 「スカな男選びの大名人」の女と、「アルコール依存症の男」、どちらも緩慢な死への道を選択して自分で自分を痛めつける病にとりつかれているように思える。それでも出会って好きになって家族を作ろうとして、「生きること」を選択した。

 何かを創るという行為、家族だけではなく例えば仕事でも何でも「創作」という行為は「生きよう」としている意志の表れだ。
 人は死ぬ。必ずいつか死ぬからこそ、生きている証を残そうと、何かを創ろうとする。


 死にたい人間が、生きる為に何かを創ろうとする。仕事であったり、家族であったり、「創る」ことは喜びだ。自分が生きていることの喜びを味わうために、これからも生きていこうとする為に何かを「創る」。自分の背に張り付く死の影から逃れるように、何かを創る。


 それでも人を縛り付ける鎖は頑丈で、破滅という果実はどうしようもなく甘くて、だから絶対にしちゃいけない行為、愛する大切な人を傷つけて自らがその手を放してしまうという行為に走ってしまう。

 せっかく積み上げた石を崩すのは地獄の鬼ではない。自分自身だ。自分で自分が積み上げた石の塔を崩し、その行為を繰り返し自らが招いた孤独にむせび泣く。


 大切な人に優しくする。ずっと一緒にいたいから、優しく守り助け合って生きていく。「愛情」を創りあげていく。生きていく為に、幸せになるために。
 とても単純なことであるはずなのに、どうして人は自分から手を放してしまうんだろう。


 死にたい人間こそがモノを創ろうとしているのかもしれない。文章であったり、何か作品であったり、卑怯な死神から逃れる為に何かを必死で創ろうとしているのかもしれない。
 そうやって何かを創ることにより生きよう生きようとしているのだけれども、死を願いながら生き続ける快楽が自分を壊し殺す相手を求めて破滅が約束された関係を作り上げてしまい自分で自分を苦しめる。


 だけど、生きたい。
 死にたいけれども、本当は生きたい。
 私は生きたい。
 

 「緩慢な自殺行為」であるアル中を克服した鴨志田さんは、皮肉にも「本物の死」と向かいあうこととなる。「本物の死」を目前にすることにより、西原さんと鴨志田さんは自らを縛りつける死の鎖を解き、生きていく為に「家族」を創りあげようとしたのではないだろうか。


 共依存関係だと言ってしまうことは簡単だけれども、「死」が約束された時に、何をしたいか、誰と居たいか、その時の答えに嘘は無いと思う。

 あなたと一緒にいたいんです。
 あなたと生きたいんです。
 あなたを愛しています。
 

 賽の河原で崩されることを約束された石を積み続けるという非生産的で不条理な行為に苦しむ子供達を救うのが、地蔵菩薩である。(だから地蔵盆ってのは子供達のお祭りなのね)
 地蔵菩薩は三途の川の賽の河原で不条理な罰を受ける子供に救済の手を差し伸べる。


 以前、六波羅蜜寺の閻魔像と地蔵菩薩像を見に行った時に驚いたことがある。地獄の閻魔大王というのは、実は地蔵菩薩の化身だという説があるらしいことをそこで知った。
 あの憤怒の形相で地獄で人を裁く閻魔大王が、慈悲仏である地蔵菩薩の化身とは如何なる所以か。

 私なりの解釈だけれども、我が身を呈してまでも人を救う慈悲仏である地蔵菩薩だからこそ、人を裁けるのではないか。
 逆に言うと、人を裁ける人間というのは自分より相手の事を大事にする人間ではないといけないのではないか。

 そうじゃない者は、他人を裁く権利など無いのだと思った。
 よく「身代わり地蔵」の話などがあるけれども、慈悲仏である地蔵菩薩は「人の為に死ねる」仏であるのだ。

 慈悲深いからこそ鬼の如く憤怒の表情で人を裁くことも時には必要なのかも知れない。


 人は誰でも多分、菩薩になれる。
 愛することによって、人を救える。
 菩薩が差し伸べた手を振りほどくことなくしっかり握れば、人は必ず救われる。

 鴨志田さんは、西原さんと子供達の手をしっかり握って救われたからこそ、病室で背中を向けて最期の日に、その「言葉」を彼女に伝えることが出来たのだと思う。
 自分を愛してくれた、大好きな彼女を救う「言葉」を。


 悲しみの物語は洗いたてのふわふわのシーツのように肌に優しくささくれ立った心を癒してくれる。
 どうか私に優しくして下さい。優しさが欲しいから、悲しみの物語を人は求めて泣くのです。自分で自分に優しくすると間違えてしまいそうなので、人が必要なのです。人に優しくされたい、優しくなりたい。
 

 これからも生きていくために。
 自分だけの力では卑怯な死神の手を振りほどくことは多分出来ないから。


 人は独りで生きていけないのではなくて、独りで生きちゃいけないのだと、思いました。


 破滅の物語を終焉させて、これからも生きていこうと、あなたが願うならば。

毎日かあさん4 出戻り編

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