花忌




3月某日 菜の花忌
 どこに行っても、一番良く耳にする名前ではあるけれど、一番実態が掴めない「伝説」である弘法大師空海への興味にかられて、司馬遼太郎空海の風景を読み始める。そういえば、東大阪市にある司馬遼太郎記念館にはいつか行こう行こうと思いつつ足を運んでいない。HPを見ると、記念館は菜の花の盛りだという。菜の花を愛した司馬遼太郎の命日2月12日を「菜の花忌」という。菜の花が咲いているうちに、おそらく日本で一番、歴史上の人物達の姿を借りて、これから生きていこうとする人間達に力を与えた巨人・司馬遼太郎の足跡を辿ろうと、ある土曜日、仕事を終えて近鉄電車に乗り、八戸ノ里駅へ。

 八戸ノ里駅から記念館までは菜の花の道が続いている。自宅に併設して作られた記念館へ行くすがら、司馬遼太郎が執筆していた書斎を庭から見ることができる。
 菜の花の咲いている時に来て良かった。薔薇や桜のような華やかさはないけれども、まっすぐに背を伸ばし凛としながらもこぼれそうな小さな花をつける菜の色の鮮やかさが、生きていくことに疲れ鬱々とした人の胸に優しい。菜の色は人に優しい。かつて坂本龍馬らの志士達を乗せた船が今に残る京都・伏見の酒蔵に色を添える菜の花を見る度にもそう思う。

 記念館は吹き抜けになっており、壁沿いに6万冊とも言われた司馬遼太郎の蔵書の一部が展示されている。日本及びアジアに関連するそのすさまじい個人の蔵書を目にして、「智」を得る欲求に想いを馳せた。司馬遼太郎という人は、なんて幸福な人なのだろう。「智」を得て我が身の血と肉とし、それをまた小説という形にして多くの人へ我が身の一部を提供するということの至福を想い、身体が震える。その快楽と法悦を糧として生涯を終えた巨人に敬服する。

 吹き抜けの天井には「坂本龍馬」のシミがある。ネットで事前に知ってはいたけれども、まさかと思っていた。だが、本当に坂本龍馬の肩から上の輪郭そっくりのシミが天井にあるのだ。土佐の「いごっそう」に合掌、感謝。

 記念館のホールの前には、司馬遼太郎が小学校6年生の教科書用に書いた「21世紀に生きる君たちへ」という文章が額に入れられ展示してある。

 私は子供がいない。これからも産むこともないだろう。だけどもし、自分に子供がいたら、この文章を読ませてやりたい。いや、全ての人に読んで欲しい。
 私も歴史が好きだ。よくよく考えてみると、子供の頃から一貫してずっと好きだったものは、この日本という国の歴史という最高に面白い「小説」だけのような気がする。もともとバスガイドになったきっかけも、大学の寮で本棚に私が司馬遼太郎の「竜馬がいく」を並べているのを見た同級生が「歴史が好きなら」と、その仕事を勧めてくれたのだった。歴史は面白く、生きる道筋を指し示し、前にある光のありかをそっと教えてくれる。


 司馬遼太郎が亡くなった国立大阪病院は、自身が描いた「花神」の主人公・大村益次郎が亡くなった場所でもあった。






3月某日  花神


 仕事関係で大阪について調べていて、大村益次郎と言う人物、そして彼や福沢諭吉が学んだ緒方洪庵の「適塾」に興味を持ち、「花神」を読み始める。司馬遼太郎は、上記の「21世紀に生きる君たちへ」の他に、小学校5年生の教科書用に緒方洪庵についても書いている。

 大村益次郎についてはほとんど知らなかった。長州出身で医学を緒方洪庵に学びながら何故か明治維新という大革命において新政府軍を勝利に導き、近代兵制の祖となり、維新の志士にふさわしくというべきか、暗殺者の手により非業の死を遂げることすらおぼろげにしか認識していなかった。

 「花神」というのは中国の言葉で花咲爺のことだそうな。革命の花を咲かせるために出でた「花神」が大村益次郎だった。「花神」は花を咲かせた後に、45歳で京都三条木屋町で凶刃をあびる坂本竜馬中岡慎太郎が殺された場所から歩いて5分もかからない。負傷した大村益次郎は、長州にいる妻の琴ではなく、弟子であり、生涯の「おんな」でもあったシーボルトの娘・女医者イネに献身的に看病されその人生に幕を降ろした。若くしての非業の死ではあるけれど、「仕事」を遂げ、愛する女に見守られての幸福な幕引きのように私には思える。その後、西南戦争を起こした「敬天愛人」の巨人・西郷隆盛は飯森山で武士として死に、その翌年大久保利通も紀尾井坂で凶刃を受け、革命の英傑達は皆この世から去る。既に高杉晋作吉田松陰坂本竜馬もこの世にはいない。






3月某日  桜忌

 その大村益次郎銅像があるのが東京の靖国神社である。数年前、まだ実家で旅行会社に居た頃、「遺族会」の靖国昇殿参拝の添乗の仕事をした。「遺族会」というのは、字の通り、第二次世界大戦で亡くなった人達の兄弟や息子さん達の会です。全国に「遺族会」はあります。
 その時に、生まれて初めて靖国神社に行った。「遺族会」の人達は靖国昇殿参拝の記念として、靖国神社と桜が彫られた盆を製作された。ご好意で、私の分も作っていただいた。

 私はその仕事を終えて家に帰り、その盆を母に見せた。その時初めて、家の仏壇にある亡くなった祖父の遺影が入っている額に添えてある桜の花が「靖国神社の桜」だと知ったのだ。
 祖父は戦争で大陸へ行き戦った。祖父の友達、そして弟は戦争で亡くなった。祖父も「遺族」だったのだ。そして祖父は、弟や友人達が奉られている靖国神社の桜を大事に持っており、母が祖父が亡くなった時に、遺影の額にその桜の花を添えたのだった。

 田舎なので実家には蔵がある。蔵の二階には祖父の軍服や千人針戦友達の名が記された日の丸の国旗などが今でもある。戦時中に祖父と祖母がやりとりしていた手紙類なども。祖父の亡くなった弟の写真も。

 以前も書いたけれども、私は祖父が亡くなる前に祖父に嘘をついた。大学の留年が決まっていたのだけれど、両親は祖父に心配かけないように卒業したと言いなさいと私に言ったのだ。祖父は私の嘘を信じて逝った。私は結局その後も卒業できずに中退し、そのままだらしのないロクでもない人生を送る。祖父は堕ちていく私のその後を見ずに済んでよかったのかもと思うことがある。祖父の中では私は「いい孫」だったから。だけど黄疸が出て日に日に痩せ衰える死にゆく人に、嘘を吐かざるをえなかった自分の愚かさが今でも恥ずかしく苦しい。


 だから、それからいろいろあって田舎に帰らざるを得なくなりながらも、それなりに働いて、仕事の延長で祖父が特別な想いを持っていた靖国神社の桜の彫られた盆を、祖父の仏壇に供えることが出来た時、少し救われたような気分になった。

 仕事で靖国神社に行った時は秋だった。ここの桜を見たいと思った。祖父の亡き弟や友人達への想いの象徴である靖国の桜をいつか見たいと、その時に空を眺めながら思っていたことを覚えている。


 祖父は自分の結婚記念日に亡くなった。桜の花と春の雪が舞っていた。祖父が亡くなった後、母は祖父の遺品を整理しながら泣き続けていた。祖父も亡くなる前に、血の繋がりのない「娘」である母が必死に介護してくれることに感謝して泣いていたらしい。母は祖父が亡くなった後、何度も祖父の持ち物などを見ては泣いていた。幽霊でもいいから逢いたいと言っていた。おじいちゃんは、ずっとこの家にいるとも言っていた。


 もうすぐ祖父の13回忌が訪れる。
 今年は仕事がそろそろ忙しくなるから無理だけど、いつか、江戸の靖国の桜を祖父の墓前に供えることができたなら。花神が咲かせた桜を。







3月某日  狂雲

 仕事(バスガイドの)が忙しくなる前に、行くべきところに行っておかねばと、午前中に仕事を終えて、京田辺市酬恩庵へ。一休狂雲という驚愕すべき生臭さ坊主が晩年を過ごしたお寺。一休狂雲については以前書いているのだけれど彼が77歳の時に出会った森女という盲目の女芸人と一緒に住み、精が匂い立つような生々しい性の唄を歌い続け、88歳で亡くなった場所でもある。


 一休の墓は、「後小松天皇皇子」の墓として皇室のしるしである菊の紋が施され宮内庁の管理となっていた。正月に「骸骨ほどめでたいものはない」と野晒しになった骸骨を手に都を練り歩き、権威を憎み、性を唄い、虚偽を憎み激しく攻撃し続け、「悪魔」とまで罵られた坊主は、皇室の人間として葬られていた。

 一休が森女と愛欲に耽ったその地は、枯山水の庭園がある閑静な禅寺だった。売店で、一休寺の香と念珠を購入。香は亡くなった人達の食べ物でもあるので、仏前から絶やしてはならぬのだ。また、人をその煙で清らかにするとも言われている。


 好きな女と性を貪りあい、「世間」の石の礫を浴びながらも、自分が憎むもの全てに背を向け、その生涯を禅に帰依し仏の元で終えた風狂坊主、一休。

 なんと幸福な人生なのだろう。


 この世界は芥に塗れたドブ川のようだ。腐臭で鼻が曲がりそうになる。道は吐瀉物と小便で足の踏み場もない。そして間違いなく我も君もそのドブ川を形成する汚物の一部なのだよ。自分だけは汚物ではないと本気で思う人間がいるなら、お願いだから私の目の前から消えてくれ、殺意さえ覚えてしまうことがあるから。だけど泥の中からも出ずる花があり、その花に仏は座し衆生を救おうと印を結び祈り続ける。芥と塵の水の中から美しい色を咲かせる花があるから歴史は血に塗れながらも滅ばずに人を生かす。



 それにしても桜はなんて寂しい花なんだろう。