「エロスの原風景」 松沢呉一・著


 いやらしいことをするのが好きですか。
 いやらしいものが、好きですか。
 わたしは、好きです。

 私は便宜上、AV、エロライターとか名乗ってはいるけれども、エロ媒体に近づけば近づく程に、乗り越えられない壁を感じてしまう。男には敵わないな、と思う。

 自分のセックスを、性欲を語ることなら幾らでも出来る。多いんだか少ないんだかよくわからない経験から思うことなどを、もういいよとうんざりされるぐらい語ることは出来る。

 だけど、エロというカテゴリーのの中の「オナニーの媒体」を、社会的に語ることだけは、どうしても男に敵わない。それはそういう媒体と共に歳をとっていくという歴史が女である自分には乏しいから。
 今でこそ何でも手に入る都会に住んではいるしインターネットというモノがあるから便利になったけれども、昔、自分にとってエロの媒体を手に入れることはそりゃあ難儀なことだった。恥ずかしい、変態だと思われる、軽蔑の眼差しを浴びるのが怖い。今だって、セルビデオ屋・レンタルショップの18禁コーナーには1人で入れない。
 何年も、エロ本とAVに焦がれた。
 勇気を出して買ったエロ本をボロボロになるまで使用した。そうして、飢え続けていた、エロの媒体に。

 エロ本もAVも男用に作られていて、男の人は簡単にそれを手にすることが出来て、そうしてオナニーの媒体と共に歳を重ねていくことが出来る。そのことが凄く羨ましかった。それらを容易に手にすることが出来るならば、男になりたいと幾たびも思った。
 自分も、性欲が芽生え始めた頃から、その「時代」のオナニーの媒体と共に年を重ねていけたのならば、雑誌や本で仕入れた知識だけではなく、肌で、身体でエロを感じて、もう少しマシに語れることが出来るのに。

 他のことでは、男なんて全然羨ましくないし、男より女の方が優れているとは思うけれど、そのことに関してだけは、男に羨望する。

 エロ本や、AV等のオナニー媒体に、使用目的を超えて惹かれる。
 人間の欲望の赤裸々な、恥ずかしい姿が描かれているからだ、その時代と共に。表に出せない、人に言えないものだから、面白い。人間の身体の一番感じる部分が常に隠されているように、心の一番感じる部分も日陰にひっそりと咲いている。そして一番感じる部分は、誰にも彼にも見せてはいけない、あなただけに、心を許し甘えられる特別な人だけに、開いて見せたい。

 性の欲望は、いけないことで、恥ずかしくて、いやらしくて、おもしろい。
 世の中に、これ以上に面白いものはないと、あたしはおもうの。

 いやらしいことをするのは、楽しいし気持ちいいから好きだけど、いやらしいことを考えるのも好き。
 例えば会わずとも電話やメールで、男と言葉遊びをしたり、言葉で嬲られたり。いやらしいことをしなくても、いやらしいことを考えるのも、好き。身体にいやらしいことをされるのも好きだけど、心にいやらしいことをされるのも、するのも好き。

 だから、エロ本や、AVが、好き。
 自分がいやらしいことを考えることも気持ちよくて好きだけど、自分以外の、世の中を真面目な顔をして歩いているそこいらの人間が、どんないやらしいことを考えているのか、それが描かれているのが、エロ本や、AVだから。
 そして、それらは時代と共に、社会の中で、変化し続けている。
 時代の、精液に塗れながら。
 

 非常に楽しみにしていた松沢呉一さんの「エロスの原風景」読みました。時代と共に日陰で行き続けて、男達の精子を栄養にして咲き続けてきた仇花・エロ本の記録と歴史です。オールカラーなのが、なまめかしい。
 この本に掲載されているエロ本は、どれぐらいの量の精液を放出させたのか。そんなことを考えると、うれしい。
 人間の誕生と同時に、何らかの形で精液を放出される媒体が存在していたはずなのだ。第一、私達そいう存在自体が、もともとは精子から誕生したものなんだもの。

 だから、だろうか、時折、自分の男のそれは、懐かしくいとおしい。

 おもろうて、やがて悲しき、エロスかな。
 それがないと、生きていけないの、わたし。
 あなたも。


 わたしはいやらしいことをするのも好きだけど。
 いやらしいことを考えるのは、もっと好きかもしれない。
 そういう自分をバカだと思ったり、愚かだと思ったりもするけど、好き。

 ああ、だって、世界と、私たちはエロスで出来ている。



エロスの原風景─江戸時代〜昭和50年代後半のエロ出版史

エロスの原風景─江戸時代〜昭和50年代後半のエロ出版史