失われた時を求めて


 また、胸元が締め付けられるように苦しくなって、喉元まで慙愧の念と焦燥感が込み上げてくる。
 
 苦しい。

 家にまっすぐに帰りたくなくて、仕事を終えてからいつも降りる駅を越して京都の繁華街へ向った。

 きっかけはいろいろだけど、ふとしたことで苦しくなり、失われた時間の大きさに目が眩む。

 私の20代は愚かで浅はかでその結果いろんなものを失ってしまった。神の如く仰いでいた一人の男への盲執で仕事も信頼もお金も失ってしまい、30代になってからは圧し掛かるそのツケに追われていた。
 しかし一番大きな「失われたもの」は、「時間」だった。

 私には20代は無かった。若さの特権として得られる多くの物に、自分の愚かさ故に触れることすら出来なかった。遊ぶことも、恋愛も、セックスも、そして何かを学び糧にすることも。
 怠惰で破滅的な生活を送り、30歳になったら死のうとずっと思って生きてきたから、未来など見ないようにしていたから、この先、自分が何になりたいとか、どう生きるかとか、考えないように考えないように目を瞑りながら堕落した恥ずかしく醜い日々を送っていた。


「あなたの夢は何ですか?」

 と、聞かれたことがある。

「夢なんて無いです」

 と、正直に答えた。生まれてくるべきではなかったクズだから、30歳になったら死にますから、夢なんて見ません、見てはいけないのです。


 結局死なずに生き延びて、これからも生きていこうと今は思って、未来のために、愛する人達のために、恥ずかしくない生き方をしようと走っているけれども。

 だけど、時折、自分が失った時間の大きさを想うと焦燥感で苦しくてたまらなくなる。
 自分より年下の人達が未来を夢見て生きようとしている姿を見ていると、20代の頃の自分の愚かさと醜い生き方と失われた時間と様々なことの重さを思うと、苦しくなる。呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。

 考えたくはないけれど、いつも捕われている。
 あまりにも自分は愚か過ぎたという想いに。
 あんなクズ男の為に、私は人生の大事な若くて力の溢れる20代を失ってしまったことを、今更悔やんでも仕方がないことだとわかっていながら、あの頃の自分があったから今の自分があるのだとわかっていながら、苦しい。

 失ったものは大き過ぎる。
 あの時代があったからこそ、今の自分は「幸せ」を過分に感じることが出来るのだとわかっているけれども、苦しい。

 痛い。失われた時間を想うと胸が痛む。


 今、30代後半で、走っても走っても、人よりハンデが大きくて、思うように走れずに何もつかめないまま、ただ年だけをとってある日いきなり死んでしまうのではないかと考えると怖くてたまらない。
 死ぬのが怖い。死んでしまったら、悔いて悔いて、今以上に悔いて、成仏なんで絶対に出来ない。

 人が当たり前に得ているものが、自分には遠いものだったという想いが拭えない。人にはそれぞれの苦労や哀しみがあることを、私だけが「不幸」ではないことは、わかっているはずだし、わからないといけないことなのに。
「あの頃は良かったね」なんて絶対に言えない。

 30歳になったら死のうと思って生きてきた20代。
 私はクズで生まれてきちゃいけない駄目人間だ死にたい死にたい死にたい誰か殺してくれと毎日願っていた醜い20代。

 ちゃんと生きようとしていればよかった。自分と世の中を憎むことで私の20代は終わった。ちゃんと生きようとしなかった罰を受け続けて、時折こうして苦しくてたまらなくなる。


 これからちゃんと生きようとして、全速力で走っても、誰にも追いつけず、途中で力尽きて倒れてしまうのではないかと思い苦しくなる。
 その迷いが、走るスピードを落としているのも知っているのに。


 普段はどうってことない。好きな仕事をして、たくさんの好きなこと楽しいことに触れて、自分は幸福だと思う。
 だけど、時折、ふとしたきっかけで、失われた時を思い苦しくて焦る。

 私はいつも焦っている。
 明日、死んだらどうしよう、と。死ぬのが怖い。焦って苦しい。焦り過ぎてて、生きていくのが辛いと思うこともしょっちゅうある。昔のように未来なんで夢見ずに、何も望まずに絶望しながら生きている方が楽なのではないかと思うこともある。
 私には20代は無かった。あるのは悔いと哀しみだけ。


 いつになったらこの焦燥感と慙愧の念から解放されるのか。解放されるためには、走り続けるしかないのか。
 
 
 その日も苦しくて家にまっすぐ帰りたくなくて、衝動的に以前から興味があった古い小学校を改築した建物の一角にある喫茶店に入った。

 失われた20代の頃に、唯一楽しい思い出があった。それは、京都の映画館で数年働いていた頃のこと。多分あの映画館で働いていなければ、あの人達と、あの作品と出会えなければ、私は自殺していただろうなと、珈琲を飲みながら考えていた。

 自分を救った場所や人や作品のことを思うと、いつしか胸を締め付ける苦しみは治まっていて、上機嫌で空を見ながら家に帰った。


 また、きっと苦しくなる。焦燥感と慙愧の念で泣きたくなる。そこから解放されるには、痛みを背負いながら走り続けるしかない。

 だけど疲れるから、逃げたくなることがあるから、こうして「数時間の旅」をするのです。
 逃げずに泣かずに弱音を吐かずに、未来だけを夢見て前向きに生きていくなんてことは、私には出来ないから。

 悲しい、苦しい、痛い、逃げたい、誰か助けて、そう想いながら、泣きながら、失われた時を求めて走り続けている。