巷に雨の降る如く

        巷に雨の降る如く 我が心にも涙降る
        かくも心に滲みいる この悲しみは何ならん
                       P・ヴェルレーヌ 




 「雨」という映画がある。あるいは「雨の欲情」。原作はサマセット・モーム。舞台は雨季の太平洋の島。そこにやってきたジョーン・クロフォードマレーネ・ディートリッヒいわく、ギョロ眼の醜い女。そういうディートリッヒは、三島由紀夫に西洋版おかめ呼ばわりされてるが)演じる娼婦、それに群がる男達、それを非難する敬虔な牧師夫婦。しかし牧師は神の名において、性の快楽に溺れる享楽的な男達と娼婦を更正させようとする。一度は更正して神の御子となったかのような娼婦。しかし、降り続く雨と、祭祀的な太鼓の音の中、最後には、牧師も娼婦の誘惑に陥落され、己の性欲に負けた絶望で海に身を投げ命を絶つ。




 私には血の繋がった兄や姉はいない。しかし、兄のような人が一人いた。19歳の時に出会った三つ上のその人は、私に仕事を教えてくれた人で、皆に慕われていた。リーダー的な存在で、快活で、面倒見が良い彼を、私も慕っていた。彼は、ある日、皆で行った旅行の船上で、私にこう言った。「お前は、いつまでも俺の妹でいろよ。」と。私も、彼を兄のように思っていた。


 学者一族の家に育った彼は、とても真面目で正義感の強い人だった。言うことは、とても筋が通っていて、説得力があり、その強さのようなものが、女を引きつけた。彼の後輩の中に、彼を好きだということを露骨に態度に出す一人の女がいた。彼女が彼のことを好きなのは、皆周知の事実だった。彼が就職試験に失敗して弱っている時に、彼女は彼の家に行き、それがきっかけで付き合い始めた。しかし彼は、「やっぱり後輩以上の感情は持てない」と、彼女に別れを告げた。
 その後、彼は卒業して関東に就職した。一年後彼女は彼を追いかけて関東に行って、その熱意に押されて復縁したが、やはり同じ理由でまた別れた。彼女は、彼が好きだ好きだこんなに激しく人を好きになったのは始めてだと自分の友人、彼の友人、自分の親に訴えた。彼が初めての人なのに!処女を捧げたのに!と。彼女の訴えは効果を出して、彼女があそこまで好きだと言ってるじゃないかと彼の友人は彼を説得し、彼女の親は、うちの娘を傷物にしてと彼に怒る。
 彼は、観念して、彼女と復縁して、結婚を決めた。未だに彼は、友人達に、「俺はこいつ(妻)にハメられたんだよ。」と冗談ぽく語る。



 彼女と結婚する前に、彼は私にこう言った。

「俺は、人を好きになったことがない。多分、これからも好きになることはないだろう。でも、人間は一人では生きていけない。いつかは結婚して家庭を持たないといけない。それなら自分の事を好きだと言う女と結婚した方がいいかな、と思った。責任とれって、向こうの親に言われたしな。」

 その時、彼はまだ20代半ばだし、人を好きにならないと決め付けるのもおかしいと思ったし、一人では生きていけないから結婚するのも、自分が相手を好きじゃないことを自覚しながら責任とって結婚するというのも失礼な話だと思ったのだが、それが彼の「正義」なのだろう。

 ただ、その時、私は、こう言いそうになった。

「もし、私が、彼女より先に、好きだと言ったら、私と結婚したのですか?」

 と。
 実際それはありえない話だった。私は、そこまで実際は彼に執着していなかったし、そんな告白をする自信も無かった。彼の妻になった女に比べて、私は美しくもなかった。
 あくまで彼と私は、兄と妹だった。その方が、楽だった。


 
 付き合っているつもりでいた二日に一度は家に来る年上の男のものを口に含んでいる時、こう言われた。

「これ、商売にしてみないか?」

 と。

 一瞬、その男が何を言っているのかわからなかった。冗談かと思った。

「お前は、それが好きだし、どうせなら、それで商売してみないか。いろんな男のがくわえられるし、金にもなるぞ。」

「それは、私に売春をしろと言っているのですか?」

「そういうことじゃないよ。本番は、さすがにあかんけど、お前はくわえるのが好きだから、どうかなと思ったんだけど。」


 私は、あなたが好きだから、あなたのものだから、それが好きだと言ったけれども、誰のでも好きなわけがない。誰でもいいわけではない。そんなことぐらいは、わかってくれると思っていたのに。私はあなたしか男を知らない。他の男を知ろうとも思わない。なのに、そこまでしてあなたは金が欲しいのか。私を売るのか。

 悲しくはなかった。泣きもしなかった。ただ、眼の前の男に一瞬本気で殺意を抱いただけだ。そして、それまでも自分の中にあった男という生き物への憎しみを自覚した。そう言わせてしまった、自分自身の性への憎悪も。

 お前の性を、売り物にしろと言った男は、この男だけではなかった。私は、娼婦なのか。あなたにとって。そう言わせてしまう、そう思われてしまう私の性を、私は憎んだ。



 兄と、数年前に久々に会った。彼は全く変わってなかった。外見も、中身も。しかし彼の語る言葉は、30を過ぎた私には、昔と違い、随分幼稚な綺麗ごとの羅列にしか聞こえなかった。彼の正義は、世間知らずの坊ちゃんの戯言に過ぎなかった。考えてみれは、彼は親のコネで入った一流企業で、「つまらない、向いてない仕事」を安定の為にしていて、そこで、「自分の正義を貫く」為に、上司と毎度毎度衝突して、しょっちゅう飛ばされていた。「仲間」とか「友情」とか「正義」とかの好きな彼には、年下の友達しかいない。自分に従ってくれる人間としか付き合えない。
 その最たるものが、彼に従うのが好きな、彼しか知らない彼の妻。彼が自分の妻を「愚妻」と称することに、私は驚いた。彼は、就職も、結婚も、自分の意思でしなかった。親や、周りに流されて、生きてきた。そんな脆弱な人間の「正義」は軽い。しかし、彼はそれに気づいていない。自分に従う人としか付き合わないからだ。


 彼は昔と変わらないのだ。正義感の強い正しい人のままだ。変わったのは、多分、私だ。彼の好きな言葉は、誠、貞節、友情、仲間。安定した仕事と、貞淑な妻と共に、仲間を大切にし、世間的に非の打ち所の無い生き方をする兄。


 しかし、そういう欺瞞さを薄々感じながらも、彼を利用していたのも私だ。10年以上も。面倒見の良い彼が、「妹」の為に、親身になってくれるのを知っていて、ずっと甘えていた。男と揉めた時には、その度に彼に相談した。彼ならなんとかしてくれるだろうとズルい私は知っていた。実際、彼は私の為に動いて尽力してくれた。それを彼の妻が良くは思っていないことを知っていても、私は兄を利用した。
 そういえば、昔は、彼の前でよく泣いた。お前は繊細だと言われた。お前には幸せになって欲しいと言われた。私は、私を肯定して甘えさせてくれる兄に頼っていた。
 

 しかし、「処女を奪った責任をとって結婚した」兄、おそらく妻以外には、ほとんど女を知らないだろう兄、性的な事を私が話すのを昔から非難していて、「女はそういうことを言ってはいけない」と叱っていた兄。兄の愚妻は、兄しか男を知らない。それは断言できる。恋愛や、セックスに対して、禁欲的で、享楽的に生きることを否定する賢い兄。

 そんな兄は、性欲に振り回され破滅的な生活を送る私に、同情するような、哀れみの眼を向けていた。それと同時に、私を恐れていた。正論を吐きながらも、自分が理解できない動きをする私に戸惑っていた。暴走してると、よく言われた。


 私に、お前はこれが好きだから、商売にしろと言った男は、兄とも知りあいだった。つかず離れずの擬似兄妹関係を続ける私に、彼は、こう聞いてきたことがある。


「あいつと、やってみたいか?」

 と。

 私は、笑って答えなかった。この男には、私達の欺瞞的な関係はお見通しだったのだ。そして私は、兄には無い、この男の、こういうところが好きだったのだ。自分と同じ種類の人間だから、安心できたのだ。



 『あたしの欲しいものは、何かと考えたとき、「セックスとお金」という二つのものが浮かんだわ。人の心?それはいらない。だって、裏切られた時、離れた時に、悲しいじゃない。その悲しさに耐えられる自信がないの。セックスは気持ちいいし、お金があればなんでも手にはいるわ。お金が無いのは、心まで貧しくする。そう思ったときに、あの男の声が、聞こえたの。「ほうら、やっぱりお前は、娼婦なんじゃないか。」と。ああそうだ。セックスとお金、それだけが欲しいと思うあたしは、娼婦だ。』



 兄と久々に会った時、兄の妻も一緒にいた。久々会う彼女は、相変わらず無邪気な無神経さと、愚妻と呼ばれることに恥じず、自分を愚かに人より下に見せかけて人に親しみ易さを覚えさせ「いい人」と思われる技を巧妙に身につけていた。私が、永く付き合っていた男について、彼女は、こう言った。

「別れてよかったね。ほんと、よかった。でも、よくあんなオッサンと、、、、、気持ち悪い。」


 そう言って、くすくす笑った。

 ああ、そうだ、この女は、私がその男と付き合い始めた時も、こう言った。その男には遠距離恋愛の恋人がいたので、「本命と離れて、溜まってたから、ついつい身近に手を出しちゃったんじゃない?」と。そうか、私は、溜まってたから、つい手を出しちゃう程度の、女なのか。代償行為なのか。性的な排泄処、そういう女なのか。



 自分の処女を売りにして自分の価値をあげて裕福な次男坊の妻となり安定した生活を手にいれた女、自分が愛されていないのを自覚しているけれども、それでもあらゆる手段を使ってその男を手にいれたその女、その男しか知らない女。あなたのいう「気持ち悪い」ほど、年上の貧乏な男との性関係に溺れて身を崩した私より、あなたの方が、よっぽどタチの悪い娼婦だよ、と、言ってやりたかった。人の男を気持ち悪いと笑うアンタは、汚れきった私と違って、さぞかし綺麗なマンコなんだろうね。



 本当は、兄とずっとセックスしたかった。愛でもなく、恋でもない感情で。ジョーン・クロフォード演じる娼婦のように、性欲や、性の享楽に溺れることを非難し、哀れみ、それらを悪と言う聖職者の仮面をはがしたかったのだ。はがして、めちゃくちゃにしてやりたかった。仮面をはいで、あらゆる手段で精を放ってやり、それを笑いたかった。ほうら、お前も、同じじゃないか。お前が非難する、お前が哀れむ、お前が恐れる者と、同じ人間じゃないか。その空論にしか過ぎない正義面に、快楽の声をあげさせたかった。私は、娼婦で、お前の妻とお前は聖者か。いいや、違う。同じだ。でも貞淑なお前の妻にはできないことも、あたしはやってみせる。


 性を売れという男も、性を非難する男も、憎んでいた。兄とセックスしたいという感情は、凶暴で破壊的な性欲以外の何ものでもない。娼婦となり、支配して、征服して、笑いたかった。そういう種類の性衝動も自分の中に確かに存在するのだ。それは、復讐なのかもしれない。男への。
 愛でもなく、恋でもなく、憎悪で、セックスしたかった。殺意に似た欲情を覚えていた。そんなセックスが、良いものであるわけないのは承知していたけれども、めちゃくちゃにしてやりたかったのだ。


 幸い、というべきか、あることがきっかけで、兄とはもう疎遠になった。セックスすることなど、これから先もありえない。だいたい、兄は、私に勃起はしないだろう。兄が見たくないものを、露悪的なほど見せ付けようとする私に。自分の性欲も、女の性欲も、世の中の「自分が理解できないもの」も、見ないふりをして聖職者のように生きる彼は、これからも、変わらないだろう。


 最初から、兄妹などではなかった。兄妹、男女の友情、それらの言葉に誤魔化された欺瞞的な男女関係のなんと卑怯なことだろうか。性的な欲望が存在しながら、距離を保ち、お互いの弱さを優しさという言葉に変換し、甘え合い許しあい、そのことで他者を傷つけることもある関係。セックスをしてしまえば、何かが始まるし、何かが終わる。それに付随する苦痛や悲しみを避ける為にお互いの欺瞞さを正当化していた。友情という言葉は便利だ。いろんなドロドロとした薄汚い庇い合いを正当化できる。
 我ながら反吐が出る。


  
 私の胸元には、無数の傷が今も血を流す。その中には、性を売れと言った男達の付けた傷もあれば、聖職者の顔をして私を哀れんだ男の付けた傷もある。お前のような人間はおかしいと言った男、お前が怖いと言った男、お前は女ではないと言った男の付けた傷もある。あるいは、あなたは性的排泄所だと言った女のつけた傷も。

 傷は、治ろうとしても、またその瘡蓋を剥がし血を噴出させる者がいるので、いつまでたっても治らない。瘡蓋を剥がすのは、私自身の手なのだけれども。自分を傷つけることでしか何もわからない人間、それも私だ。


 血を流す無数の傷を私は隠さない。胸元を曝け出して笑いながら生きてやろう。見たくないと眼を逸らす者もいるだろう、不愉快になる者もいるだろう。そんなことは慣れている。今更そんな程度のことで傷付きはしない。いや、例え傷ついたとしても、もう慣れた。痛みを感じずに生きていけることなんて、出来るわけがない。


 露悪的なまでに胸元を晒すこともあるだろう。多分、それで兄は、私から完全に離れていったのだ。そうなることを私は知っていたけれども、彼に、この傷を見せ付けて、彼の脆弱な正義とクソみたいな道徳を笑いたかった。
 もう、お前には用は無い。私の傷から目を逸らす男には、用などない。一生そうして、性や人間の業や自分の欲望から目をそらして生きていけばいい。もう、お前には、欲情しない。


 無数の傷と共に生きる。誰だってそうだ。私だけではない。皆、大なり小なり、傷から血を流しながら生きている。それならばいっそ、苦痛で顔をゆがめたり、傷を隠して無かったことにすることなく、笑いながら傷を晒して血を滴らせ生きよう。傷が多ければ多いほど、滴る血は雨の如く地上に降る。


 あの、娼婦は、幸福を手に入れたのだろうか。聖職者を征服して、神に勝利した娼婦は。それで満たされたのだろうか。



 雨は降り続く。
 憎しみの雨なのか、悲しみの雨なのか、もうわからない。いつになればこの雨はやむのだろうか。




 巷に雨の、降る如く。